『大日本帝国時代思想の大衆化に対して』

【哲学的思想問題思索20231023・01--愛と平和の位相をテーゼとして】

安倍政権以降急激に顕著になってきた反動的現象について、その本質を「大日本帝国」時代に遡って解析し、批判する営みが、一部の極めて優れた論者によって行われている。
それは、大切な営みだと確信するのだが、しかし、昨今の言論状況をみるとき、批判がそこまでにとどまるなら、その有効性に関しては残念ながらあまり楽観視できないと、私は今考えている。
それが有効的だったのは、私が、1987年の春に自主刊行した書籍の中で「日本が再び戦争出来る国・戦争する国に向けて、また戦時体制の確立に向けて国会社会を再構築し始めている・歩み始め出した」と指摘した当時ではないか。
が、まことに残念ながら、左翼・革新的な政治家や有識者やジャーナリストたちの殆どが杞憂だとして私の警鐘に耳を傾けてくれる人は皆無だったのだが、しかし、こんにちの状況をみれば、やっぱり「あの時」だったのではないかと、悔やまれるのである。
と言うのも、時代状況は、現在の思想状況を「大日本帝国」時代の思想潮流まで危険なレベルにまで至っていると喝破しても、既に、大衆層にまで、毒が回っていると思われるからだ。
本当に、バブル崩壊と同時に(実は、「バブル全盛」そのものの必然的結果だと私は考えているのだが)、日本は政治・経済・教育・法曹・マスメディアなどなど、ほぼ全てのジャンルで活力を失い、自己肯定感が著しく減衰し、逆に「劣等感」が急激に増大し、その反作用として、根拠もない「日本優位」のみならず「唯我独尊」が台頭してきているという時代状況が生まれていると、認識せざるを得ないのだ。
「大日本帝国」時代の日本を、その<罪過>を真摯に省みることなく、<容認>し、半ば<肯定>する風潮が、大衆層にまで広く浸透しつつあるというのが現状である。
つまり、「大日本帝国」時代を批判する「識者」の認識や思考は既に「周回遅れ」になってきているというわけだ。
もちろん、現在でも、不条理で危険な意識・感情・思考に対して、それが一過性の現象ではなく、大日本帝国時代にまで遡るべき深刻なものであると批判することは必須ではある。
そこは、些かも揺るがすべきではない。
が、状況は、そこにとどまることなく、なぜ「大日本帝国」時代は批判されるべきなのか、なにゆえ<罪過>であるのかーーという「識者」には自明の理である事を、広く大衆に向かって、懇切丁寧に、分かりやすく話さなければならない(例えば、なぜ植民地を有してはいけないのか、植民地で何が行われたのかなど)時に来ていると、私は考えているのである。



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