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対象物を通してあなたは何を観ているのか?

東京藝大美術学部 究極の思考』という本にこんな文章がありました。

仕上がりが同じ絵があっても、「紙の上に対象を写したのか、それとも紙の上に作っていったのか」によって大きな違いがある。

この文章の前後の脈絡はさておき、対象物を見てそれを紙に描く時、「紙の上に対象を写しているのか?」、それとも「紙の上に作っているのか?」
これはおもしろい考えだなと思いました。

私は美術畑にいた人間なので、すぐにその意味を理解しました。
私はイギリスで芸大に行きました。デッサンはかなりやったつもりです。
日本に帰ってから、日本では受験デッサンのための描き方があると知り、驚きました。今の状況は知りませんが。

私が日本の芸大で非常勤講師をしていた時、ある講師が言いました。
「受験で型にはめてしまうから、まずそのガチガチになった頭を壊すためのいろんな課題を1回生にはしてもらう」と。

芸大と言ってもいろんな学科があります。私がいたのは彫刻科で、既存の価値観や考え方にとらわれない方向性でした。受験のために型にはまった描き方を身につけて、入学したらその洗脳をぶっ壊されるという不思議な構図でした。

私はイギリスで山ほどデッサンをしましたが、かなり自由でした。こういうふうに描きなさいという技術的なことはあまり学びませんでした。上記の引用からすれば「紙の上に作っていく」ことを学びました。作っていくのですから、型にはまった描き方を学ぶ必要はないのですね。それよりもすでに身につけた常識をぶち壊すためのいろんな課題がありました。

同じものを描いていても、一人一人見ているところが違います。形を見る人、光と影を見る人、質感を見る人、テクスチャーを見る人などいろいろです。それにより現れてくるデッサンも違ってきます。

一度、写真を見ながら模写をして、かなりそっくりに描けたことがありました。友人たちも「すごい!」と褒めてくれて、私もいいものが描けたと思って、それを先生に見せたことがあります。そうしたら「ふうん」で終わりました。まったく興味なし。
それは「紙の上に対象を正確に写した」絵でした。写真のコピーを描こうとしたわけです。模写が悪いわけではないでし、写真もどきのすごい絵を描かれる方もいらっしゃいます。その技術は恐ろしいほどです。私の絵はそれほどではなかったですが、それでもかなり写真に迫っていました。

私が学んだクラスでは「紙の上に作っていく」ことが重視され、「紙の上に対象を写す」ことは期待されてなかったのですね。

対象物そのものを正しく描き写すことよりも、各自の目を通して見える内的な何かがその絵に現れているかが大事だったのだと思います。

日本画では写実的に描くことによって表現されるものがあります。ダイレクトに作家の意図を伝えるのではなく、自然の風景などに託されます。
俳句に似てますね。良い句は情景を語っていても心情や真理が見え隠れします。どう受け取って解釈するかは作家の手を離れて見る側に任せられます。

古池や かわず飛び込む 水の音

有名な芭蕉の句ですが、こういう雰囲気を知っている日本人であれば、この句を聞いて静寂や余韻、無常を感じると思います。それに伴う情感もあります。
描写は「古池にかわずが飛び込んで水の音がした」という情景しか描かれてませんが、私たちは情景を思い浮かべながらいろいろ感じるわけです。

その時に「作者のいいたいことはこういうことだ」とか考えません。もののあはれや無常という感覚はあれど、この句を通して作者はこういうことを言いたかったのだと分析したり、解釈するのは本質からズレてしまうように思います。

西洋絵画にもいろいろありますが、作家が表現したいこと、言いたいことが作品に表されているものが主流です。そして見る側はそれを読み解くことで絵画を理解します。作者の主張はこうだと。
西洋のアートはアートという文脈上にあるので、そのコンテクストを通して語られます。なので新しい切り口やコンセプトが重要になってきます。だから対象をそのまま紙に写すことよりも、作っていくことが重要視されます。

今までの日本の教育は「そのままを紙に写す」ことが奨励されてきました。正しい答えやマニュアルがあり、その通りであれば「よくできました」です。自分で工夫したりすると、それは本筋から逸れますから良くないとされました。

「紙の上に作っていく」描き方は普通に描いていれば個性が出ます。必ずその人が観ているものがデッサンに出てきます。
デッサンはこういうふうに書かねばならないと型にはめてしまうと、個性が消え、きれいな絵ができあがります。それを人は上手だといいますが、イギリスの私の先生であれば「その絵をぐしゃぐしゃにしてみろ」と言いそうです。

芸大の入試のデッサンの監督をしたことがあります。型にはまった描き方をしていてもやはり個性は出てきます。私は採点する人ではなかったですが、見回りしながら見ていて思うことがありました。

それは何かというと、伸びしろがあるかないか?
とても上手な絵を描いていて完成されてる人よりも、可能性を感じる人をとりたいと思いました。前者は何事もそつなくこなしそうですが、伸び悩んで途中で壁にぶち当たってやめてしまいそうです。器用でしょうから、他のうまくいくことに乗り変えてしまいそうです。

可能性を感じるデッサンをする人は今はまだ未熟でも、いろんなことを試して、どんどんと新しい発見と創意工夫をしていきそうです。どうせ受け入れるなら伸びしろがある人の方がいいです。それはデッサンを見るとわかります。

見たままをそのまま書き写す技術も、作っていく能力もどちらも大切です。人によってどちらが得意かは違います。どちらもニーズはありますから、自分に合ったやり方でできることをする方がうまくいきます。

どちらの描き方も、対象物をしっかりと見て描いているか?が大事です。
対象物と紙上を見る割合は、8:2ぐらいでいいです。デッサン初心者は対象物より紙を見るので、2:8ぐらいになります。
自分の記憶から描いている場合が多いです。デッサンをすることで、いかに物を見ていないか、記憶に頼っているかがわかります。デッサンをしていくと観察眼が養われます。

AIの進化が早いこの頃ですから、「紙の上に対象物を写す」ようなことはこれからはAIの仕事になりそうです。「紙の上に作っていく」作業ですらAIがかなり上手にやりそうです。
それでもAIには作れない生の人間ならではの”何か”は「紙の上に作っていく」作業では現れてくると思います。現れてこないとしたら、その人の人間性や洞察が足りないということになります。

本質が問われる時代になりますね。AIの進化と共に、私たち生身の人間も同時に進化していきたいものです。

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