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落語家パワハラ問題・三遊亭天歌の告発

2022 10/15(土)

落語家のパワハラが問題になっている。
三遊亭天歌が告発した、師匠・圓歌の件だ。
ご存じない方はネットニュースを検索して頂ければ、この問題が、即刻逮捕されてもいい犯罪事件だということが分かる。
記事を疑う人もいるだろうが、天歌、本人が長年に渡る師匠からの暴言、
暴行を録音し、証拠として残してきた事実もあり、信憑性は大いにあるといえるだろう。
俺は、天歌とは前座時代からずっと一緒に過ごしてきて、一番苦しかった時も天歌に助けられた。天歌は、優しい男だ。
俺自身、かつて、師匠の円丈から機嫌が悪くて破門されて、すぐに復帰して、活動する場がなかった時も、最初に俺に声をかけてくれたのが天歌だ。
「みんな俺を使いたがらないけど、いいのか?」
「なんでですか?はらしょう兄さん」
「一回、破門になった芸人だから、一緒にやると周りの目が気になるみたいで、天歌も俺と落語会をやったら周りからなんか言われるんじゃないか?」
「はらしょう兄さん、俺ははらしょう兄さんの芸が好きだから一緒にやりたいんです、周りの目なんかどうでもいい、面白いからやりたいんです」
その時、俺は泣きそうになった。
今でも覚えている、練馬豊玉のファミマに行く途中、スマホで電話した時のことだ。
天歌としゃべって、あの時は、真っ暗だった未来に一筋の光が見えた。
俺は嬉しくて、ファミマで1000円以上使った。
コンビニで1000円以上使う時は、未来が明るい時だ。
連雀亭の寄席に出られるようになったのも、天歌がきっかけになってくれた。まだまだ、あるが、きりがない位、恩がある。
そんな男が、芸人人生を賭けての告発。
俺自身も、師弟関係では理不尽な目には沢山あってきた。
その度に師匠を嫌いになったりもした。
だが、師匠、円丈は気分の浮き沈みは激しく理不尽なことを言うが、優しかった。いい人だった。
「俺はいい人なんだよ、ぴゃ~」と円丈はふざけて言っていたが、それは間違いないと思う。暴力などとは縁遠い人だった。
ただ、機嫌が悪い時に、二、三回、「ぴゃ~」と俺は頭をはたかれたことはあるが、全く痛くないし、特に腹も立たなかった。
なぜなら、俺の師匠・円丈は、いい人だったからである。
今回の、天歌の勇気ある告発は、自分の師匠が、いい人ではなかったということが大きな問題である。
師匠とは、尊敬できる人間のことである。
天歌から見て、師匠が、いい人ではないという時点で、それは、もう師匠ではない。
尊敬できない人の元にいるのはナンセンスだ。
赤裸々に告発した天歌は、YouTubeでも毎日、この問題について、なぜこれが問題であるのか、法律とは何の為にあるのかを発信し続けている。
そしてこれが多くの共感を呼んでいる。
だが、コンプライアンスに敏感なご時世だから、共感を得て一気に拡散したものの、数年前までは、落語家の当人ですらパワハラだという認識はなかったように思う。
そう、先輩の言うことは絶対である。
そもそも、概念として、まず、パワハラというものが存在しない。
入門したら先輩の言うことは絶対であり、自分が先輩になったら、後輩には好き勝手振る舞う。
もちろん、それはどんな時代も一部の人間だけであって、落語家の世界に入ったからといって、みんなそうなるとは限らない。
ごく一部だけである。
今まで沢山の落語家に接触しているが、いわゆる「カラスは白い」といった論理破綻を平然と言い続け、それを落語の粋、とすら本気で信じている方も一定数いた。
不幸なことに、それを影響力のある落語家がすると、影響力のない落語家が、その破綻した思考にどういう訳だか感銘され、俺の了見は間違っていた、後輩には無茶苦茶をしなければいけない、修行だ、俺は修行をさせている、こいつの為を思っているんだ、そうやって新人は育っていく、俺だって先輩に無理難題を言われてここまできた、そして立派な落語家になったのだ、それが芸の道なんだ、よ~し今日から早速、誰かに言い掛かりをつけてやろう~テメエこの野郎、おりゃ~これが修行だ!これが愛だ!などと洗脳されてしまう方も、本当に一定数いる。
こうして、また一人、パワハラーが増える。
パワハラーって、そんな言葉はないが、こんな言い方をしたら、ちょっとオシャレに聞こえるから、さらに増えてしまう。
大体、パワハラなんていう横文字がいけない。もっとダサい言葉にしないといけない。
段々、大喜利みたいになってきた。思いついた人はコメント欄に書き込んで下さい。
今から13年前、2009年、俺が入門して落語家の前座になったころ、
楽屋でよく言われたのは
「前座は人間ではない」という言葉だ。
落語史の中で、いつ誰が言い始めたのか分からない不思議な格言である。
入門直前までは、人間で、決まった瞬間から人間じゃなくなる、では何になったのだ?
そうか、人間から芸人になったんだ、今までは人の間だったけど、これからは芸の人なんだ、あれっ、人の間ってなんだ、まぁいい、とにかく芸の人になったんだ。
そんな風に解釈していた、だが、この格言には続きがあった。
「前座は芸人ではない」
えっ?どういうことだ。人間でもなければ、芸人でもない、これこそ俺は人の間なのか?などと混乱した。
一体全体、自分は何者なのか、ただ一つ分かることは「三遊亭はらしょう」という芸名だけである。
しかし、不思議なことに芸名は付いているが、芸人ではない。それを裏付けるように楽屋では、こう呼ばれる。
「おい!前座!」前座は楽屋に何人かいるので、全員が振り返る。誰かを呼んだ訳ではない、前座を呼んだのだ。
その中で一番、手が空いている前座が対応する。中には丁寧な方もいた。
「おい!前座さん!」
ほとんど変わらない。だが、実はこれは非常に極端な例で、大抵の先輩からは芸名で呼ばれる。
「おい!はらしょう!」
いくら丁寧に呼ばれても「おい!」の部分だけは、なぜか変わらない。
「おい!」と毎日呼ばれすぎて、当時、交番の前に貼ってあった指名手配犯の写真の「おい!小池」を見る度に、小池は前座なのかと思ってしまったぐらいだ。
ただ、そういう呼ばれ方をしたから嫌な気分になったということはない。
相手も悪意がある訳ではなく、ただ呼んでいるだけだから、つまり呼ばれて雑用をこなすのが前座の仕事だからである。
寄席はもちろん、落語の会では必ず雑用係が必要である。
ずっとそうやって助け合ってきた訳だ。
前座は、人間ではない、芸人ではない、は極論だが、そういう了見でやれば素直に雑用係をこなせられるということではないか。
しかし、今、思わず了見という言葉を使ったが、落語家というのは何かにつけて了見というフレーズを使いたがる。
成程、こういう時に使うのに実に便利な言葉である。
さて、今回のパワハラ問題であるが、大いに落語家の了見に引っかかる行為である。
それは、被害者は前座ではなく、あと数年で真打になる立派な芸人、それも落語を生業にしているプロの落語家であるからだ。
プロが、師匠から暴力、暴言を受けているということだ。正確には、前座のころから受け続けているのだ。
前座だったらいいのか、もちろん、いい訳はない。あくまで百歩譲っての話だ。いや、百歩譲ってというのもおかしな了見だ。
理不尽な暴力、暴言は絶対にいけない。
俺は実話を新作落語にするドキュメンタリー落語をやっているので、その形で、これからも、どんどん発信していこうと思う。
現在進行形の、落語家パワハラ問題。
こんなことは、了見という言葉が大好きな落語家の、了見に反しているではないか。

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