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圧倒的想像力と魔術的表現ースティーヴン・ミルハウザー「マーティン・ドレスラーの夢」ー

 アメリカにスティーヴン・ミルハウザーという小説家がいる。生まれは1943年で「最後のロマン派」の異名を持ち、耽美的・幻想的な作風で知られている。

 その作品のスタイルは実験的なものを含めて多岐に渡るが、名詞・形容詞を駆使してディテールを執拗かつ精緻に表現する点で一貫している。「バーナム博物館」、「ナイフ投げ師」、「イン・ザ・ペニーアーケード」などの短編集では、役割を全うしたキャラクターや役目を終えたアイテムたちが生気を得て魔法の物語を繰り広げる。「エドウィン・マルハウス」では読者は主人公の幼児の脳内に、大人の自我と意識をもって入り込んでしまったような感覚に襲われる。トムとジェリーを彷彿させるアニメーションを、コマごとに即物的に描写した作品などは、類比する小説が見たらない。

 「マーティン・ドレスラーの夢」は十九世紀の米国の若者の立身出世譚の形式をとりながら、主人公(の妄想)とともに、意思をもって増殖成長していくメトロポリスと摩天楼の驚異的な描写が圧巻である。長らく東京の隅々まで都市散策を楽しみとしているが、自宅で本書を開けば、十九世紀のニューヨークの街が時空を超えてここに現出する。

木蔭のビアガーデンがある北端の駅から、湾の見えるサウスフェリー駅に至るまで、北へ南へと広が る都市の案内にマーティンは努めた。四方八方に傾いたマストと桁端の茂み、はしけをのろのろと引っばるタグボート、ジャージーの岸辺へ渡っていくフェリー。がたがたと騷々しく揺れる車内から、飛ぶ ように過ぎていく建物の壁に描かれた看板にも三人の注意を促すーニューョーク梱包包装社、加硫ゴ ム、ノックス帽子店、街頭ブラスバンド、オイスター・ハウス、高級紳士服。北に南に疾走する列車のなかから、マーティンは鉄道馬車の屋根や醸造業者の荷卓の匿根を指さし、波止場や横帆船や搏を満載 したはしけを、高架列車のブレーキシュ—からこすれ落ちた鉄粉が降ってくるせいで赤銷色に汚れた日よけを指さした。開いた窓のなかに見える、ミシンの上にかがみ込んだ女たちやテーブルを囲んでトランプに興じるチョッキ姿の男たちを指さし、交差する大通りや遠くの高層ホテルを指さすーそして空のなか、鉄骨建築の奇蹟たる二十階建てのァメリカン:シュァリティビルが、トリニティ教会の古風な 褐色砂岩の塔を圧倒していた。

スティーヴン・ミルハウザー「マーティン・ドレスラーの夢」柴田元幸訳

 

 単に固有名詞の羅列に惑わされているのだと、冷静なる賢者は一笑するところかもしれない。マーチンが最後に建てたグランド・コスモに仕掛けた一大スペクタクルの様子は、手間をかけた最新娯楽映画の一場面をことばで描写したようだ。脳内で言葉から映像に変換すれば、これも眼福というほかにはない。

数多い公圍、池、庭のなかでも特に注目を浴 びた、人工の光が小径を格子状に照らし、機械仕掛けのナイチンゲ—ルが木の枝でさえずり、愁いを 帯びた沼や朽ちたサマーハウスの散在する<ブレジャー・パーク>。影に包まれた鍾乳右の蔭から幽霊 が漂い出てきて、ランタンの淡い光が灯る薄闇のなかを客たちの方へふわふわ寄ってくる<呪われた洞穴>。埃っぼい道がくねくねとのび、アラブ人の服装をして値切り交渉の駆け引きにも通じた売り子が いて、銅の盥から生きた鶏まであらゆる品を屋台が迷路のようにつづく<ムーア人バザ— ル>。<知られざるニユーヨーク>と銘打ったセクションでは、マルべリー・べンドの泥棒横丁、阿片窟、川ぞいの霧深い通りに並ぶ酒場<血の樽、描横町、ダ—ティ—・ジョニ—>、不良集団バワリーボーイズ対デッドラビッツの血まみれの喧嘩などが再現され、ヘルキャソト・マギーなる近所の店では真命の 爪を買ったり歯をやすりで尖らせてもらったりできた。<パンテアトリコン〉と称する新種の劇場では、 俳優たちが円形の舞台に立ち、ゆっくりと回転する中央の客席を囲むようにして演技をくり広げた。<降霊会パーラー> の窓には重たいカーテンが掛けられ、霊の現われ出ずるキャビネットは黒いモスリ ン布で環われ、丸いテ—ブルにはハイネックの黑いドレスを着た霊媒フローレンス・ケーンが座っていた。ジュネーヴ出身ジョフルワ・サンティレール教授主宰になる<骨相学実演サロン>。陰鬱な<瘋癲院>の鉄格子の窓からは青白い月の光が細々と差し込み、二百人以上の男女の俳優が二百以上の鬱病の妄想(体に火がついている、脚がガラスでできている、悪魔に憑かれている、頭に角が生えている、自 分は魚である、首を狡められている、蛆虫に食べられている、頭が胴から切り離されている等々)に苦しむ患者を演じた。

スティーヴン・ミルハウザー「マーティン・ドレスラーの夢」柴田元幸訳

 まだ描写は続くが引用はここでやめておこう。二十一世紀にあっては、世界に十九世紀以上にモノがあふれ、情報が消費されていくが、その状況・様子は正当には描写・記録されていないのではないかとも考えてしまう。ロマン派としては破滅、破綻、邪悪なものが少なく、アメリカの青年期ともいえる時代をある種の爽やかさをもって描いているが、ロマン主義には欠かせない破綻の結末もちゃんと用意してある。ここでは書かないでおく。

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