【創作長編小説】青の怪物、契約の輪 第五話
第五話 契約の輪の範疇
フィンとマーレが探すまでもなく、この山に棲むという怪物が現れた。
「怪物だ……!」
フィンは思わず叫ぶ。
大きな体の怪物の顔は、見上げるほどの高さにあった。異様に長い首、爬虫類のような顔、全身固い鱗に覆われ、太い足が四本で、大きな体から続く長い尾がある。
「ふん……? 怪物、か?」
なぜかマーレは、少し首をかしげている。
怪物が吠えた。高くよく響く、人のような鳥のような声だった。
マーレが、フィンを守るように前へ出る。
そしてマーレは、怪物に向かって叫んだ。
「貴様が、この山の怪物か」
怪物は、マーレとフィンに鋭い牙をむく。
「私の目には、そうは見えんけどな」
「マーレ!」
フィンは、剣を構えた。マーレは、なぜか動かない。
びゅうっ。
怪物は、木の高さほどありそうな長い首を降下させ、風を切るような素早さで、今にもマーレに喰らいつこうと――。
マーレは声を張り上げた。
「貴様。知っているか? 半人半妖の氷の魔女というやつを」
う、う、う。
怪物が、唸り声を上げた。
その瞬間、マーレのすぐ鼻先で、怪物は口を開けながら、動きを止めた。
「え……? と、止まった……?」
フィンは、不思議に思う。怪物は襲い掛かるのを、止めたようだった。
怪物の顔が、震えているようだった。怪物の両目から、液体が滴り落ちる。
「泣いているのか」
マーレが問う。怪物はどう見ても――、泣いているように見えた。
血のような、赤い涙だった。
「フィン。私の契約を、解除しろ」
怪物を睨みつけたまま、振り返らずにマーレは言った。
「えっ、えっ? どうして? なにが、なんで、どうなってるの?」
フィンは混乱していた。襲ってきたと思った恐ろしい怪物が、あろうことか泣いている。
そのうえ、マーレは契約を解除せよと言う。なにが起こったのか、どういうことか、わからなかった。
「こいつは、怪物じゃない。怪物としての私の感覚として、自分と同じ類のものとは思えなかった」
「えっ、どういう――」
「おそらく、こいつ――、いや彼女は、人間だ」
「えっ……!」
絶句した。まさか、そんなことが、と思った。
「フィン。私が話していることは、確かな感覚。どうやら、私に入ったお前のじいさまの記憶のかけら、それが私にも影響しているようだ」
フィンは驚き息をのむ。
「じいちゃんの、不思議な力――」
マーレはうなずく。そして、話を続けた。
「彼女は、人間ではない。時が経ち過ぎたこと、おそらく人間を食していたこと。あまりに染まりすぎている。もう、彼女にかけられた術は戻せない。もはや『人間以外のもの』、だ。つまり、契約の輪の範疇にある」
「契約の輪の範疇……!? 人だったのに、そんな――」
「フィン。このままでは、話ができない。彼女と契約し、話を聞け。彼女は、半人半妖の氷の魔女という言葉を聞き、反応した。きっと、彼女はその魔女に魔法をかけられこの姿になった、そんなところなんじゃないか」
そんな……! 半人半妖の氷の魔女の、犠牲者だったなんて……!
血の涙を流し続ける頬に、マーレは手を伸ばし、そっと触れた。
「元、人の娘よ。私たちに、話をしてくれるか?」
こくん、長い首でうなずいた。
フィンは、マーレに促されるまま、ペンダントの先の、リング――契約の輪――を掲げた。
「海の怪物マーレとの契約を、俺は今ここで解除する……!」
雷のような、眩しい光が走る。フィンは思わず目をつむってしまった。
次の瞬間。なにか、とてつもなく大きな音が耳に届く。周りの木々がなぎ倒されるような――。
驚き大急ぎでフィンが目を開けると――、
「マーレ!?」
本や伝説などで見聞きする、まるで海竜のような姿の怪物が、フィンの目の前にいた。長く突き出た大きな口に、全身を覆う輝く青の鱗、長い尾、四本の足の先には鋭いカギ爪、立派な背びれのようなもの――、暗い海の中では見えなかった、マーレの全体像がそこにあった。
フィンは、ペンダント先のリングを持ち、血の涙を流した娘の頬に、そっとリングをつけた。
また、光があふれる。今度は、放射状に輝く光だった。
光の先に――、美しい娘がいた。
「お話……、できますか?」
フィンは、おそるおそる尋ねる。
娘は、微笑んでうなずいた。
「ありがとう……。これで、私もようやく消えることができる……」
娘の唇から、そんな言葉がこぼれ出た。
「えっ? なんですか、どういうこと――」
フィンが驚き、尋ねる。
娘の体が、光り輝いていた。それは契約の指輪の力とは異なるようで、娘の体の内部から出ている光のようだった。
「私はもう、人の寿命を超える時間を生きてきた……。ここにはもう、いてはいけない存在。魔法の力とはいえ、人の姿になった今、ようやく天に帰ることができる――。いえ……。おそらく、長い歳月の間たくさんの命を奪った私、行き先は天ではないのかもしれません――」
娘は、姿を留めていられるうちに、すべてをお話しますね、と語り出した。
昔のことだった。
娘は、ある国の領主の娘だった。幼いころから国中で一番の美しい娘とたたえられ、娘盛りに成長した現在、その美貌の噂は遠く近隣諸国にまで及んでいる、などと言われるほどだった。
しかし娘自身は、そんなことはどうでもよかった。いつかはどこかに嫁ぐのかもしれないが、それまでは家族や従者たちと平穏に暮らせればそれでいいと思っていた。
ある日――、魔女が現れた。
魔女は、半人半妖の氷の魔女、自らをそう名乗った。
『美しい娘……! いつかは美しさも衰える。どんなに今、美しくても、だ』
魔女は、不気味な笑い声を立てた。
『しかし、気に入らぬな。今を謳歌するのも、気に入らない。美しいと評判のお前に、呪いをかけてやろう』
全身を打つような衝撃に、倒れる。異変が起き始めたのは、翌日からだった。
体に、鱗が出た。最初は一つだったが、次第に増え始める。
『隣国に、人の暮らしに寄り添う、よき心の魔女がいるらしい。その者なら、氷の魔女の呪いも解くことができるはずだ』
使いを走らせ各地を奔走し、あらゆる手を尽くした両親がその情報を得たとき、すでに尾が生え始めていた。
『その魔女は、どうやら――』
娘は、隣国の魔女に呪いを解いてもらうため、従者たち数名と旅に出た。娘は、従者である彼らを深く信頼し、彼らも娘に厚い忠義の心を持っていた。
娘たち一行は、この山を超えることにした。しかしこの山には、山賊がいた――。
『姫様を、お守りせよ!』
従者たちの中には剣の使い手たちが何名かいたが、多勢に無勢、また、初めて通る場所、しかも山という地形への理解の差もあり、従者たちは一人、また一人と山賊の襲撃に倒れていった。
『和馬……! 健介……!』
娘が一番頼りにしていた、二人の従者。その名を叫ぶ。
立場は違うが、彼らはとくにきょうだいのような友のような、大切な存在だった。和馬のほうには、淡い恋心さえ抱いていた。
倒れた彼らの体には、山賊の刀が深く刺さっていた――。娘は、怒りに我を忘れた。
どのくらい時が経ったのかわからない。
気が付けば――、山賊の姿はなかった。
従者たちの遺体以外、人の形をしたものは、なかった。あるのは、かろうじて山賊のものだろうとわかる服と肉片――。
娘は自分の体を見た。ずいぶん、地面が下にある。自分の体を見ると、目に入るのは、一面の鱗、赤い血に染まった鱗――。
泣き叫ぶ。自分の声が、もはや自分の声ではなくなっていた。
黒い木々から、たくさんの鳥が飛び立つ。月が――、赤い。
赤い、お月さま――。
意識があるのは、そこまでだった。
「私が頼ろうとした隣国の魔法を使える者。それは、半人半妖の炎の魔女と聞きます」
そこまで話してくれた娘の体の輪郭は、うっすらと消えかけていた。
「半人半妖の、炎の魔女……?」
「はい。氷の魔女の、双子の妹だそうです」
なんだって――!
フィンは驚く。魔女の姉が恐ろしい呪いをかけ、そしてその呪いを解くため頼ろうとしたのが、その妹――。
「炎の魔女は、氷の魔女と長年の間敵対しているとのことでした。そして、炎の魔女のほうは、人に近く、人をよき魔法で助ける者であるという話でした。きっと、強力な氷の魔女の恐ろしい呪いを解けるのは、その妹しかいない、国中の魔法を使う者たちが、口を揃えて申しておりました」
娘は、立ち上がる。もはや人の姿から解放され、ゆらめく陽炎のようだった。
「これを――」
娘は、二本の刀をフィンに渡す。
「これは……?」
「私の従者たちのうちの二人、和馬と健介の刀です。人の心を失っても、これだけは失くしたくない、常に頭の片隅にありました」
ずっしりとした重さ。名のある名工の作なのだという。
「どうか、これで、氷の魔女を討ってください。あなたがたは、氷の魔女を探しているのでしょう?」
風が吹き抜ける。木々が揺れた。娘の姿は、もう見えなくなっていた。
『これで、必ず……! それから、炎の魔女は、『瑠璃の谷』というところにいらっしゃるとのこと。半人半妖の魔女です、きっと今も生きていると思います。彼女のもとを訪ねれば、きっとなにか――』
風と共に、娘の声は森の奥へと吸い込まれていく。
緑の中、深い静寂が訪れていた。
マーレは、草の上に長い体を横たえ、目を閉じていた。
フィンは、リングでマーレの鱗に触れる。
あふれる、光。
「ああ。ただいま。フィン」
マーレが人の姿に戻る。
「ずっと陸上で、苦しくなかった?」
フィンは、マーレの体を案じた。
「ああ。あの姿の陸上体験。自分の強さを知るようで、興味深い時間だった」
マーレのいたずらっぽい笑顔に、ほっと胸をなでおろす。一応大丈夫だったようだ。
それから、フィンはおかみさんに、着替えをもらっておいてよかったと思った。海竜のような巨体に戻ったとき、マーレの服ははじけ飛んでしまっていたのだ。
二本の刀。そのうち、一本をマーレは手に取った。残りのもう一本は、フィンが自分の背に背負うことにした。
「きっと、天に帰れたと思うぞ」
フィンから詳しい話を聞いたマーレ。マーレはぽつりと、そう述べた。
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