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感情文学、感覚文学の金字塔『失われた時を求めて』

「ドン・キホーテ」「戦争と平和」「西遊記」

 数年前だろうか、自分が世界文学の長編作品をあまり読んでいないことに気づき、いろいろ漁ってみることにした。そんなとき頼りになるのが、岩波文庫の赤版だ。セルバンテス『ドン・キホーテ』(全6冊)、トルストイ『戦争と平和』(全8冊)、中野美代子訳『西遊記』(全10冊)に挑戦してみた。
 いずれも世に違わぬ名作だから、ページを繰る手が止まない。『ドン・キホーテ』は流布する騎士道小説を実在のものと勘違いした主人公ドン・キホーテが従士サンチョ・パンサとともに旅を続け、珍妙な波乱を巻き起こす物語である。作中、この二人が舌が二枚あるかのごとく饒舌でなおかつ面白く、会話の中身に思わず引き込まれる。後半のほうでは、そのドン・キホーテとサンチョ・パンサの冒険物語が本になって印刷され、世に出回っていることを彼ら自身が知っているという、メタフィクショナル構造になっているのも興をそそられた。
 『戦争と平和』は19世紀初めのナポレオンによるロシア侵攻を背景に、それこそ老若男女、多様な人たちの人生とその思いがけない交錯を、戦争の進行とともに、トルストイは、サイズの大きな細密画のように描いていく。「長編小説といえば、『戦争と平和』」と言われるのも、さもありなんという感じだ。
 『西遊記』はお馴染み孫悟空が三蔵法師につき従い、天竺までお経を取りに行く波乱万丈の旅を描いたものだが、原作がここまで長いとは知らなんだ。道中、化け物が現われて三蔵法師をさらってしまい、法師を救うため、孫悟空が沙悟浄、猪八戒という二人の弟分とともに、化物軍と華麗な戦いを繰り広げ、最後には無事、法師を助け出す。言ってみれば、その繰り返しである。その幾多の化け物が、決まって法師を食べようとすることに気づいた。僧を食べると長寿になる、というのがその理由らしいが、一方でこうも思ってしまう。中国ではやはり人肉食がほんとうに行われていたのだろうと。

プルーストかアラビアンナイトか

 さて、ここから本題に入る。岩波文庫で長編を探すと、あとは全13冊の『千夜一夜物語』か、全14冊のプルースト『失われた時を求めて』しかないようだ(間違っていたら、私の調査不足である)。
 私の腹は決まっていた。「失われた時を求めて」みたい、と思った。プルーストの筆になるその長大な”山脈”にチャレンジするも、無事踏破し終える人がなかなかいないことを知っていた。ならばやってみようと。ちょうど新訳が出ていたことも、その決定を揺るがせのないものとした。
 それが今から約2年前、最後14冊目を読み終わったのが、先々月だった。
 

円環的構造の作品

 この小説の内容をごくかいつまんで説明すると、1900年前後のフランスはパリとその周辺を舞台に、プルーストに似た小説家志望の主人公が少年時代を回顧しながら青年となり、同世代相手の恋愛と年上の女性貴族への思慕の念も募らせながら成長し、男と男、女と女という同性愛の問題も孕みながら、第一次世界大戦や、ユダヤ人問題の象徴としてのドレフュス事件など、当時のフランスが潜り抜けた歴史や、論争の的となった社会的事件も交え、青年は大人に、そして中年になっていき、改めて作家として立ち自分しか書けない作品を書くことを決意する……といった感じだろうか。その結果、書いた作品がこの『失われた時をもとめて』という解釈もできる。そうだとしたら、蛇が自分の尾っぽを呑み込んだウロボロス的作品とも、終わりのない円環的構造の作品とも言えるかもしれない。
 文章は精妙無比、細部まで行き届き、比喩も巧みで、プルースト節としか言いようがない。たとえば、祖母の自宅での臨終を描いた場面。

 酸素の音が止んでいて、医者はベッドから離れた。祖母はもう死んでいた。
 数時間後、フランソワーズは、最後に、今度はもう痛めつけることなく、美しい髪をとかすことができた。その髪には白いものがまじってはいたが、これまでは実際の歳より若い人の髪に見えていた。ところが今や、逆にその髪だけが、若返った顔が戴くただひとつの老いの印であり、その顔からは、積年の苦労によって加えられたしわも、ひきつりも、むくみも、こわばりも、たるみも、跡形もなく消えている。遠い昔、両親が夫を選んでくれたときのように、祖母の目鼻立ちには、純潔と従順によって優雅に描かれた線がよみがえり、つややかな両の頬には、長い歳月がすこしずつ破壊したはずの、汚れなき希望や、幸福の夢や、無邪気な陽気さがただよっている。生命は立ち去るにあたり、人生の幻滅をことごとく持ち去ったのだ。ほのかな笑みが祖母の唇に浮かんでいるようにも見える。この弔いのベッドのうえに、死は、中世の彫刻家のように、祖母をうら若い乙女のすがたで横たえたのである。 

第六巻、377頁~378頁

注も図版も豊富、巻ごとに場面索引も

 この岩波版を訳したのは吉川一義という京大の教授で、プルースト研究の国際的権威なのだという。そのためか、2010年に1巻目が発売された全14巻からなる、この岩波版『失われた時を求めて』は注の数とその文章量が非常に多い。本文見開き左ページに注が寄って配置されているのだが、その分量が、左ページの本文を凌駕するような箇所がいくつもあるのだ。なかには文中に登場するレストランの所在地と、現在も営業中であり、当時はA定食が何フランで食べられたというような、微に入り細を穿ったような注まである。 
 しかも、絵画や彫刻など、プルーストは美術に造詣が深いため、なおも手の込んだことに、文中に引用されるそれらの図版が、時に1ページにわたって掲載される。
 そればかりではない。各巻の冒頭には当該巻の梗概、登場人物、パリの地図などが、最後には、「場面索引」とともに、吉川による「あとがき」が必ず掲載されている。そんなこともあって、全体の分量が増えているのだ。あとがきには翻訳の苦労が縷々綴られている(ちなみに、ほぼ同時期に刊行が始まった光文社古典新訳文庫の高遠弘美訳『失われた時を求めて』はまだ6冊までしか刊行されていない)。

重要なのは筋立てではなく、精神のドラマ

 吉川いわく、プルーストの小説において枢要なのは、筋立てではなく、精神のドラマなのだという。この指摘は私の心に響いた。小説といえば、まずプロットだろう、と私は信じ込んでいた。 
 吉川がその根拠として指摘するのは、プルーストの改行の仕方である。普通、改行は主人公の具体的行動によって場面が変わったときなどに多く行うものだが、プルーストの場合、必ずしもそうでなない。A地点からB地点に主人公が移ったとしても、その間、主人公の心に変化がなければ改行しない。心の変化が生じたとき、初めて改行するのだ。
 人間の心の内(うち)は複雑で、その中身をすべて言葉にするのは難しいと言われる。私もそう思っていたが、この『失われた時を求めて』を読んでから、その考えが変わった。頭の片隅で感じたこと、一瞬よぎった感情、ふとした感覚、それらを言葉で表わすことは十分にでき、それを叙述の大半においた小説作品は十分に成立し得るのだと。
 この作品を読み通すことは根気のいることだ。でも、感情文学、感覚文学の金字塔とでもいうべきこの『失われた時を求めて』は、ああ、自分は人間認識の新たな旅を成し遂げたのだと、読後に一杯傾けたくなるような作品であるのは間違いない。

 

 



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