今、在りたい姿であるために

知らない誰かに言い寄り、喧嘩する夢を見た。大事に履いていたスニーカーを今使いたいのに、預けてしまったという理由だった。わんこの散歩に行きたいのに、なんでそんなことをしたんだと、その人たちに向かって大声で罵倒していた。

起きると泣いていた。思わず夢占いのサイトを見る。

知らない人に激しく怒る夢は、理想と現実のギャップに苦しんでいる心を反映しています。理想と現実のギャップが大きいほど、夢の中での怒りが激しく長く相手を怒る傾向にあります。夢の中で感じた激しい怒りは、自分への不満とやり場のない感情による苦しみを表しているようです。

当たってて笑う。そもそも適応障害になった理由の一つに、求められている仕事の成果に対してのギャップがあった。

自分の働いている出版社は本を作っているエキスパートが大勢いる。書籍を作ることは人の協力なしでは作ることができない。人と人で作っている。そこのレベルに自分は達していない、悔しい、なんでできないんだ。

時間を投下すれば成果は上がる。

はずと信じて時間を投下した。泣きながら原稿を書いていたこともあった。でも、上司から「面白い」という言葉は引き出せなかった。

他者評価が全てのこの仕事を通して、面白い、という言葉は最高の褒め言葉だろう。自身がどんなにいい記事が書けた、本が書けたと思ったとしても、誰かの役に立たなければその仕事に価値はない。

顧客の喜びの対価でこの経済は回っている。

物書きが、その文章を読んでくれた人たちに対して価値を提供できるのは、気づきや発見があったときだ。定量ではわからない部分だからこそ難しい。

その文章を読む力が、読む側にも求められるから。

わかりやすく伝える。伝えることというのは、相手がわかることで成立する。文章上のコミュニケーションだと尚更難しい場合もある。

今、生き方に悩んでいる。このまま理想を追い求めるのか。現実を考え自分に蓋をして生きるのか。こんな悩みも贅沢なものだと自分でも思う。

最近、近所のドトールまでの散歩とnoteを書くことが日課だ。その途中に咲いているたんぽぽや草木を見ると、少しだけ心が軽くなることに気づく。

自分を幸せにするということが、子供の頃から苦手だった。他人軸で生きてきた苦しみを20代の頃に自覚した。そこから自分は何がしたいのか、何ができるのか、向き合った。これも相当苦しかった。

一旦、その苦しみから抜け出したと思ったけれど、今度はそこまでの道のりで躓いている。

休職ではなく、「活動休止」っていう言葉に少し勇気づけられた。活動休止している自分がいる。何がなくなっているのかの前に、今何が在るのかを考える。

文章が書ける。文章を書く力がある。歩ける。目が見える。人に優しくできる。思考ができる。

でも、体が動かない。時間が経てば、きっとリブートできるはず。

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