なんでもない夜に向いたこと

 家に帰ると彼女がカーペットの上に倒れていた。
 そう思って近づいてみると寝転がっているだけ。指先がカーペットの上を這っている。
「どうしたの」
 僕の声に気だるげに顔を回して無秩序に垂れた黒髪の隙間からその眼を見せる。眠たげなままの目蓋の奥にある色は曖昧で、焦点が僕に合っているのかどうかもわからない。
 おかえりぃと間延びした声で僕を迎える。
 彼女のすぐ傍まで寄ると、彼女の胸の辺りに目覚まし時計らしきものがいくつも転がっているのが見えた。
 種類も豊富で、丸くて白い卵みたいなやつ、灰色で長方形をしたデジタル式、小さな置き型の振り子時計みたいなのやらたくさん転がっていた。向きも天地も滅茶苦茶で時計盤が彼女から隠れてしまっているものも多くある。
 生白い腕がのろのろと地を這って、僕の足首を掴む。その腕を踏まぬように膝を折って彼女に顔を近づける。
 彼女はいつの間にか目蓋を降ろしていて、すうすうと静かな寝息を漏らしていた。足首を掴む手も自然と外れてカーペットに転がった。
 すっかり眠ってしまった彼女の目の端から延びた涙の跡を指の腹で拭い、華奢な身体を持ち上げてソファーに寝かす。その間、彼女は身じろぎひとつせず、安らかな寝顔を保ったままだった。
 改めて無造作に転がった目覚まし時計の群れを見下ろす。その時計ひとつひとつの下に敷かれているのは裸のDVDだった。そのラベル面は全てが真っ白でそのいくつかには彼女のものらしき筆跡でなにかが書き殴られている。ただその曲線のほとんどが意味を為していない。
 意味の読み取れないその中に「うみ」という単語を見つけ出し、少し迷って取り上げた。ころんと転がった時計の文字盤に目が留まった。
 長針と短針は揃っている。ただ、その動きがちぐはぐで短針が長針を幾度も追い越している。それも逆回りに。周りのものに目を向けるとその全てが示す時刻はばらばらで、それぞれの刻む一秒も違っていた。
 踏まないように気をつけながらDVDをプレイヤーにセットする。ぶうんと音を立てて読み込みが始まった。足元を気にしながらソファーまで戻り、彼女の足をそっと上げて、空いたスペースへ腰を落ち着ける。その上に再び降りた彼女の足が乗る。じわりと太腿に熱が広がる。その踵がもぞりと動いた。
 テレビからざぶんと音が鳴る。画面一面には砂浜。ゆっくり画面が滑って緩やかな波が映りはじめる。べったべたなカメラワークだ。そこを横切るのは彼女、そして僕。こんなものを撮ったことなんかないし、この海岸にも覚えがなかった。けれどそこに映るのは間違いなく僕で、彼女だった。
 映像の中ではなんでもない会話が続くばかりで、映像作品じみた展開は期待できそうにない。机の上に置き直された時計は正確に無茶苦茶な時間を指し示しつづけている。
「さよなら」
 画面上の会話劇は次第に奇妙な方向へ流れていく。
 膝の上にあった足がすうっと引かれ、彼女は膝を抱えて胎児のような格好になる。腿に残る熱がぞくりと冷えた背中へ溶けていく。その寝顔もどこか苦しげでソファーの背もたれに額をぎりぎりと押しつけている。
 映像の彼女がじっと海を見る。いつもよりずっとはっきりした険しい顔を見せている。隣で眠っている彼女と全く同じ足が寄せる波を踏みつける。水飛沫が弱く寄せる波をランダムに揺さぶる。映された僕同様に僕はそれを眺めることしかできない。
 それでも僕はどこか安堵していた。あれは別の自分だ。今ここにいるのは僕しかいない。そう考えてソファーに身を預ける。僕の手は彼女の肩に自然と乗せられている。
 進みつづける彼女は腰まで沈み、その輪郭を崩しはじめる。海水を吸って色を濃くした細身のジーンズが浮かんできた。
 彼女にはもう足はなかった。海に溶けていた。中身の消えたジーンズが波に揉まれて遠洋へ連れていかれている。
 そこで僕はリモコンの赤色をした電源ボタンを押した。画面は真っ暗になり、彼女の苦しそうな寝息だけが明るい部屋に残る。
 すっかり温もりの消えた膝に手を当てて立ち上がる。DVDプレイヤーからディスクを出して、ひとつ残らず拾い上げた他のDVDと纏めてテーブルに置いた。時計も揃えてテーブルに端から並べる。二十個もあった。当然、DVDも全部で二十。
 それを確認して僕はカーペットの上に膝をつく。耳が覗く長髪を優しく撫でる。それから彼女の身体を抱える。んう……と小さな声が漏れる。
「ほらベッドで寝るよ」
 出来る限りの細く優しい声を出して彼女に伝える。それは彼女に届かない。今日はもう眠り姫のままであってくれればいい。消えさえしてくれなければ。
 寝室のベッドに彼女を降ろし、そっと髪を梳く。
 さっき僕の足を掴んだ手は固く握られていていた。その手を慎重に開いて僕の指を絡める。握られたままだったからか、彼女の手は汗ばんでいた。彼女の柔らかい指がきゅっと締められる。やがて緩んで、手を引けば簡単に離れてしまいそうだ。
 それでも僕は絡めた手を離さずベッドに潜り込む。
 今日は彼女の隣で眠ってしまおう。そう思って僕は目蓋を閉じる。
 きっと明日になれば時計の針は止まっているし、DVDにはなんの映像も残っていない。
 暗闇に浮かぶ靄の中でそんな望みを唱える。そして曖昧な靄も深い暗闇に溶けて消えてゆく。柔らかく繋いだ手だけにはっきりと生きた熱が伝わっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?