見出し画像

わたしにとって「おにぎり」な記事とは。


『さみしい夜にはペンを持て』の古賀史健さんのnote。
今月7日の記事に、興味深いことが書かれていた。



砂糖やバターの入った食べ物は美味しい。
そして、甘い砂糖やクリーミーなバターそのものもまた、美味しい。

だけど、そのまま舐めてかじることはしない。
重いし、くどいし。

ジュースには適量の砂糖が入っているから美味しいのであり、トーストにほどよいバターが塗られているからやみつきなのである。

いう話から、この記事は始まる。

そして古賀さんは、これをSNSに例えている。

タイムラインという「おおきなトースト」に、誰かがバターとしての愉快な投稿を塗る。そのかぎりにおいてソーシャルメディアはおもしろい場所なんだけれど、みんながみんなバターを投稿しはじめたら、そりゃあ胃もたれする。


この感覚、わかるなあって。 

わたしがX(旧Twitter)やInstagramをやめたのも、この砂糖やバターのせいだ。
いや本当の砂糖とバターは大好きだけども。


たしかに、砂糖やバターのように、濃くて短絡的で押し付けの強い投稿も、ちょっと見かける程度なら、気分転換になっておもしろい。

でも、Xで言えば、強い口調や批判的な内容の投稿だったり。
Instagramでいえば、執拗にフォローやいいねを迫る記事、あるいは無駄に結論まで遠回りさせられる手法の記事などは、わたしの心をウンザリさせた。
それも、しつこく、数も多い。


最近はYouTubeでも、この砂糖やバターうんざり現象が起きていて、本当に見たいものや知りたいことになかなか辿り着けなくてイライラする。

みんながみんな、同じようなことばかりPRして、同じような手法で客引きをしようと引っ掛けてくる。
せっかく楽しんで見ていたのに、砂糖やバターだと分かった瞬間、「もういいや」とがっかりしてしまう。

もちろん、YouTube動画もInstagramも、それで生計を立てておられる方からすれば、どれだけチャンネル登録され、いいねをもらえるかに生活がかかっているのだろうから。
どんな手を使ってでも、という気持ちは分かる。

何より、わたしはひとりの小さな視聴者だ。
砂糖だろうがバターだろうが、黙って見たいものだけ選んで見とけよ、と言われても仕方がない立場である。
それはそうなんだけど、最近は勝手に出てくるんだもの。

「これが好きなんでしょ?」と、勝手に表示されるような砂糖やバターについて、古賀さんも言及しておられる。
さらにその中には、「粗悪」なものもある、と。

先日、別の記事でYouTubeのショート動画の話をしたとき、「一定の動画には、伝え方に汚さを感じる」というコメントがあって、確かにと納得した。
今回の「粗悪な」砂糖やバターも、同じ意味になるだろう。


これを踏まえて古賀さんは、次のように述べている。

noteも含めたソーシャルメディアでは、なんだかんだと砂糖やバターの含まれた投稿が受けやすい。でもなー。ほんとに長く求められるのは、お米のごはんであり、粉と塩だけでつくったバゲットだと思うんだよ。そういう胃もたれのしない主食が、ぼくは食べたいんだよ


古賀さんはそれを「おにぎり」みたいな記事という。
わたしにとって、「おにぎり」みたいな記事って、どんなだろう。

わたしの中で「おにぎり」な記事は、噛めば噛むほど、ほほうと味が滲み出て、自分好みにアレンジもできて、ふとまた食べたいと思えるような、そんな記事だろうか。


そう思うと、役立つ情報やまとめ記事よりも、明確な結論まで辿り着いていない、ほどよく「どうなんやろね」くらいの温度感で終わってる記事のほうが、案外わたしには「おにぎり」かもしれない。


結論づいてたら、それを丸呑みしてしまう。
自分好みに変えられない。

だから、その記事から何も得られない。
一見、有益そうな情報を得た気になるが、それはだれにでも言えるような、曖昧な結論なわけだから。



そう考えたら、わたし自身も、つい何かと決着をつけたがって終わらせる記事を書くときがある。
つい何とかして「いい感じ」に終わらせようとしてしまうけど、無理にハッキリさせなくてもいいんだ。

「おにぎり」をどうアレンジして、どう食べるかは、読み手に委ねてしまえばいいんだ。



noteでも、私の思う砂糖やバター記事に出くわすことがある。
ただ、noteの場合は、タイトルや読み始めから、なんとなく「あ、これは今私が求めている感じのものではないな」と分かるので、うまく避けることができるようになった。

必要なときは、存分にそういう記事も読んで楽しんでいるし、不要な時は見なくてすむ。
私の中では、noteはまだ、安心な世界に感じられる。


わたしも、安易な砂糖やバターを量産せず、おにぎりをひとつずつ並べていきたい。

誰が食べるかもわからない。
薄味で、何の味気もないこともある。

それでもわたしも「おにぎり」の方が好き。
作るのも、食べるのも。

この記事が参加している募集

noteの書き方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?