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京住日誌 15日目

 京都にやってきて2週間が経過し、月替わりの今日。あっという間だった。残り4週間だがぼやぼやしていたらこれまたあっという間に過ぎてしまうだろう。焦りは禁物だが与えられた時間は思ったより長くはないことを肝に銘じようと思う。

 応仁の乱を通して京都を体感したいと奮闘している。応仁の乱のあった室町時代に限らないし、もしかしたら日本だけの問題ではないかもしれないことで常に頭にあるのが家督を引き継ぐ、つまりは相続問題だ。よく言われることだが、応仁の乱の大きなきっかけの一つが相続問題である。この日誌でも繰り返しているように畠山家の家督を義就が継ぐのか、政長が継ぐのかで争った。いくら名家とはいえ、本来は畠山家の問題で日本史を揺るがすようなものではないはずだ。それが大問題になったのは次のような理由である。
①室町時代において畠山家が管領家で、管領家は世襲制であった 
 こと。家督を引き継ぐ=管領家を引き継ぐことであり、権力の  
 源となっていたこと。同時に各人の家臣団の利害にも関わり潜 
 在的に争いの温床となっていたこと
②権力者の家督は時の権力者(足利将軍)の承認を得なければな
 らなかったこと。将軍との関係性その他の理由によりしばしば 
 その承認を巡って様々な問題が起こり、家督権を巡る争いを混 
 迷させより複雑にした。
③どの権利者の家も家督の引き継ぎに頭を悩ませていたこと。そ
 してその成否が家の隆盛に大きく関わっていたこと。
④③のため、他家の相続問題に無関心でいられなかったこと。

まず①についてだが、権力者の役職は基本世襲制で、家督を継いだ者がその役職を継ぐことになる。畠山家は管領家(将軍に継ぐナンバー2。管領家は細川家、畠山家、斯波家だけ)で畠山家の当主になれば自動的に?大きな権力を手にすることなる。そのため、家督候補者についたそれぞれの家臣団からの突き上げもあり、簡単に引く(家督を諦める)ことはできない。ただし、家臣団も必ずしも一枚岩でなはなく、しばしば簡単に主君を裏切ることがある。
②応仁記(応仁の乱を記録した軍記物語)に次のようにある。

 畠山家の両家も、文安元年(一四四四)甲子より今年にいたるまで二十四年のあいだに(将軍家から)互いに勘当をこうむったことは三度、釈免されたことは三度に及んだ。(中略)
 また、武衛両家(斯波義敏・義兼)がわずか二十年のあいだに改動(職や地位を改め動かすこと)されたことは二度である。
応仁記巻第一乱前御晴のこと

 足利将軍家はその権利基盤の弱さと将軍家自体の相続問題から、言を左右し、承認した家督をしばしば取り消したり、再承認したりした。「応仁記」の「三度云々」とはこのことを指す。特に応仁の乱勃発当時の将軍であった足利義政は優柔不断で決断力に乏しく、混乱に拍車をかけ、単なる?畠山家の家督問題を大問題(つまり戦乱)にしたと言われる。
そしてあまり指摘されないようだが、③④も応仁の乱を複雑化かつ長期化させた大きな要素であると思う。そこで当時の関係者における相続問題を俯瞰してみよう。

 その1 足利将軍家の場合
 八代将軍足利義政には嫡男がいなかった。自分は男子を授からないと思い込んだのか、出家し浄土寺(浄土院)で僧侶になっていた弟義尋に家督を譲る約束をした。その辺りの事情を歴史小説「血と炎の京 私本応仁の乱」(朝松健 著 文春文庫)から引用する

 義政は、ある日、出家した実弟で、三歳年下の浄土寺義尋を室町第に呼びだした。 そして義尋に、「将軍職をお前に譲るから還俗せよ」と持ちかけたのだ。 義尋はこの申し出に涙を流して喜び、早速還俗した。
血と炎の京 第二篇地の底の戦場

 ご存じのようにこの約束は果たされなかった。義政がこの約束をした直後、正室の日野富子が男子(義尚)を妊娠・出産したからだ。立場がないのは義尋から改名した義視である。そしてさまざな思惑から室町幕府の権力者たちは義政・義尚派、義視派、富子派に分裂し、いつ終わるともしれない争いを継続することになる。応仁の乱が単に畠山家の家督問題に終わらなかったのは、足利将軍家の家督問題と複雑に絡み合ったからだ。

その2 畠山家の場合
足利将軍家と同じようなことが畠山家でも起こっていた。時系列でいえば足利将軍家よりこちらの方が先に起こっている。
 畠山家の当主畠山持国は紆余曲折はあったが異母兄弟(弟)持富を次期家督承継者に指名し、将軍家の承認も得ていた。ところが妾の子(義就)を12歳になると元服させて畠山家の家督承継者としたのだ。この決定に持富は異議を唱えず亡くなったが、納得いかないのは持富の家臣団だ。嫡男弥三郎を担いで、持国の決定に対抗しようと画策する。畠山持国と何かと因縁のある同じ管領家の細川勝元を味方に引き入れることてその支援を受け、持国を隠居させ、義就を伊賀に追いやった。しかし一旦引き下がった義就は今度は足利義政の支援を受け(この辺りでもう訳わかりませんな)逆に弥三郎を退けた。結果、義就は再び畠山家の家督が許され、同時に上洛も許された。これで畠山家の家督は義就が継ぐことになり、争いは終わると思われた。しかしゾンビのように弥三郎家臣団は蘇る。弥三郎が亡くなると今度はその弟の政長を立て、義就に対抗しようとする。政長は細川勝元だけでなく、山名宗全(室町幕府の四織の家柄。警察権、徴税権を持つ)の支援を受け、義就を吉野に追いやることに成功した。そして宗全、勝元の後ろ盾により、足利義政に畠山家の家督を政長に譲ることを承認させたのだ。
 ところがしかしである。同盟を結んでいた細川勝元と山名宗全(宗全の娘は勝元の正室だ。宗全は舅である)は時と共に利害関係が対立するようになる。そこで宗全は勝元への対抗から、蟄居していた義就を担ぎ出すべく、上洛させる。義就の上洛は足利義政の許可を取っておらず、宗全が画策した長政や勝元に対する示威行動でもあった。さらに宗全は足利義政に圧力をかけ、畠山家の家督を政長から奪い、義就の家督を認めさせることに成功する。一方失脚した政長も只では転ばない。これまでのパターンであれば京都を去るはずだが、邸宅に火を放った上(元来畠山家の邸宅だから家督が義就になったならここに住む予定だった。火を放ったのは義就に邸宅を利用させないためもあっただろう)京都を脱出すると見せかけて、御霊神社に陣を構えた。つまり政長は義就との戦いを決意したのだ。このように戦闘が避けられない状況下で、戦乱の拡大を恐れた足利義政は「畠山家の戦闘に他家は支援をしてはならない」という命令を出す。これを馬鹿正直に守ったのが細川勝元で、山名宗全は兵を出して義就を全面的に支援した。結果は義就の勝利で終わったが、政長は細川勝元邸に逃げ込む。そして宗全の振る舞いに怒りに震える勝元は体制を整えた上で反撃に出ることになり、戦乱は泥沼化していったのだった。それは戦をする大義名分よりも舅、山名宗全に対する燃えるような私怨によるものだったのではないだろうか?

その3斯波家の場合
 管領家の一つである斯波家もまた家督問題を抱えていた。畠山家と同様というより、斯波家はより足利義政の言動に翻弄された家系だった。
 そもそもの始まりは当主斯波義敏が関東への出兵命令を拒否し足利義政の逆鱗に触れたことである。義敏は家督を嫡男の松王丸(後の義寛)に譲らされた上、越前、尾張、遠江の守護を罷免されてしまう。その後嫡男、松王丸も罷免され、関東征伐に功績のあった 渋川義鏡の息子を斯波の養子(斯波義廉)とした上で、義政は義廉を正式に斯波家の家督とした。しかし義兼の父渋川義鏡が関東平定に失敗すると義廉は徐々に義政の信任を失っていく。と同時に義敏の政治工作も功を奏して義政実母重子死去に伴う特赦によって復権を果たす。さらに文生元年(1466)応仁の乱が起こる前年に義敏は再び斯波家の家督を許され、以前と同じく尾張、遠江、越前の守護に任じられたのだった。ところが義敏の後ろ盾の1人であった伊勢貞親が失脚すると、義敏は再び家督を失い、義廉の家督が復活する。そして応仁の乱が勃発すると、斯波義敏と斯波義廉は東西の陣営に分かれ家督争いを継続するのだった。家督争いが複雑に絡み合った両斯波家もまた応仁の乱を簡単にやめられないのだった。

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