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やっぱりコアがいいという話

 子供の頃思っていたことがある。多分みんな口に出さないだけで思ってはいたことではないだろうか。

 僕が子供の頃、理科や保健体育の授業で人体の勉強をしているとき毎回思うことがあった。それは

”僕には内臓があって欲しくない”

ということだ。何も死に急いでるわけではない、ただ教科書や人体模型に描かれた内臓は子供の僕にはあまりにもグロテスクで自分の中にこんなものがあるということがどうにも許容できなかったのだ。あまりにも現実的だった人間の中身を絵や図で見るたびに僕は力が抜けていった。

 僕の中身はこんなものじゃ嫌だ。心底そう思った僕は理想の自分の中身を考えた、今考えれば漫画なんかによくある表現なのだが、当時の僕はまるで大発明のように

 ”僕の中身はコアが1つあるのがいい”

と考えた。僕の中身は空洞で、暗闇の中を結晶のような物が物理法則に逆らって浮いている。僕の人体はその結晶から発生した粒子が生み出した全く未解明の物質で構成されているスーパー例外人間がいいと。あのグロテスクな内臓なんて言うのは僕の中には入ってなくて綺麗な結晶を本体とした超常的な存在でありたいと思った。僕だけはそうであってくれと祈ったりもした。
何でも思ったことを口にしていた当時クラスメイトに真剣にそのことを話すと「なにそれウケる」と言われた。当時の僕は『あいつもコアであってくれ。そうすれば俺があいつのコアの20%を吸収してやる』と思った。コアがどんなものなのか自分でも分かっていなかったのだろう。

 そこから少し歳月を経て、僕は未だ内臓の絵を見たりするのは苦手だが、自分にも内臓があるということを受け入れた。現実主義を気取り始めた僕は『内臓あった方がよくね』論を唱え始めたのだ。例えば僕の中身がコアで出来ていてそのコアに不具合が出たとして、病院に行ったとき「コアの調子が悪くて」なんて言ったところで別のコアの心配をされるだけだろう。よしんば中身がコアだけでできていることを確認できたところでよくわからない研究所送りにされるのが関の山だ。医者は既存の人体しか治せないし、既存の人体のほうがサンプルが多いのだから治療法が確立されていていいじゃないかと考えた。僕は冷めた振りをすることに一生懸命だったのだ、どうせ望んだところで手にすることのできない理想なのだから、手にしない理由をつけた方が幸せに過ごせる。…僕は酸っぱい葡萄を後にした。

そんな現実主義があって、そんな僕がそれなりの経験をして、今思うのはやはり僕はコアで出来ていたいということである。病院に行けなくなったとしても、通常の人体で受けられる恩恵がなくなったとしても僕はコアを中心とした生命体でありたいのだ。以前抱いていた理由とは少し違う。あの頃のようにコア体になったことを自慢することも口外することもないだろう。優越感や承認欲求ともまた違うと思う。しかし、今の僕はコア生命体になることで強く生きられそうな気がしてならない。他の人と同じ生活を送って同じように過ごしていくのだとしても僕が僕をコア生命体だと知っているのが重要なのだ。それだけで変わるものもあるはずだ。

そう、僕は今もコアがいい。


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