風呂

 僕の入浴は両極端だ。たいていの場合はシャワーしか浴びない。朝風呂派であるため、ゆっくり浴槽に浸かっている時間がないのである。しかし一転して、風呂に入る時間があるときはかなりの長風呂となる。一度の入浴はだいたい一時間は越す。美容のために意識的に長風呂する人にとってはそこまで長くないかもしれないが、この一時間という時間は、僕がゆだりきるのに十分な時間だ。一度風呂に入ると決めるや、限界すれすれまで長風呂してしまうのである。

 この長風呂は特に夏場に難航する。例によって今年は猛暑がひどい。奪われる水分の量も馬鹿にならないものとなる。そこで最近は、長風呂するときにはきんきんに冷やしたソルティライチを持ち込むことにしている。ソルティライチ。ヒートアイランドのオアシス。コンクリートに蒸し焼かれてへとへとにくたびれながら自販機のソルティライチを飲む。こんなに素晴らしいことはない。逃げ場のない熱気から切り取ったみたいに冷たいそのボトルは、清涼感のあるパッケージとパッショネートな風味もあいまって、まるで500㎖に凝縮したオアシスかのごとく僕には見えるのだった。このオアシスを蒸し風呂にも持ち込むのは、道理にかなったことだろう。

 実際、最高だ。人間の舌は、そのとき体に足りていないものが一番美味く感じるようにできている。塩分と水分とが湯舟に染み出る。ソルティライチを口元に運ぶ。火照った体に冷たさが際立つ。ライチの奥にある塩っけが、まもなく体になじんでいく。

 自分のことが、ちょっと器みたいに思えてくる。Aを入れながらBを出す、それでも重さも中身も変わらない器。苦くてぬるい体液を出しながら、甘くて冷たいジュースを入れても、僕は何も変わらない。少なくともそのように思える。

 液体だけじゃない。聞いて、話す。覚えて、忘れる。僕はいつも何かを受け取り、いつも何かを出している。器というよりはトンネルかもしれない。何もかもは僕の中をくぐってくるのだ。そしていつか、くぐり抜ける。世界は僕よりずっと大きいし、少しの隙間もないからくぐることは決してできないが、僕は世界をくぐらせられる。生地に型を押し込んだときみたいに、ちょっとずつだけど、世界は僕を、ぐにゅにゅと無理やりに通って、新しい形に変わっていく。

 …こんなことを考えていると、ソルティライチが残り一口ぶんくらいになっていて、やはり頭もぼうっとしているから、僕はしびれかかっている重い腰を上げて、冷たいシャワーで頭を洗い始めるのだった。

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