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歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 3話

 次は、百両の循環である。こちらは誰にもあって困らないお金である。本来の機能であれば、その循環によって社会と庶民が潤っていく。日本銀行を創設した渋沢栄一は、ちょうどこの作品の発刊の7年後の1867年に民部公子の共としてパリ万博にでかけた。渋沢はパリで、政府と大きな商店の間だけを流通する貨幣の経済ではなく、庶民の蓄えた小金が合本され社会へ投資され利益が還元される資本主義経済の重要性を見出した。例えるならば、身体の末端の毛細血管のように貨幣が巡回する経済である(鹿島茂「論語と算盤」)。
 皮肉なことに渋沢栄一は、そのパリの滞在中に、渋沢を派遣した幕府が大政奉還したことを知る。つまりは貨幣の信用はそれを発行した組織がなくなれば、価値もなくなることも身を持って知る。逆に言えば、貨幣はその発行元の盤石なる信用の土台と偽造が困難なクオリティさえあれば、どのような経路をたどってきたお金であるかということは気にすることない。少なくとも物と交換して得た金は発行元の信用で保証されるのだ。ドラマ「青天を衝く」では渋沢栄一はパリの地でそうつぶやいていた。ただし、渋沢栄一が日本銀行を創設する前の江戸時代の末期にあっては、貨幣は金貨や銀貨と物そのものの価値を備えたものであって、物としては価値がないが政府による交換の保証を原理とした紙幣は経済の基礎とはなっていない。

 さて、本作品の中で百両は人の手を次々と渡っていく。訳あっての譲渡を除いて、ほとんど窃盗である。持ち主はそれを使う前にお金は持ち主を離れていく。宵越しの銭はもたない、金は天下のまわりもの、との諺を思い出す。少なくとも台本では狭い人間関係の中で窃盗を含めて不適法な取引で循環している。なぜこのようにお金が循環するのであろうか。
 
 そこで、作品の中のお金の流転を精査する前に、後半のあらすじを以下にまとめておく(かっこは「三人吉三廓初買」今尾哲也校注、新潮社のページ番号)

 稲瀬川庚申塚の場面の以降は、さらなる「庚申丸」と百両の流転の中で、三人の因果な関係が明らかになってくる。まずは、おとせの小屋で百両をなくした十三郎は身投げしようとするところを伝吉に助けられて(P99)自宅で介抱されている(P197)。伝吉は、おとせの父親であったが、おとせが帰ってこないので心配して待っている。そこへ川に落ちたおとせを助けた八百屋の久兵衛がおとせを連れて伝吉を訪ねてくる(P196)。その久兵衛は十三郎の父親であった。つまりは双方の親が子供の窮地を助ける巡り合わせとなるのだった。しかも久兵衛は実子(お嬢)が誘拐され、その後捨て子の十三郎を育ててきたことを告白する。

 伝吉は、ここでは告白はしないが、十三郎は自分が捨てた実子であっておとせと兄弟であることを知る(P202)。(少し後の場面で、安森家から「庚申丸」を盗んだのは自分であって、一連の不幸は、逃亡の際に犬を斬り殺した因果が報いであると心の中で独白する(P213)。)伝吉は、十三郎をしばらく匿うことを約束する。そこへ伝吉の息子である和尚吉三が帰宅して百両(稲瀬川庚申塚でお嬢から譲りうけた金)を渡そうとするが、良からぬことで手にいれた百両だろうとして受け取らない(P209)。しかたがないと和尚は家を出て行ってしまうが(P212)、そこに入れ違いで訪ねてきた武兵衛を和尚と勘違いして百両を投げ渡してしまうしまつである(P215)。
 
 伝吉は十三郎を助けようと旧知である武兵衛に、前から欲しいといっていたはずだと、おとせを百両(実は伝吉が武兵衛に投げよこした百両である)で身請けしてくれないかと頼むがけんもほろろに断れられる(P288)。ここで、もう一つのストーリーの文理・一重の顛末に移動する。文理は遊郭の一重(実は元安森家の娘(P182))を目当てでこれまで通ってきたのだが、一重は病気で伏せりがちである。一重は文理の経済的な窮状を知り、無理やり身請けしようとする武兵衛に金を貸してくれるよう頼むが(P315)、武兵衛は身請けに応じる気配はなく、金を貸すのも拒む(P321)。その武兵衛の遊郭からの帰り道、待ち伏せしていたお坊吉三が武兵衛を脅して百両を奪いとる(P333)。すると、これを見ていた伝吉は見知らぬお坊吉三にも金を無心する(P335)。お坊吉三は伝吉の無心を拒否する際に、伝吉を斬り殺してしまう(P340)。

 最後の舞台は、御輿が嶽奇吉祥院の場である。三人はこれまでの悪事が露見して捕物におわれる立場となる。三人がそろったところで、これまでの因果な関係もすべて明らかとなる。相手の親を殺し、あるいは相手の親は家の家宝を盗みといった経緯も知るところとなる。三人は互いに呪われた境遇を受け止める(P443)。その上で。お坊吉三の百両は、和尚吉三を介して久兵衛に渡してくれとお嬢の手に。同じく、お嬢の「庚申丸」は安森家に返すようお坊の手となる(P460)。そして、三人は捕らわれる間際に、百両と「庚申丸」を久兵衛に託して最期を遂げるのだった(P487)。
 
 登場人物の間のお金の移動のほとんどは、全うな売買ではなく強奪・盗みである。庚申丸の購入という商取引でさえ、盗難品という曰くつきである。
おとせはお客の十三郎の忘れ物を受け取り、お嬢はおとせから盗み、和尚は桃園の誓いで預かり、伝吉は和尚がうちにおいていった金として受け取り、武兵衛は伝吉からそれをたまたま受け取り、お坊は武兵衛から奪い、とあとは繰り返さないが、同じような事件の連続である。

 つまりは、本来の市場でのモノの売り買いの媒体としてのお金の機能は全うには発揮していない。これはお金の移動に際しての登場人物の間の信用がない(そもそも泥棒など知り合いでも何でもない場合もある)し、ときの政権にはお金についての制度としての信用もないのだ。お金が手元にある時間は短いのは、インフレはともかく、ババ抜きと同じで早く手元から離したい気持ちが影響しているのかもしれない。政治経済の事実関係はともかく少なくとも黙阿弥はそのように物語のドラマを作った。

 商品とこれと交換した貨幣は、それぞれが(使い道によって)役にたつ価値をもっているはずであり、物である庚申丸よりも何でも買える百両の方が有効な使い道は沢山あるはずであるが、そのように使われることなく只々お金は市中を巡っていくのだ。

 2話では宝剣が流転する背景に、武家・お家制度の破綻を指摘したが、この3話では町人による商業活動にも綻びがでているのだ、とまとめることができる。

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