ずっと一緒に/再会のないように

 焼けたソーセージと白身を見つめながら大きな欠伸を漏らす。
 眠い。片目に浮いた涙を拭う。潤んだままの瞳の中で陽光がきらきらと輝いている。綺麗なのはいいことだが、料理中は鬱陶しいことこの上ない。早く隠れてほしいけれどお天道様が僕ひとりを見ていたとしても、それはそれで怖いから、こちらが瞬きをして瞳の上から涙を追い出す。
 もう一度湧いた欠伸を噛み殺して、視線を下げると黄身もすっかり固まってしまっていた。ソーセージのほうも切れ込みから弾けて、少しだけ縮んだ中身を晒している。
 今日はこれと、冷蔵庫で眠っているまだ生で食べても当たらなさそうな野菜の数種盛りだけ。それ以上は僕が眠気に抗えない。
 こんなことに備えて仕事は休みを取っておいた。こんなとき、上司が余計な詮索好きだと助かる。それでも勝手に彼女との美しい愛に満ち満ちた生活を想像されるのは、業務の越権だとは思うけれど。
 未だベッドの上で眠りこける彼女を見る。相変わらず寝相が悪い。もちろん、僕が起きてから掛けてやったブランケットは床で足拭きマットに改名しているし、首の前で腕が交差して左手は天を指していた。
 それでも彼女は穏やかな寝顔を晒している。起こすのがはばかられる。白い皿から立ちのぼる湯気と見比べてみて、数瞬まごつきながらも彼女を呼ぶ。
「おーい、朝――いや、昼か。もう昼なんだけど」
 返事がない。聞こえるのは、ぶうんとベッドの横で首を振る扇風機の音だけ。
 おーい、ともう一度呼び掛けてみる。眉が動いて、小さな呻き声。ぐるりと身体が回りそっぽを向かれた。
「仕事はいいの」
 機嫌を損ねぬよう、ひそめた声で訊いてみる。
「……いい。今日はツキがないから」
 彼女が身体を丸めながら言う。
 彼女は占い師をやっている。周りからズレにズレている彼女が普通の就職が出来るはずもなく、どこで感化されたのか、スーツをカーペットに脱ぎ散らかしながら、未来が見えたと言い出した。これでなにかしたいなあ、とも。
 そこは惚れた弱みということで、彼女の一念発起に協力した。ただ、いいんじゃないと言っただけだけれど。
 彼女の占いに小細工は必要なかった。ただ卜占と書いた紙の看板と筆記用具にメモ帳、それと財布だけ持って出ていった彼女は遊び半分で人の過去と未来を当てて帰ってきた。お金も取らずに。当然その日の内に看板に値段も書き込んでおいた。
 数か月で彼女は神出鬼没の占い師と専門誌の特集を組まれるまでになった。謝礼として大金を渡してくるお得意様すらできたらしい。当人はそこにさしたる興味も抱いていないようだけれど。
 お陰で僕らはなんとか自由に生きてこれている。その延長で自らの営業日もその日の運勢で決めているらしい。半分くらいはサボっている気もするが。
 くっしゃくしゃのシーツの上ですっかり丸くなっていた彼女は、右手はもそもそと寝巻きの裾を引っ張ってへそを隠す。
「起きない?」
「起きない」
 彼女の寝癖を梳きながら訊いてみても、むっつりとした答えが返るだけ。足までも引きずり寄せて、ぐんぐんと丸くなっていく。
「ご飯作ったんだけど?」
「……ん」
 鼻がひくりと動く。
「ん」
 長年一緒にいる僕にはそれが、またこれ? という非難だとわかる。
「食べない?」
「……んん」
 もぞり。彼女の顔がこちらを向く。辛うじて開いている目蓋の奥の瞳は未だに焦点が定まらず、あちらこちらと揺れっぱなしだ。魚の時計、食器棚の中で逆さに伏せられたマグカップ、僕の顔をぐらんぐらんと捉え、ようやくテーブルの上の食事に視線を固定する。
「ありがとね」
 にへらと顔を綻ばせた彼女は僕に手を伸ばし、ころんとベッドから落ちた。
 なんともないようで、すぐに寝息が聞こえはじめる。シーツの代わりにブランケットの上で窮屈そうに丸まっていた。
「仕方ないか」
 ベッドからベランダに向かって生えている竹に向かって言う。
 なんせ昨日は七夕だったから。

 天の川を見ようなんて言い出したのは彼女だったか、僕だったか。
 僕らはベランダでずっと天の川を見ていた。雲のない空には都会の光に消されかけた弱々しい川が掛かっていて、彼女の瞳がそれをまっすぐ映していた。
「あ、あそこ」
 僕の肩を叩いた彼女がぽつりと呟く。伸ばされた指先を辿ってみても、あるのは変哲のない天の川だけ。天の川? と指したものを尋ねてみても、違うと返される。なんだったのか訊くと、なにかがいたらしい。鳥と尋ねて否定され、虫かと言ってみて首が横に振られる。
「翼、星と同じくらいに真っ白い翼がある女の人。目が合ったら消えちゃった」
 彼女曰く、織姫でもないんじゃないかな、とのこと。結局、その正体は不明。れっきとした未確認飛行物体だ。ファンタジックなものをしっかりオカルティックに捻じ曲げる辺りはやっぱり彼女だと感心した。
 それからはなにか大きな出来事もなく、夏の匂いを帯びた涼しい風を浴びながら、彼女の気が済むまで天の川を眺めつづけていた。

「彦星じゃなくてよかったよ」
 彼女のしつこい寝癖を撫で伏せながら呟く。彼女にはまた僕の小言だと聞こえたようで、不満げな呻きと張り手が幾度と僕の足へ向けられる。
 そんな彼女を抱きかかえて椅子まで運んでいく。
「冷めない内に食べよう?」
 すっかり目が覚めて不満げな彼女に言う。わかりやすいまでの仏頂面。口は尖り、眠気と怒りで細められた目が僕を刺す。
「今度はもっといいものにしてよ……いただきます」
 毒づきながらも箸を取った彼女は、すっかり昼食となったそれを口に詰め込むように食べている。お腹は空いているらしかった。やっぱり足りなかったかなと少し後悔した。
「もうちょっと考えとくよ、明日はさ」
「明後日も、明々後日のもだよ」
 彼女は刺々しさを演出した口調で言う。それから数拍遅れて緩んだ口角を思い出したように吊り上げた。
 昨日、彼女がこう訊いたのを思い出した。一年会えないのと、一日会わないのどっちが辛いかな、と。押し寄せる眠気の中でどう答えたかは思い出せない。けれども多分、どっちも辛くて、どちらも幸せだと思う。
 あらゆる未来が僕達を待っている気がする。けれど僕らは離れない。そんな選択をしつづけられる。そんな予感に僕は満たされている。
 なにしろ、そうお願いしたんだから。彼女と一緒に。
 彼女が二度寝をしようとベッドに倒れ込む。あ、と声を漏らした僕は彼女を無理矢理引きずって洗面所へ連れていく。
 開けた窓から吹き抜けた風はむせ返るような夏の匂いがした。

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