今、在りたい姿であるために
知らない誰かに言い寄り、喧嘩する夢を見た。大事に履いていたスニーカーを今使いたいのに、預けてしまったという理由だった。わんこの散歩に行きたいのに、なんでそんなことをしたんだと、その人たちに向かって大声で罵倒していた。
起きると泣いていた。思わず夢占いのサイトを見る。
当たってて笑う。そもそも適応障害になった理由の一つに、求められている仕事の成果に対してのギャップがあった。
自分の働いている出版社は本を作っているエキスパートが大勢いる。書籍を作ることは人の協力なしでは作ることができない。人と人で作っている。そこのレベルに自分は達していない、悔しい、なんでできないんだ。
時間を投下すれば成果は上がる。
はずと信じて時間を投下した。泣きながら原稿を書いていたこともあった。でも、上司から「面白い」という言葉は引き出せなかった。
他者評価が全てのこの仕事を通して、面白い、という言葉は最高の褒め言葉だろう。自身がどんなにいい記事が書けた、本が書けたと思ったとしても、誰かの役に立たなければその仕事に価値はない。
顧客の喜びの対価でこの経済は回っている。
物書きが、その文章を読んでくれた人たちに対して価値を提供できるのは、気づきや発見があったときだ。定量ではわからない部分だからこそ難しい。
その文章を読む力が、読む側にも求められるから。
わかりやすく伝える。伝えることというのは、相手がわかることで成立する。文章上のコミュニケーションだと尚更難しい場合もある。
今、生き方に悩んでいる。このまま理想を追い求めるのか。現実を考え自分に蓋をして生きるのか。こんな悩みも贅沢なものだと自分でも思う。
最近、近所のドトールまでの散歩とnoteを書くことが日課だ。その途中に咲いているたんぽぽや草木を見ると、少しだけ心が軽くなることに気づく。
自分を幸せにするということが、子供の頃から苦手だった。他人軸で生きてきた苦しみを20代の頃に自覚した。そこから自分は何がしたいのか、何ができるのか、向き合った。これも相当苦しかった。
一旦、その苦しみから抜け出したと思ったけれど、今度はそこまでの道のりで躓いている。
休職ではなく、「活動休止」っていう言葉に少し勇気づけられた。活動休止している自分がいる。何がなくなっているのかの前に、今何が在るのかを考える。
文章が書ける。文章を書く力がある。歩ける。目が見える。人に優しくできる。思考ができる。
でも、体が動かない。時間が経てば、きっとリブートできるはず。
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