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羅生門#2 “門”から読む

はじめに


多読脱却のための読書感想第二弾。
今回は『羅生門』について。最近買ったのですが、読み込むと想像より面白いことがわかりました。今回はこの作品の要素を精読してみたいと思います。

芥川龍之介がこの作品を『今昔物語集』から発想したものは前回ですでに述べました。少々遅いタイミングですが、今昔物語集の当該説話の原文を。

今昔、摂津の国辺より、盗せむが為に京に上ける男の、日の未だ暮ざりければ、羅城門の下に立隠れて立てりけるに、朱雀の方に人重(しげ)く行ければ、「人の静まるまで」と思て、門の下に待立てけるに、山城の方より、人共の数(あまた)来たる音のしければ、「其れに見えじ」と思て、門の上層(うはこし)に和ら掻つき登りたりけるに、見れば、火髴(ほのか)に燃(とも)したり。

盗人、「怪」と思て、連子より臨(のぞき)ければ、若き女の死て臥たる有り。其の枕上に火を燃して、年極く老たる嫗の白髪白きが、其の死人の枕上に居て、死人の髪をかなぐり抜き取る也けり。

盗人、此れを見るに、心も得ねば、「此れは若し、鬼にや有らむ」と思て、怖(おそろし)けれども、「若し、死人にてもぞ有る。恐して試む」と思て、和ら戸を開て、刀を抜て、「己は」と云て走寄ければ、嫗、手迷ひをして、手を摺て迷へば、盗人、「此は何ぞの嫗の、此はし居たるぞ」と問ければ、嫗、「己が主にて御ましつる人の失給へるを、繚(あつか)ふ人の無ければ、此て置奉たる也。其の御髪の長に余て長ければ、其れを抜取て鬘にせむとて抜く也。助け給へ」と云ければ、盗人、死人の着たる衣と、嫗の着たる衣と、抜取てある髪とを奪取て、下走て、逃て去にけり。

然て、其の上の層には、死人の骸(かばね)ぞ多かりける。死たる人の葬など否(え)為ぬをば、此の門の上にぞ置ける。

此の事は、其の盗人の人に語けるを聞継て、此く語り伝へたるとや。       

芳賀矢一校訂『攷証今昔物語集』冨山房・大正10年4月
特に明示されていない限り、内容は次のライセンスに従います: CC Attribution-Share Alike 4.0 International

今回は記事タイトルにもあるように、今昔物語集と芥川龍之介の羅生門の違いについて追いながら読解してみます。

タイトルの文学的役割

タイトルというものは、特に文学においては作品を象徴するものが選ばれるものです。例えば、『吾輩は猫である』『竹取物語』のように主人公を前面に押し出したものもあれば、『罪と罰』『狭き門』のような作品に貫かれるテーマを示すものもあります。この作品のタイトル『羅生門』というのは勿論この作品の舞台となる京都の門なのですが、実は明らかにこれは芥川龍之介の意図が隠されています。
実は、羅生門って実在しないんです。いや、あるにはあったんですよ。ただ、京都にあった朱雀大路の南端にある門の名前は“羅城門”なんです。羅城門。当時、公的には“らせいもん”あるいは“らじょうもん”と呼ばれ、俗名として“らしょうもん”があり、当て字として「羅生門」が生まれたのです。だから羅生門は一応、公的には実在しません。『今昔物語集』でも「羅城門」と表記されています。
それにもかかわらず、下人が悪を選ぶ舞台のその名前は「羅生門」です。度々『羅生門』では作者本人が「旧記」からの引用として当時の平安京についての説明をしますが、その旧記であろう『今昔物語集』とは表記を変えています。単に間違えただけかもしれませんが、今昔物語中でも何度も出てきて、何より作品のタイトルとして選んだ単語の表記を間違えるだなんて考えにくい。
誤りでないとなると、なぜ「羅生門」なのか?という問いへの答えとして私が思いついたのは芥川龍之介さんの改変ということです。改変は原理的に当然原作とは違いが生まれますし、文学的仕掛けとして芥川龍之介さんが表記を変える動機の説明ができます。
この脚色説以外にも、なぜ芥川さんが「羅生門」を選んだのかについての考察があります。無条件に正しいと結論付けるのは難しいですが、この脚色説を主軸にして考察していきます。

羅生門に込められた意味


さて、脚色説の補足ということでも読解の一要素としても、「羅生門」の文学的仕掛けについて述べたいと思います。
門という存在のは文学においてはメタファーとして扱われることが多いです。メタファーとは抽象的概念など普通はかなり文量を割いて説明しなければならないものを具体的イメージを喚起する言葉で置き換える修辞法の一つです。
例えば“子猫ちゃん”というのは、かつて男性が女性に向かって使うことで「哺乳綱食肉目ネコ科の動物の幼体」ではなく、「か弱い女の子」という意味を持ちました。ほかにも“人生は旅だ”や“カミソリ大臣”なども挙げられます。また、テキストを受け取る役割である読者の経験や環境によって意味合いが変わったり伝わらなかったりするのも特徴です。“子猫ちゃん”はこの時代に合わなくなりましたし、“カミソリ大臣”もカミソリが使われることの少ない現在では伝わりづらいメタファーの代表です。
そのようなメタファーとしての門が請け負う役割は何でしょう?門というのは外界と内界とを遮断する役割でもありますし、逆説的に両界を繋ぐ道のような存在でもあります。タイトルの時にちらっと出た『狭き門』は新約聖書の“狭き門より入れ”という警句が由来ですが、これは作中のヒロインにも関わることなので選ばれました。他には夏目漱石さんも『門』という小説を書いていますが、あれは漱石さんが弟子の森田に「(人気作家で師匠的存在の)漱石が書いた新作に内容を読まず名前をつける」という無茶振りした結果なのでメタファーでの門ではありません。しかし、由来はニーチェの『ツァラストラかく語りき』に頻繁にメタファーとして登場する門なので、メタファーと無関係かというとそうでもないという……。
閑話休題。話がずれました。“羅生門”という存在についてに戻します。作中の羅生門は、京都朱雀大路南端にある京都の洛中洛外の境界にあたる門です。都の不況を受けてひどく荒れ果てている他、死人が捨てられているので近隣住民も交通の要所でありながら、近寄らなくなってしまいました。一方、『今昔物語集』では、門は羅城門という名前で存在しています。平安京はいつも通りですし、出入りも盛んなようです。しかし、階下の活気に反して楼では弔われも引き取られもしなかった死体が捨てられています。意外にも羅生門で強烈な印象を残す“捨てられる死体”は原作通りなようです。相違点は平安京と羅生門が荒れている点ですね。また、沢山の人間が出入りするのではなく、下人が雨宿りをしている点も違いますね。
主人公の下人についての読解は第三回に譲りますが、羅生門と関係するところでわかるのは下人が雨宿りをしているのは門の内側、洛中側にいることです。根拠は二つあります。どちらも弱いですが。

1. 彼は洛中に暮らしてきた上、獣や野党がいかねない洛外側でわざわざ雨宿りをするのは不自然。

2.  梯や円柱の描写が数多くあるが、外敵から守る    役割である門の場合、敵が登って侵入するのを防ぐ点と味方が防衛時に移動しやすい二点から、柱や梯子は内側に設計される。

以上のことから下人は洛中側におり、かつ洛中を望める位置にいたと考えました。文章が長くなってきたのでこの事実がどのような文学的役割を持つかは次回に回します。
木霊トコでした。

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