ドント・ストップ・ブラッシン

 一メートル四方を平らにするのが僕らの使命だ。
 深夜、家から抜け出した男女がふたり、人気のなくなった大通りに並んでアスファルトを磨いている。
 こんなに暗いのに目深にキャップを被っている彼女はリリという。恰好はよくいる今どきの女子といった感じで長い髪は明るい茶色で月光をよく返している。少し鋭いと感じる目は深い黒をしたアスファルトに向けられていて、硬い毛のデッキブラシがその表面を往来している。
 彼女を最初に見たのは秋も終わろうとする日付の変わったところだった。無性に食べたくなったスナック菓子を買った帰り、ばったりと出くわしてしまったのだ。より正確を期すのなら、地面を磨くざりざりという音に釣られてしまった。
 普通ならば夜も遅く、おっかない顔つきでひとりアスファルトを磨く女を見れば悲鳴を上げるか、見て見ぬ振りをするのだろうけれど、その日はすこぶる機嫌がよくてすこぶる不用心だった。
 世界平和を願っているの。すっかり擦り切れたデッキブラシを動かしつづけながら縁石に座る僕に向け、彼女は答えた。それなら真昼間の駅前やらインターネットで大声で呼び掛けるのが世間のスタンダードなのだけれど、彼女はそうしなかったらしい。
「地球が丸くなければ少しは変わるはずなの」
 大真面目な顔のままそう言った彼女にどんな顔を向けたのかは覚えていない。しかし、後に彼女曰く、ホイップクリームだと思って嘗めてみたらサワークリームだったときの顔だったらしい。その話を聞いてから今日まで僕は未だにサワークリームを口にできていないでいる。
 彼女の主張を要約するならば、技術が発達しても未だ世界中を占める悲しみをなくすために世界を変えようと思い立ち、まん丸であるこの地球をどうにか正云角形にしようと思い至ったようだった。球や円の諸々を計算するときにその辺を出来得る限り細かく裁断した切れ端が直線か曲線かと問うたときの争いに終止符を打ちにきたかは定かではないが、まあそれに近しい空論ではある。
 結局のところ、一学生である彼女は手近であったメートルを基準として選び、学者気質でもないのでそれなりの粗雑さを許容してホームセンターで安売りされていたデッキブラシで地面を削ることにしたらしい。
 幸いとしてメートルは地球の円周に由来し、おおよそ四千万角形になるらしく、彼女はその数十を超えたところのようだった。
「きっとわたしが生きている間には終わらないでしょうね」
 それでもいいのと髪を掻き上げた彼女はまた一メートルを測ってポケットから取り出したチョークでバツ印をつける。
 色々と訊いてしまった罪悪感からか、その日の心地よい気候のせいか、僕は自らその偉業の手伝いを宣言してしまった。彼女の顔が僕の好みのタイプだったということと関係ないことを一応ここに補足しておきたい。
 ついでとばかりに必死の形相が怖いと伝えてみたところ、翌日からキャップを深く被ってくるようになった。

「ほら、飲むかい」
 コンビニで買ってきたミルクティーを差し出すと短く礼を言ったリリがそれを受け取ってこくりと一口飲み下す。
「大丈夫だった」
 ビスケットを齧った僕が訊く。どこからか現れた老女に執拗に果物を勧められつづけていた彼女は気にもしてないわと口を尖らす。暫くしてその女が霧散するまで無言でデッキブラシを擦る少女とどちらが怪しかったかの感想は喉元で留めておく。
 数週間に一度くらいは今日みたいなことが起きる。これくらいが丁度いい。なにもなければ張り合いもないし、毎日続けば辟易してくる。
 半年くらいの付き合いになる僕らの進捗は大通りから大通りまでだ。彼女が云うには大通りから始めたそうだから、僕らはまだこの街すら出ていけそうにない。
 けれどいつか、僕らもこの街を出ることになるのだろうか。縁石に腰を下ろして一緒に飲み物を飲む彼女の横顔を見る。彼女が大人になっている姿を思い浮かべてみるが、どうも像を結ばない。その視線に気づいたのか、彼女の鋭い目がこちらに向く。
「曲がり角、どうしようか」
 僕が訊く。
 当然の事実として、僕らの偉業をお膳立てするように一直線に道が開いていることなどあり得なくて、道路は緩やかに曲がって、僕らの直線はどこかの会社のビルにぶつかる。
「なにが問題なの」
 疑問ですらないようで、彼女はきょとんとした表情を浮かべてこちらを見つめ返す。まあ暫くは退屈しなさそうである。僕はビスケットの欠片を払い落とし、珍しく通ったバイクを見送ってからまたデッキブラシを手に取る。
 結局のところ、僕が少年を名乗れる間は深夜の密会は続けられたし、この街から出ることもなかった。彼女がこの世界から消えてなくなったその日まで。

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