見出し画像

たぶんまちがえている『立禅』論

こんばんは。
最近は投稿をがんばっています。
いままでは、ぼくのやってきたことや考えを(なぜか)なるべく外に出さないようにしてきました。
なぜかはよくわかりません。
出しちゃいけないような気がしてきたのです。
親の教育のせいか、人生の紆余曲折のせいか、さまざまなことに興味を持ち、いろいろなことをしてきたのに、全部、誰にも何も言いませんでした。
なぜだろう。なぜなんだろう。どうしてぼくは自己開示できないんだろう。
そこで今まで全く語ることがなかった件について、初めて語りたいと思います。
それは大気拳の話です。
みなさん、大気拳って知っていますか?
むかし、野毛の飲屋街で飲み歩いていた時分に、たまたま知り合った男ノ娘三人組に、同じ質問をしました。(この件もいずれ話さなければならない)
すると、三人のうちの一人から、みごとな回答がありました。
「形意拳、意拳、大気拳でしょ?」
「そのとおり!」
中国拳法にくわしくない人は、何を言っているのか全く分からないでしょう。
中国の三大拳法といったら、太極拳、形意拳、少林拳だと思っています。
「いや、八極拳こそ最高の拳法だ」
「詠春拳はどうした。ブルース・リーがやってた拳法だぞ」
「おいおい、八卦掌を忘れるなよ」
「蟷螂拳はどうした」
と非難が飛び交いそうに思いますが、あくまでもぼくの独断による意見です。
太極拳はいわずと知れた、あのゆっくりとしたやつ。
少林拳は頭くりくり坊主のあれ。
で、形意拳といえば、昔ジャッキー・チェンが演じていた、「龍の拳!」とか「猿の拳!」とか、動物の動きを模倣した型を持つ拳法です。
十二形拳といって、12種類の動物の形を真似た動きがあるらしいのですが、くわしいことは、ぼくは知りません。
やってませんので。
形意拳という名称は、「さまざまな動物の動きから、その肝を探って体得する拳法」という意味だそうです。
形意拳の達人といえば、言わずと知れた郭雲深。
あまりに強いので、殺人の罪で服役して、刑務所から出てきたばかりなら、やっつけられるに違いないと考えた敵が、逆にぶっとばされて、全然弱っていなかった、という有名なエピソードがあります。
郭雲深は、刑務所内でも鍛錬を怠っていなかったのです。
余談ですが、ぼくの先輩は、酔っぱらって喧嘩して逮捕・拘留されたときに、「おれは郭雲深だあ」と叫びながら、留置場内で立禅(大気拳の鍛錬方法)をしていたそうですが、これは郭雲深のこのエピソードを引用した行為です。
で、その郭雲深の弟子の王向斉という人が、
「面倒くさい12種類の動物の動きなんか、やらないで、直接、その肝の部分だけマスターしちゃえばいいじゃん!」
と考えました。
それが、意拳の始まりで、要するに形意拳の「形」を取り去ってしまったのです。
本来であれば、12種類の動物の型を繰り返しおこなうことでマスターすべき、形意拳の要諦を、たった一つの型に集約させました。
それが「立禅」と呼ばれる形です。
肩幅くらいに両脚を開いて直立し、少し膝を曲げてゆるめます。
両腕は太い樹の幹を抱くように合わせます。
そんな形でひたすら立つ。
それが立禅。
で、王向斉から意拳を学んだのが、日本人の澤井健一です。
王向斉は第二次世界大戦の時代を生きた武術家です。
澤井健一は中国方面に進軍していた日本軍の軍人で、武術が大好きだったために、進軍先で有名だった王向斉に弟子入りしたのです。
日本が敗戦し、帰国後に「大気拳」と名を変えて広めました。
だから意拳と大気拳は内容的には同じ拳法です。
さて、ここまででお分かりだと思いますが、意拳と大気拳の唯一の鍛錬法である立禅(本当は補助的に「半禅」「片足禅」(これ、結構好きです)「揺り」「這い」「練り」などがありますが、基本は立禅です)は、動物の動きの核心を学ぶための鍛錬法です。
むかし、ハリウッド映画の『猿の惑星』を見ていたときに思ったんですよ。
エイプたちが、まさに超人的な身体能力を駆使して、樹から樹に飛び移り、ものすごい腕力を発揮するじゃないですか。
でも、エイプの体と人間の体って、五体の有様は変わりないですよね。
どうして人間には、あんな風に動くことができないんだろう?
で、立禅をしながら考えたんですが、人間って上半身と下半身をばらばらに動かすことが当たり前になってますよねー。
歩きながら読書とか平気でするじゃないですか。
座って下半身を固定した状態で、指先だけ細かく動かしてキーボード入力をする、なんて動作も、動物から見たら不自然極まりない。
指が動けば、全身が連動して動くのが、動物的には普通なのです。(断言)
人間が忘れ去った動物の動きを取り戻す鍛錬が、立禅です。(断言していいのか?)
だから、立禅で鍛錬を続ければ、エイプのスーパーパワーが使えるようになる(断言できないでしょー)
・・・というのは、もちろん中2病的な妄想に過ぎません。
でも百歩譲って、全身の体がまとまってくれば、少なくとも健康になりそうな気はします。
ここまで書いてきて、気付いたのですが、これってヴィッパッサナー瞑想の目的とかぶるんじゃないのか?
話が走りすぎていますね。
どうしてブッダの瞑想と立禅が関係してくるのか。
いくら禅の文字がつくからって、わけが分かりませんよね。
動物の体を取り戻す立禅と、動物の心を取り戻す瞑想が、ともに動物への回帰を目的にしているようで、共通点があるな、と感じたのです。
いや、動物に回帰するだけでは、単なる動物ですよね。
手塚治虫の『ブッダ』の冒頭に、動物そのものの生活を送るようになった修行僧が登場しましたが、あれは誤った回答でしかありません。
正解は、動物と人間のいいところ取りではないでしょうか。
人間としての類推思考と人体各部をバラバラに動かすことができる能力を持ちつつも、動物のような「ありのままを見る」視点と、全身を統一した動きをすることができる能力を併せ持つこと。
両方の能力を持って、必要に応じて使い分ければ人間はさらに進歩できます。
なんて、偉そうに論じましたが、上で紹介した先輩にぶん殴られそうなので、この辺でやめておきます。
たぶんまちがっていますから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?