【創作長編小説】青の怪物、契約の輪 第四話
第四話 私は生涯忘れない
まだ、夜が明けていなかった。
疲れているのにもかかわらず、フィンは眠りから覚め、飛び起きた。
「貴様、早起きだな」
マーレも起き上がる。怪物の日常はわからないが、マーレからしても早いらしい。
「だんなさんと息子さん、漁に出ちゃう! そうしたら、お世話になったのに挨拶しそびれちゃうよ!」
フィンは、この日の朝出発するつもりだった。漁師のだんなさんと息子さんに挨拶もせずに発つのは、申し訳ないし嫌だと思った。
「おや。早いね。俺たちのために、起きてくれたのかい?」
だんなさんとその息子は口々にそう述べ、笑顔でフィンの頭を撫でた。案の定、漁に出るところだった。
「本当に、色々お世話になりました」
マーレと揃って、深く頭を下げた。お別れの挨拶はどうしてもしておきたかったが、フィンにはもうひとつ、聞きたいことがあった。
「ところで――。『鏡の森』って、ご存じですか?」
漁師のご夫婦、そしてその息子は互いに顔を見合わせた。
「鏡の森……? はて。聞いたことないねえ」
三人とも知らなかった。
「そこに行くつもりなのかい?」
おかみさんが、逆に尋ねる。
「はい。俺の旅の、目的地です」
フィンは、力強く言い切った。燃える瞳、固く結んだ唇。はっきりと、自分には深い事情があるのだと、表情が物語る。
なにかおかみさんがフィンに言葉をかけようとしたが、遮るようにだんなさんが口を開いた。
「すまんな。役に立たなくて」
だんなさんもその息子も、おかみさんに向かって静かに首を振る。
『旅の人たちを、詮索してはいけない。自分たちのほうから、打ち明けるまでは』
そう語りかけていたようだった。
だんなさんたちが漁に出かけたあと、食べきれないほどのご馳走を朝食としておかみさんは二人に振る舞った。デザートまで作ってくれた。フルーツと、ふわふわのパンケーキ。
「ニンゲンとは、実にすごい生物だ。昨日から、密かに驚いていた。シーフード以外が、こんなにうまいとは。そしてニンゲンは、魔法のように様々な調理法を編み出す」
フィンにだけわかるように、しみじみと感想を述べるマーレ。フィンは微笑み、ちょっとおどけてみる。
「すごいでしょ。人間そのものの俺より、人間の料理のほうが絶対うまいよね」
「嚙んでないからわからない」
「絶対かじるなよ、俺のことっ」
マーレとフィンが、こそこそと冗談を言い合うほど――もっとも、マーレのほうはストレートな感想なのだろうが――、スペシャルな朝食だった。
出発の際、二人分の弁当とお茶、さらには着替えや日用品、そしてさらに餞別と称して金銭まで、おかみさんは渡してくれた。
「そんな……、いただけないです」
フィンは断ろうとした。マーレもフィンの態度にならい、ニンゲンの基礎知識をフル稼働し、失礼のないよう丁重に断り遠慮した。
「本当にお小遣い程度のお金で、逆に申し訳ないくらいだけど、持っておきな。邪魔にはならないんだから」
笑うおかみさん。ほんとは、もっとあなたたちにいてもらいたいんだけど、とまで付け足す。
「本当に――、ありがとうございます」
いただいたものやお金以上に、気持ちが嬉しかった。
ああ、そうそう、とおかみさんはなにかを思い出し、家の奥へいったん戻る。
「これも、持っていきな」
地図だった。
「地図、持ってるだろうけど。海に落ちて、ぐしゃぐしゃになってると思って」
「ありがとうございます……!」
確かに、フィンのカバンの中の地図は、使い物にならなくなっていた。どこかで入手せねば、と考えていた。
それから、とおかみさんは一呼吸置く。真剣な表情になっていた。
「まあ……、通らないだろうけど。あの山に行ってはだめだよ」
おかみさんは、向こうの小さな山を指さす。
「この辺の者は、絶対行かない。今は街道からずれてるから、旅人も通らないんだけど」
「どうして、通らないほうがいいんですか?」
なぜわざわざ、道から外れていて旅人も通りそうもない山について教えてくれたのか、疑問だった。
おかみさんは、声をひそめる。
「怪物が、出るからさ」
「怪物――」
「でも、その昔はそっちの山道もよく使われてたらしくて、怪物が出る前は旅人を狙う山賊がいたらしいけどね」
「山賊……?」
「どっちにしろ、通らないほうがいい山なんだよ」
奇妙な話だった。昔は怪物がいて、今山賊がいる、それならわかる。しかし、その逆とは――。
「まあ、余計な話だったね。でも、ほんと、あっちだけは昼間だろうが通っちゃだめだよ」
おかみさんは、二人の顔を交互に見つめ、忠告した。
「フィンさん。マーレさん。どうか、気を付けてね。よい旅を。帰りはぜひ、家に寄ってね」
いつまでも、いつまでも、おかみさんは手を振ってくれた。
遠ざかる小さな家。青空。手を振るおかみさん。フィンは瞳を潤ませた。
この景色を、俺は忘れない。
柔らかな潮風を感じながら、漁師一家のぬくもりを心に深く刻んでいた。
「あの味。忘れないだろう。私のこの先の長い『怪物生』においても」
怪物生――。人でいうところの人生。マーレは、味を心に深く刻んでいた。
「鏡の森とは、なんだ?」
涼しい風の通る木の根元に並んで腰かけ、おかみさんの弁当を広げたとき、マーレが尋ねた。
「俺の村の、水晶玉のおばあさんの言葉なんだ。そこにアレッシアをさらった半人半妖の氷の魔女の住処があるらしい。ただ、おばあさんの感じたイメージで、森の正式な名前はわからない」
「そうか。だから余計、リョウシ一家はわからなかったのか」
もしかしたら、なにか噂や伝説、小さくても手掛かりがあるのではないか――、一縷の望みにかけ、尋ねてみた。でもやはり、空振りに終わった。
「だから――、地図があっても、本当のところはわからない。大体の方角を、水晶玉のおばあさんは教えてくれた。俺は指し示された方角のほうへと旅を始めた。今俺がどのくらい鏡の森に近付いているのかわからない。今の方角であってるのか、それすら正直わからない」
マーレはフィンの言葉を黙って聞き、チーズと野菜を挟んだパンを頬張った。さすがおかみさん、あふれる愛情を具に示すといった感じで、チーズの量も野菜の量も半端なかった。
「うまい」
「……うん。うまい」
フィンも自分の分を一口食べる。食べるのに、口を大きく開けねばならなかったが、それ以上の価値あるパン。
マーレは空を見上げ、空に向かってパンを持ってないほうの手を伸ばす。
「雲をつかむような話だ」
反対に、フィンは地面を見つめる。
アレッシア――。お前は、今どこに――。
マーレの口から放たれた言葉に、より一層自分の厳しい現実を知らされる。
「よし。それでは、山に行くか」
マーレの意外な言葉に、フィンは顔を上げた。
「半人半妖の氷の魔女も怪物も、ニンゲンにとっては似たようなものだろう。餅は餅屋、という言葉が私の基礎知識にある。まあちょっと違うかもしれんが、怪物がらみは、怪物屋だ」
えええ、おおざっぱ……!
「かくいう私も怪物。私はなにも知らん。だから無意味かもしれん。でも関係ないとしてもせっかく得た情報、あたってみるのも悪くなかろう」
マーレは、ニッと笑った。
日が傾きかけていたが、山に着いた。
「フィン」
マーレは貴様、ではなく名を呼んだ。
木々の葉が、揺れる。
「契約の輪は、何回でも有効。ただし一回につき、従えるのは一体限りだ」
そのときマーレが、なにを言おうとしているのか、まだフィンにはわからなかった。
「もしもだ」
獣道しかなかった。草や木の根などに足を取られそうになりながら、フィンは前を歩くマーレについていく。マーレは、前を見ながら言葉を続ける。
「もしも、私よりこの山の怪物のほうが見込みがありそうだったら、私との契約を解除しろ」
え。
マーレは振り返ろうともしない。
「そして、なんとしてでも輪に触れさせ、その怪物を『しもべ』とせよ」
マーレ……!
「ここは海から遠いが、私ならおそらくなんとかなる」
愕然とした。
マーレは、やっぱり……、自由になりたいんだ。
当たり前だと思った。元のあるべき姿、自分が歩むはずの生きかた、そのほうがいいに決まっていた。ましてや、誰かの、ニンゲンのしもべなど――。
「ニンゲンの姿になるとはいえ、元の特性がそのまま反映される。そしてニンゲンよりすべてにおいて肉体的な力は圧倒的に優れているが、私は海の怪物。陸では、陸の怪物のほうが有利と思われる」
マーレは振り返り、フィンの瞳をまっすぐ見た。
「お前の旅の助っ人は、陸の怪物のほうが向いているだろう。欲を言えば、空を飛べるやつ。そんなやつのほうが、妹の救出には有利のはず。私とこの山の怪物、戦いぶりを天秤にかけ、合理的に判断していい」
マーレ……!
フィンは、自分が考え違いをしていたことを知る。
マーレは、フィンにとってより有益な「しもべ」について考えていたのだ。
マーレ、俺は……!
マーレは、笑った。
「会話が通じるのは、今のうちだけかもしれない。だから、言っておく。うまいものをたくさん喰った。そしておそらく、私の一生では出会えない感情に出会えた。貴様は苦しかっただろうが――、貴様の心に触れられたこと、私は生涯忘れない」
「マーレ!」
フィンは、思わず叫んでいた。
「フィン。必ず、妹を助け出せ。そして、二人で生きて帰れ」
「マーレ、俺は――」
陽がかげる。そのとき、森の空気が一変した。
ザザザッ!
木々の枝を振り払い、「怪物」の巨体が現れた。
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