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「毎日投稿」は、良い負荷も与えてくれていた。

記事を「書き上げる」頻度が落ちた。


これまで自分に課していた「毎日投稿」の義務がないからだ。
投稿する必要がないので、無理して記事を書き上げる必要もない。

だから、書きたくないなぁという日は書かないし、がんばろうとか、無理して書こう、という気も起きない。


するとどうだろう。 

思考停止する日が増えてしまった。


1日1回、どんな形でもいいから何かしらに仕上げた記事をアウトプットする。
その目標がないので、必死に考える努力をしなくなった。

無理して結論を導いたり、本を読んで考えの答えを探したりもしない。
それどころか、人のnoteを読んだりすることもしなくなった。 

note自体は、何となく癖で開いている。
けど記事が頭に入ってこないのだ。
それは、自分で打っている時も同じで、思考停止しているせいか、自分の打っている文すら頭に入ってこない。



‥いやそれ、単なる疲れや寝不足では?
多分それもある。
noteで記事を「書き上げる」には、元気な体と心が必要なのだ。 


じゃあ疲れてまるっきり書いていないのか、と言われれば、そんなことはない。

書いている。
毎日、必ず書いている。


携帯のメモに日記を綴るし、記事の下書きもいくつか書き出す。
手書きのノートも書いているし、なんなら本も毎日読んでいる。

ただ、その日中に仕上げなければならない「緊急性」がないので、がんばって「書き上げる」ことをしなくなった、というだけの話なのだ。

どうやら「毎日投稿」は、わたしに一定の負荷をかけていたらしい。

それは、時に重荷でもあったが、考えることを促すための「良い負荷」でもあったようだ。



わたしは、「毎日投稿」をやめて良かったのだろうか。


あの熱量を持って書いていた日々が懐かしい。「note」という素晴らしい居場所を手に入れた感動と、投稿へのやる気に満ち溢れた時から、遠ざかっている気がする。
それが寂しいような、当たり前のような。

書きたいことは山ほどあるし、書くことが苦痛なわけではない。
むしろ楽しい。

でも、書いても「投稿」の必要を感じないのだ。
携帯のメモに毎日書いて、思いついたことを下書きに書いて、手書きのノートに思うままに書いて、それでたまに、投稿する。

そんな私でいいのかどうか。
楽で気ままで無理のない今か、ちょっと頑張って負荷をかけていた以前か。

どっちがいいんだろう。
__いや、どっちがしたいか、だ。
目指すのはどちらの生活なのか。
私はどうなりたいんだろうか。



答えは、どれもだ。 

莫大なエネルギーで書いてポンポン投稿したい日もあるし、「今日は無理」と思って下書きすら書かない日もある。
波がある。
当然だ、人間だもの。

たぶん大事なのは、そうやって投稿したりしなかったり、書きまくったり何も書かなかったりする。
そんな不安定な自分の書き様を、そのまんま認めてやることなんだろう。

だから。書けない日があっても落ち込まなくていいし、書きたい日はしこたま書いたらいい。
「投稿」には、こだわらない。

でもずっとずっと、ずっと「書く」。


そして書くために、考える。
考えられないぐうたらな日があってもいいけど、考えることの大切さは見失わない。

そうやって考えて書いて、たまたま仕上がった記事は、大事に、それでいて気軽に「投稿」する。

それくらいが、わたしらしい「note」なのかもそれない。



ありがたいことに、この「毎日投稿をやめた」という記事は、たくさんの方に読んでいただいている。

毎日必ず、この記事を読んだ方の通知が来る。
ということは、毎日投稿についてそれだけ多くの方が、気になっているということなんだろう。

わたし自身も、毎日投稿をやめて以降、noteとどう付き合っていくか、日々模索中だ。
そして、これからも多分答えを出せないまま、ゆるゆると悶々と、悩み続けるだろう。

でもそれでいい。
試行錯誤しながら、自分にとって居心地の良い場所にしていけばいいんだから。

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