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黒ヘル戦記 第四話 ボクサー(前編)

『情況』2020年秋号に掲載された反体制ハードボイルド小説

第四話 ボクサー
1987年9月、白ヘル・マルゲリ派と一触即発の緊張状態にあった黒ヘル団体GKに、高校時代、ボクシングで名を馳せた男が加わった。GKは男の加入を歓迎したが、男は新宿のヤクザとのトラブルを抱えていた。

ボクシングはとても簡単だ。人生の方が遥かに難しい。
フロイド・メイウェザー・ジュニア
(元世界チャンピオン)


 1

 学術行動委員会(GK)の名簿にはこうある。

高野飛翔 一九六四年五月十七日生まれ。北海道立W高校卒。一九八四年四月、外堀大学法学部政治学科に入学。第一文化連盟のサークル、中国思想研究会に入会。八五年四月、第一文化連盟執行部に入り、八六年度には執行委員長を務める。八七年九月、GKに移籍。同年十二月、宿敵・松浦を打倒。現在、消息不明。

 八〇年代の外堀大学には、自治会、サークル団体、学術団体など、二十近くの学生団体があった。高野はサークル団体の第一文化連盟(一文連)で委員長を務め、その後、GKに来たのだが、この移籍劇には全学が驚愕した。一文連といえば、一九五〇年代からの長い歴史をもつ由緒正しい団体、堀大学生運動の本体であり、主流である。一方のGKは八〇年代に入ってから生まれた新興勢力、海の物とも山の物ともつかない怪しい集団でしかない。そんなGKに一文連の委員長を務めた男が移籍したのだ。巨人軍のスーパースター、長嶋茂雄が東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍するようなもので、これはありえないことだった。
「高野は何を考えているんだ」
 誰もがそう思った。俺も同じだった。「武川、頼む、俺をGKに入れてくれ」と高野に言われた時は、「頭がおかしいのか?」と思ったものだ。

 一九八七年九月、長い夏休みが終わり、後期の授業が始まろうとしていた頃である。ある朝、俺がバイトをしている中古自動車販売店の社長から電話があった。
「おー、起きてたか。おまえに客が来てるぞ。外堀大学の学生のようだ」
 時計を見ると午前七時である。
「ロッキーと朝の散歩をしてたんだよ。そうしたら、ロッキーがどうしても店に行くってきかないんだ。それで店に行ったら門の前に白のハイエースが停まっていた。横っ腹にでかでかと『外堀大学文化連盟』って書いてあったから、すぐにおまえの友達だってわかったよ。それで、声をかけたら案の定、武川武(たけかわ たける)に会いに来たっていう。うん、今は事務所にいるよ。それにしてもロッキーはすごいな。店に誰か来てるってわかったんだよ。本当にすごい」
 社長は愛犬ロッキーとの散歩の途中に店に寄ったようだ。それにしても、こんな時間に誰が来たのだろう。白のハイエースは一文連本部のものだ。しかし、一文連の人間はここを知らない。では、GKの誰かが一文連に車を借りて来たのか。それとも、一文連の人間がGKの誰かに聞いて来たのか。俺はそんなことを考えながら店に向かった。店は俺の住んでいる団地のすぐ近くにある。
「おはようございまーす」
 ドアを開けて中に入ると、パテーションの向こうの応接コーナーから「よっ」という声が聞こえた。
「早いな。社長さん、すぐ来るぞって言ってたけど、本当にすぐ来たな」
 応接コーナーのソファに座っていたのは高野飛翔だった。高野は床に置いた大きなバケツに両手を突っ込んでいた。バケツには水が張ってあり、大きな氷が浮かんでいた。
 なぜ、高野がいるのか、なぜ、バケツに手を突っ込んでいるのか。俺には何がなんだかわからなかった。
「社長さん、さっきまでいたんだけど、犬とドライブに行ったよ」
 おそらく、白のハイエースに乗っていったのだろう。ロッキーは好奇心旺盛な犬で、知らない車を見ると乗りたがるのだ。
「その手はどうした?」
「あー、やっちまったよ。社長さんに見せたら、すぐに氷水を用意してくれた。社長さん、ボクシングをやっていたんだってな」
 社長がボクシングをやっていたのは高校時代。「茨城県大会で優勝した」という話は百回以上聞いている。おそらく高野にもその話をしたのだろう。
「実はな、俺も高校でボクシングをやっていたんだ」
「知ってるよ、全国大会の決勝戦、テレビで観たよ。一発KO、たまげたよ。何かの雑誌のインタビューも読んだ」
 高野は有名な選手で、ボクシング界の期待の星だった。俺が読んだインタビュー記事では「体育系の大学に進むつもりです。もちろん、大学でもボクシングを続けて、オリンピックで金メダルを取るのが目標です」と答えていた。ところが、高野は体育系の大学には行かず、ボクシングの世界から消えた。
「そういえば、あの頃はいろいろインタビューも受けたな。あれはあんまり気分のいいものじゃないぞ」
「そうなんだ」
「そうだよ。だって人と会った時、俺は相手のことを何も知らないのに、相手は俺のことをよく知っている。なんか居心地が悪くてな」
「ふーん」
「だけど、そういうことなら、俺とおまえは対等だ。実はな、俺もおまえのこと、いろいろ知っているんだよ。生い立ちとか、家庭環境とか、高校時代のこととか」
「えっ」
「森口千秋が教えてくれたんだ」
 森口千秋はマルゲリ(マルクス主義者同盟ゲリラ戦貫徹派)の活動家、多摩キャンパスにある経済学部の自治会委員長である。
「マルゲリはおまえのこと、なんでも知っているぞ。おまえがここでバイトをしていることを教えてくれたのも森口だ。なんでそんなことまで知っているんだって聞いたら、こう言っていた。マルゲリとGKが戦争になった時、GKの指揮を執るのは武川武だ。だから、その時に備えて情報収集をしていると。森口はおまえのことをライバル視していたよ。もっともその話をしたのは五月のことで、今、彼女がどう考えているのかは知らないが」

 社長とロッキーが帰って来た。
「おまえたち、朝飯まだだろう。握り飯を買って来たぞ」
 社長は握り飯だけでなく、お茶やコーヒーやゆで卵やサラダも買って来てくれた。
「高野君だったな、手の方はどうだ。腫れは引いたか?」
「はい、おかげさまで腫れは引きました」
「どれ、見せてみろ」
 社長は高野の手を取り、指を一本一本伸ばしたり、曲げたり、さすったりした。
「ビリっとするか?」
「いや、それはないです。でも、全然、力が入りません」
「そうか。俺にも経験があるけど、前腕の筋肉がいかれたんだよ。二週間くらい、握力は戻らないぞ。とにかく病院には絶対に行け」
「わかりました」
「素手で人を殴るとこうなる。人を殴りたくなったら、ちゃんとグローブをつけるんだな」
「はい」
「それはそうと、警察の方は大丈夫なのか?」
「たぶん、大丈夫です」
「それならいいけど。示談でケリをつけるとしても、かなりの金がかかる。ケンカは割に合わない」
「そうですね」
「そうだ、俺がボクシングをやっていた時のジムの会長はこんなことを言っていた。人を殴りたくなったらヤクザを殴れって。一般の人間を殴ると警察に捕まるけど、ヤクザはチクらない。だから、殴るならヤクザを殴れって言ってたよ。酷い会長だよな。ヤクザよりタチが悪い」


 2

 社長とロッキーが帰ると、事務所は急に静かになった。
 窓の外には一文連のハイエースが停まっている。後期の授業が始まる前のこの時期、一文連は毎年、秩父で合宿をする。加盟サークルの代表者が集まって後期の運動方針について議論をするのだ。今年は昨日から合宿をしているはずだった。おそらく高野も秩父の合宿に参加して、そこで誰かを殴ったのだろう。
 社長の買ってきてくれたコーヒーを飲みながら、高野はこう言った。
「マルゲリの菅野は知ってるよな」
 知っている。この春、関西の大学から堀大に移ってきた男だ。二七歳、大分県出身。高校では柔道部の主将を務めていたと聞いている。
「あいつをやっちまったんだ」
「えっ」
 菅野はかなりの巨漢である。身長は一八〇センチ以上、体重は九〇キロ以上。高野は身長一七五センチ、体重は六〇キロといったところだ。
「なんで、菅野を殴ったの?」
 高野はこう言った。
 深夜の三時頃、秩父の旅館の窓から外を見ていると、河原の方に歩いていく菅野の姿が見えた。少し話をしようと思い、菅野の後を追った。そして、河原で話し込んでいるうちに口論になった。
「あいつ柔道家だろう。投げ飛ばされて、後ろから首を絞められた。裸絞めだ。すごい力で死ぬかと思ったが、指を捻って脱出して、振り向きざまに出した左フックがまともに当たった。グシャって音がしたから頬の骨が折れたかもしれない。あと、右のボディもかなりめり込んだから、肋骨も何本か折ったと思う」
 よく見ると、高野の首の周りは真っ赤になっている。裸絞めの跡だろう。
「俺、高校卒業間近って時にも素手でやって拳を痛めたんだ。担任の教師に何か言われて、気がついたら殴っていた。あの時は警察に捕まって、卒業も大学進学もパーになった。高校が卒業証書をくれたのは十月だ。社長さんは、殴るならヤクザを殴れって言ってたけど、本当にそうすればよかったよ。その点、菅野はマルゲリだ。マルゲリもヤクザと同じだから、警察にはチクらないだろう」
 それはそうだ。国家権力を相手にゲリラ戦を戦っているマルゲリが、警察に被害届を出すとは思えない。
「とはいっても、ただで済むとは思っていない。俺は学館を追放されるだろう」
 高野はまた手が痛み出したようで、氷水を張ったバケツに手を突っ込んだ。
 菅野をノックアウトすると、高野は旅館に戻り、救急車を呼んだ。そして、一文連執行部の人間をたたき起こしてハイエースのキーを借り、救急車が来る前に走り去ったという。
「逃げようと思ったわけじゃないんだ。ただ、少し考える時間が欲しかったんだ」
 そして、関越自動車道を走りながらいろいろ考え、ここに来たという。
「なんで、俺のところに来たんだ?」
「武川、頼む、俺をGKに入れてくれ」
 高野はすがるような目でこう言った。
「追放されるのはかまわない。殺されたってかまわない。だけど、今はダメだ。今、学館を離れるわけにはいかない。頼む、俺をGKの一員にしてくれ」
 高野が俺を頼ったのは、この頃、GKが、マルゲリに怪我を負わせた人間を庇う運動をやっていたからだ。

 一九八三年三月八日、三里塚空港反対同盟が分裂した。この日は全国でいろんな事件が起きたのだが、外堀大学の学生会館でもリンチ事件が発生した。北原派支持のマルゲリが、熱田派支持の黒ヘルをリンチにかけたのだ。
 その日の様子を俺はこう聞いていた。
「マルゲリは熱田派支持の学生を片っ端から自治会室に引っ張り込んだ。自治会室では金属バットをもった男が素振りをしている。そんな状況の中で、熱田派支持の学生たちは自己批判を要求され、自己批判を拒否したものは、殴る、蹴るの暴行を受けた。熱田派の集会には行きません。北原派を支持しますというまで解放されなかった。一番、酷い暴行を受けたものは、昼に捕まって、翌朝まで監禁されて、そのまま病院に運ばれた」
 これだけ聞けばマルゲリが一方的に悪いのだが、それから四年経った一九八七年三月、新たな事実が判明する。
 学生会館の三階、BOX305でGKの会議をやっていた時だ。突然、知らない男が怒鳴り込んで来て、「寺岡ー、なんで、おまえがここにいるんだ。おまえは学館を追放されたんだろう。なんで、ここにいるんだ」と喚きながら寺岡修一に詰め寄った。哲学会委員長の伊地知がすぐに取り押さえたが、男は羽交い締めにされながらも、ずっと「寺岡ー、てめー、許さないぞー」と喚き続ける。酔っ払ってるんじゃないのかと思ったが、酒の匂いはしない。寺岡は「俺、こんなやつ知らないよ。人違いじゃないのか」と言っている。
 どうしたものかと思案していると、今度は顔なじみのマルゲリが二人、血相を変えて入って来た。そして、「寺岡ー、てめー」と喚いている男を二人で抱えて連れて行った。
「今のはなんだったんだ?」
 あーでもない、こーでもない、といろんな意見が出たが、さっぱりわからない。ただ、マルゲリが関係していることは確かだ。それで、伊地知と法学術議長の遠藤がマルゲリのところに聞きに行った。そして、驚くべき事実を聞いて帰って来た。喚き散らしていた男は、四年前の三月八日、セロテープ台やパイプ椅子を寺岡に投げつけられて、顔面骨骨折の重傷を負った者だというのだ。
 寺岡はそう言われて、「えー、何それ、俺、そんなことしてないよ」と言っていたが、やがて、「あー、あれかー」と思い出す。
 三・八分裂の日は、寺岡も他の黒ヘルと同じようにマルゲリの自治会室に引っ張り込まれたのだが、寺岡は自己批判することなく、部屋の中にいた三人のマルゲリをノックアウトして出て来たというのだ。
「金属バットを振り回しているから、おまえ、何をやっているだと聞いたんだよ。そしたら、野球の練習をしているんだという。それで、そうか、じゃあ、これを打ってみろと言って机の上に置いてあったセロテープ台を投げたんだ。あの時は俺も興奮していたんでよく覚えてないけど、パイプ椅子も投げたかもしれない。あと、棚に並んでいたどんぶりやポットも投げたような気がする。まあ、向こうは金属バットの男も含めて三人いたから、こっちも必死だったんだよ」
 伊地知は寺岡にこう言った。
「こんな重要なこと、なんで四年も黙っていたの。俺、マルゲリに言われてびっくりしたよ」
 寺岡はこう答えた。
「だって、別にGKの方針でやったわけでなく、個人で勝手にやったことだから、報告しなくていいと思ったんだよ。それに、あの日はみんな、テロ・リンチは許さない、マルゲリ糾弾の闘争をやろうって盛り上がっていた。だから、俺もマルゲリにやられたって顔をしていたんだよ。俺も酷いことをやったとは、とてもじゃないけど言えなかった」

 翌日、マルゲリとGKの間で話し合いがもたれた。GKからは伊地知と遠藤が出た。
 当初、伊地知は「寺岡さんには謝罪してもらう。そうしないとまとまらない」と考えていたと言う。
「寺岡さんが投げつけたセロテープ台を見たんだよ。南部鉄でできたゴツイやつだ。重量2キロはあった。あんな鉄の塊、人の顔にぶつけちゃダメだよ。殺人事件にならなくてよかったよ。金属バットを振り回していたマルゲリも悪いけど、大怪我をさせたという事実は重い。謝罪は当然だ」
 が、マルゲリは謝罪を受け入れず、「寺岡は追放だ。これは絶対に譲れない」と言ってきた。
 こうなると伊地知も譲らない。
「冗談じゃない。あれは正当防衛だ。おまえたちこそリンチの自己批判をしろ。寺岡さんが鉄の塊をぶつけたのは金属バットで武装した人間。おまえたちがリンチにかけたのは丸腰の人間。どっちが悪いかは火を見るよりも明らかだ」
 こうしてマルゲリとGKは紛争状態に入った。

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