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革命の天使:第二章 社会闘争

 リチャード・アーノルドがエンバンクメントに到着した時、少なくとも自然界について述べると、夕暮れは夜へと深まっていた。
 しかしながら、二十世紀初頭のロンドンでは、時間の区切りという意味で、夜というものはほぼ存在しないも同然だった。ロシア鉄道の悲劇を伝える新聞の日付は一九〇三年九月三日で、この十年間で電気照明の進歩はめざましいものがあった。
 テムズ川の潮の満ち引きを利用して巨大なタービンを回して電力を蓄えるようになったので、照明だけでなく、ホテルや民家の調理器具、その他の機械を駆動用にも利用されるようになった。交通の中心部おいては、両側に並んだ小さなランプの明かりを補うように、強大な電気仕掛けの太陽が通り沿いに並んで光線を放っている。
 ウェストミンスターからブラックフライアーズまで続くエンバンクメントは、両岸を走る何百もの大型ランプから放たれる柔らかな白い光の洪水に包まれていた。それぞれの橋の中央からは百万本もの燭光太陽が水面に光線を投げかけ、チェルシーからタワーまで光の流れが途切れることなく続いていた。
 川の北側に燦然と輝く華麗な光景が広がっている一方、夜霧に煙ぶる南ロンドンの暗がりが対象を成していた。これは土地の半分が光の当たらない荒地となっているためで、その辺りは暗く近づきがたい、救いようのない醜さのようなものに覆われていた。
 アーノルドはブラックフライアーズからウェストミンスターに向かって早足で歩きながら、周囲の豪華絢爛な富の顕示と、絶望的な状況下にある自らの薄汚れた困窮との対比を苦々しく噛み締めた。この素晴らしい光景を構成するいかなるものよりも、彼は遥かに驚異的で偉大な創造者であり、また所有者であった。しかしながら、休憩や居眠りのために腰を下ろした途端に見回りの警官に容赦なく席を移動させられるようなボロボロの浮浪者たちよりも、遥かに貧しいのである。
 四時間近く歩いたが、時々立ち止まって手すりに寄りかかったり、腰を下ろしたりしている内に、冷たい秋風が薄い衣服を貫いてくるため、暖を取るためにも歩行を再開せざるを得なかった。その間、彼はこの惨めな状況を何度も何度も反芻することになったが、それにしても大した効果は生まなかった。
 数ポンドさえ手に入れることができれば、浮浪者の物乞いという身分から解放され、彼の素晴らしい発明が何年にも渡って、いや、おそらく永遠に、彼とその世界から失われるのを防げるかもしれない……が、もはやそんな逃げ道はないように思われた。
 それから、一時間、また一時間と過ぎても、明るい考えが浮かばなかったので、現在の惨めさがますます差し迫ってきた。家に帰ろうとすれば、避けることのできない明日の厄災をより身近に感じることになる。しかも、家賃を払うまでは、そこはもはや家ではなかった。
 彼は二シリング持っていたが、少なくとも十二シリングを借りていて、同時にロシア皇帝が百万ポンドの懸賞金を出している飛行機械の発明者でもあった。その百万ポンドは、もしこの偉大な発明を自国民に知らしめるのに必要なだけのお金を持っていたならば、自分ものになっていたのかもしれない。
 その矛盾に苛まれつつも、その立場を何度も何度も心に刻んできた。少しのお金があれば、富と名声が手に入るが、お金がなければ飢餓を目の前にした乞食も同然なのだ。
 しかしながら、現在の悲惨な極限状態から抜け出すためとはいえ、機会があったとしても、人類にとって最悪の敵だと考えているあの専制君主の前に自ら進み出て、これまで発明された物の中でも、もっとも恐ろしい戦争の道具を売ることができたかどうかは、甚だ疑問だった。
 クレオパトラの針の傍の手すりに寄りかかり、徘徊の疲労を癒すために二十回目の小休止を行った。エンバンクメントにはほとんど人影はなく、物乞いと彼のような少数の孤立した徘徊者がいるのみだ。
 数分間、彼は眼下に広がる明るく輝く水面を眺めながら、「もし落ちたら、溺れるまでにどれくらいの時間がかかるんだろう……」と無気力に考えていた。もしかすると、死ぬ前に救助され、翌日になって慣習通りの正攻法・・・・・・・・でこの世を去ろうとした勇気があったことを、訴追されることになるのかもしれない。
 それから、彼の心はツァーリと彼の百万ポンドのことに戻った。自らが生み出した飛行船の大艦隊が、人々がもう何ヶ月も先のことではないだろうと噂する『ヨーロッパ大戦争』において、恐ろしい役割を果たすであろうことを思い描いた。考えている内に、そのビジョンはより鮮明なものとなり、飛行艦隊が軍隊や都市、要塞の上に浮揚して、抵抗できない死と破壊の雨を降らせる様子がありありと見えた。
 その光景に愕然とし、それが今、本当に実現される可能性があることと思って身震いした。彼の思考は無意識の内に言葉に変換され始め、ついには周囲の状況をまったく気にせず、口に出して話し始めたのである。

「いやいや、このような破壊と殺戮をもたらす恐るべき力を、ロシア皇帝やその他の覇権国家の支配者に渡すぐらいなら、むしろ破壊してしまって、僕の秘密をこの世から消し去りたいとすら思っている。大体、彼らの臣下は、今のままでも充分な武力を持っている。それこそ効果的に相手を虐殺できるほどに。次にやってくる戦争は、これまでに誰も目にしたことがないような、ゾッとする破壊のカーニバルが幕を開けることになるはずだ……でも、もし、僕がヨーロッパの一国に加担し、空から敵に向けて死と荒廃の雨を降らせる力を与えたら、どんなことになるだろう! いや、違う! そうじゃない! そんな力は、もし使うことになったとしても、戦争という呪縛で人類を苦しめている専制君主に対してのみ使うべきで、自分の欲のために使うべきじゃない!」

「――それじゃあ、なぜそれを使わないんだね? 友よ、もし君がそんな力を持っているなら、人類が暴君から解放される様を見たくないのかね」

 彼の肘辺りで静かな声がした。
 その声で視界が一瞬にして白黒した。彼はどぎまぎして振り返り、誰が話しかけてきたのかを確かめようとしたのと同時、葉巻の煙が鼻孔を掠め、同じように静かな、均一な口調で、その声が再び言った。

「あなたのお話に最後まで耳を傾けず、空想に割って入ってしまった無礼をお許しください。あなたのお言葉が非常に興味深いものだったというのが、その言い訳であります。その意見がまさしく私自身と同じものであるというのが、この無礼を行ったもう一つの言い訳なのですが、おそらくそう言えば、あなたに理解していただけるものと信じます」

 それはリチャード・アーノルドが久しく聞いていなかった、初めての、本当に親切で、友好的な声だった。それに加えて、それらの言葉はよく選ばれ、とても丁寧に発せられたために、憤りを感じることなく、彼はただこう答えたのである――

「無礼だなんて滅相もない。それに、あなたのような紳士が、なぜ話しかけたことを謝る必要があるでしょうか、その、僕なんかに――」

「――もう一人の紳士に、ですか」と彼の新たな知り合いはすぐに口を挟んだ。「なぜなら、私は謝罪しなければならなかったからですよ。礼儀作法に反したのでね。あなたの話しぶりから、我々は社会的に対等な関係であることがわかりますよ。もっとも、知的な側面ではあなたの方が優れているようですね。あとの差異といえば、金を持っているかどうかの話ですが、それは今の時代、幾分かずる賢い男なら、どうとでもなることです。まあ、それはさておき、どうでしょう。もし、あなたが私とより親しくしてくれることに異存がないのであれば、もっとお話ししたいのですが。……こう言ってしまうとなんですが、あなたは明らかに普通の人間じゃない。そうでなければ、もっと金持ちになってもいいはずだ。どうでしょう、どうやら共通の話題を持っているようですし、一服してもっとお話ししませんか。どちらに行かれようとしていたのですか?」

「行く場所なんてありません――だからこそ、どこへでもいいんですが」とアーノルドは陽気さとはまるで無縁の笑みを浮かべて答えた。「僕は到達したところだったのです。これまで通ってきた道に一区切りがついた、いわゆる人生の岐路に」

「……であるなら、どうでしょう。ここはひとつ、サヴォイ・マンションの私の部屋に至る道を通ってみるというのは。きっと夕食の用意をしているでしょうからね。それからお話を聞きましょう。さあ、どうぞご一緒に!」

 この招待は、間違いなく繊細さ以上に、真の優しさと誠実さを感じさせるものだった。これを拒否するというのは図々しいだけでなく、救い出そうと差し伸べられた親切な手を、溺れている者が自ら振り払うようなものだ。
 アーノルドは男の招待を受け入れた。

 ……こうして、奇妙な出会いを果たした二人は、ともにサヴォイの方角へ歩いていったのである。

 アーノルドの新たな知人が住んでいる部屋は、裕福な独身者にとって理想的な住まいだった。小さく、簡素で、居心地がよく、調度品も豊富で、しかも趣味がよかった。二年以上も自分の家として使っていた一室の粗末さを考えると、その部屋は彼にとって室内にある楽園のように思えた。
 招待主はまず彼を小さく清潔なバスルームに連れて行き、手を洗わせた。それから身支度を済ませる僅かな間に、居間のテーブルにはすでに夕食が用意されていた。
 夕食が半分も終わらない内に、アーノルドと彼の招待主は完全に対等な立場で、まるで何年も前からお互いを知っていたかのように、気軽におしゃべりをするようになった。食事が終わるまで、アーノルドはわざと一般的な話題に終始していたようだったが、やがて食事が済んで、使いの男がナプキンを取り除き、ワインや葉巻をともにテーブルの上に置いていった。
 男がドアを閉めて部屋から出ていくと、すぐに招待主はアーノルドに暖炉の片側にある安楽椅子に座るように案内し、反対側の安楽椅子に身を投じて口を開いた。

「さあ、友よ。海の向こうで言われているように、自分の居場所を確保し、食べるものを食べたということは、次は気の向くままに語り合う時間だ――とくに自分自身のことをもっとね。とはいえ、ちょっと待った。そういや、私たちはまだお互いの名前すら知らないんだったな。まずは自己紹介を。……私の名前は、モーリス・コルストン。独身。ご覧の通りね。それ以外だと実際には無職の怠け者で、好事家で、その他、多くの楽しいけれどまったく役に立たない特技を持っている。理論的に言うとすれば、私は社会主義者、あるいはそれに類する人間で、父親の息子として生まれたこと以外に、それに値することを一切していないというのに、この世でこれほど楽しい時間を過ごすことができる社会的・経済的条件の不公平さ、不条理さについて、日々痛感しているところだ」

 彼はそこで言葉を止めると、葉巻の煙の輪っかを通して招待客をじっと見つめた。あたかも「それで、今度は君の番だろう?」というように。
 その無言のヒントを受けて、アーノルドは口と心を同時に開いた。
 彼の好意とは別に、この型破りな招待主にはじつに気さくな率直さがあり、それがアーノルド自身の性質にもよく合っていたので、すべての遠慮を捨ててしまったのである。それから、アーノルドは自分の人生とその主な情熱、夢と希望と失敗、そして勝利が敗北となった瞬間に訪れた最後の勝利の物語を、単純にわかりやすく語った。
 彼の招待主は何も言わずにただ聞いていたが、話の終盤になってくると、その表情には興味というのか、自分より不幸な人間に対する親しみを込めたものだけでは説明できない、次の展開への期待に満ちていた。やがてアーノルドが自分の試作品の最後の試みが成功したことを、簡潔だが生々しく描写して話を終えると、コルストンは椅子から身を乗り出し、じっと据えた暗い瞳でお客の顔を見つめながら、以前のユーモアたっぷりの軽薄さは微塵もない声でもって、このように述べた――

「奇妙な話だが、思うに、私が話した話より真実味がある。それでは、君の紳士としての名誉にかけて教えてくれないか。エンバンクメントで『そんな飛行船を作るために、ロシア皇帝が提示した百万ドルで自分の発見を売るぐらいなら、この模型を壊してその秘密をあの世に持っていく』と言ったのは、本当に本気だったのか?」

「本気に決まっているさ」というのが、その答えだった。「僕はね、道行く人々のご自慢の文明とやらが、創造主を侮辱する人類のもっともひどい嘲笑であることを知っている。文明の汚らしい面を充分に見てきたからね。僕らの文明は詐欺に基づき、力によって維持され、マモンに膝を屈しない者がすべて冷酷に打ち砕かれるようにできている。僕は金持ちや金に逆らうことができない人々が自らの欲望に素直に生きることを絶対に許さない。言うなれば、社会の敵なんだ。この世に二シリングしか持っていないけど、ツァーリから百万ドルを奪って世界の支配者になるための破壊装置と交換するぐらいなら、今すぐにその二シリングをテムズ川に投げ捨てて、僕自身も身投げした方がましだよ」

「勇敢な言葉だな」とコルストンは微笑を浮かべて言った。「こう言っては失礼だが、もし私が皇帝陛下の召使いであると言ったとしても、君はそれを繰り返すのかね。君が私に話したことが真実であると納得させた瞬間に、その百万ドルを秘密のままに、懐に入れることができるとするならどうだ」

 彼が話し終える前にアーノルドは立ち上がっていた。アーノルドはその話を最後まで聞いてから、ゆっくりと、そして着実に言った。

「わざわざ繰り返すのも面倒だ。僕はただ一言、こう言うべきだろうな。貧しさをだしにして、僕を侮辱するような男の客となったことを残念に思っている、とね。おやすみ!」

 彼がドアに向かって移動していた時、コルストンは椅子から飛び上がって、テーブルを一周してすでに彼の前に立ちはだかっていた。それから両手を彼の肩に置き、彼の目をまっすぐに見据えて、感動に震えるような口調で言った。

「神よ、私はついに誠実な男を見つけました! ああ、さあ、さあ、戻って再び座ってくれ、友よ。いや、同志よ、むしろ早くそうなってくれ! 試すような愚かなことをしてすまない! 私は皇帝に仕える者ではない。むしろ、私以上に熱心な敵はいないだろう。見てくれ! すぐにそれを証明してみせるから……」

 その言葉を最後に、コルストンはアーノルドの肩を離し、コートとウエスト・コートを脱ぎ捨て、ブレースを肩から下ろし、シャツを首元まで上げた。そして、裸の背中を客に向け、こう言った。

「――これがロシアの暴虐の象徴であるナウトの痕だ!」

 アーノルドはその光景を見て、恐怖の叫びを上げながら身を引いた。
 コルストンの背中は腰から首にかけて、ひどい傷跡と鞭打ちの塊となっていた。それらは互いに交差して紫色の塊になり、その間に打撲したような青や灰色の青黒い空間がある。まるで生きたまま皮を剥がされ、猫じゃらしで鞭打たれた男の背中のようだった。
 アーノルドが恐怖に打ち勝つ前に、招待主は服を整えなおした。そして、アーノルドに向き直って言った。

「これは、ロシアの小さな町の知事に対し、貧しいユダヤ人の老人を鞭打ちで殺した残忍な獣だと言ったことへの報酬だよ。私はツァーリの下僕でも友人でもないと言ったが、これで信じてくれるかい?」

「ああ、それはもう」とアーノルドは答えて、手を差し出した。「君が僕を試したのは正しかったし、僕がすぐに頭にきて出ていこうとしたのも間違いだった。僕も今までに失敗して散々な目に遭ってきた。君が何者であるかは、もう言わなくても充分にわかったよ。紙を一枚くれれば、僕の住所を教えてあげよう。明日にでも来て、模型を見るといい――ただ、大家の手を煩わせないために、僕の家賃を払わなければならないとだけ警告しておこうかな。それじゃ、もう十二時を過ぎたから失礼するよ」

「今夜はもう出ていく必要はないぞ、親愛なる友よ。ソファーも敷物もたくさんあるからな。自由に使ってくれていい」と招待主は言った。「ここで寝て、朝になったら一緒にその驚異の作品を見に行こうじゃないか。その間に座って、葉巻を吸ってくつろいでいてくれ。私たちはまだお互いを知り始めたばかりじゃないか――そう、私たち二人は、社会の敵なのだからね!」


――つづく


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