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『千と千尋の神隠し』考察/「私」はどこにいるのか


あらためて観るとやっぱり良い

先日、金曜ロードショーで『千と千尋の神隠し』(以下『千と千尋』と略記)が放送された。金曜ロードショーは数年前までほぼ毎回観ていたのだが、最近はめっきりだった。だから今回、流しではあれ『千と千尋』を面白く観れたことにびっくりしたし、ツイッターで(私はこの呼称が好きだが)様々な反応を読んで、この記事を書くインスピレーションを受けられたこともとてもよかった。それでは、久しぶりになるが本編考察を始めたい。

生きて帰りし物語。ビルディングスロマンの否定。

『千と千尋』はしばしば「生きて帰りし物語」だと言及される。主人公が「こちら」(=日常、現実)から「あちら」へ(=非日常、異世界)、境界線を越えて訪れ、再び戻ってくることで成長する物語構造を指す言葉で、『千と千尋』はまさにその典型だと言える。「トンネル」や「駅」、「階段」など、「現実」と「神々の世界」を隔てるモチーフが多数示されていた通りである。その一方で、主人公「千尋」の「成長」の仕方は、一般の成長物語とは異なる様子を見せているのだ。さらに言えば、「成長」という表現すら的確ではないと、監督宮崎駿のコメントからはうかがえる。

宮崎駿による企画書

この作品には、宮崎駿による企画意図のコメントが存在した。以下に添付したものがそれである。


少し抜粋する。

「彼女は切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰って来るのだが、世の中が消滅しないと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。」

「今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、侵食し喰らい尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。」

「けれども、現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が沸き出し、果断な判断力や行動を発揮する生命力を、自分がかかえていることに気づくはずだ。もっとも、ただパニクって、「ウソ―ッ」としゃがみこむ人間がほとんどかもしれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐ消されるか食べられるかしてしまうだろう。千尋が主人公である資格は、実は食い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない。」

「名前を奪うという行為は、呼び名を代えるということではなく、相手を完全に支配しようとする方法である。千は、千尋の名を自身が忘れていく事に気がつきゾッとする。(…)湯バーバの世間では、常に喰らい尽くされる危機の中に生きなければならない。」

「ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う。」

以上から分かる通り、千尋は単純に「成長した」というよりも、元来備わっていた「食い尽くされない力」が沸き出したことで、油屋という過酷な環境を戦っていくのだ。
あいまいな世間というものの「侵食」に抗えることが、千尋が「主人公」である所以であり、その抵抗を通して「名」というモチーフにおいて自身の「過去」や「歴史」を取り戻すことが物語の根幹であった。そのように宮崎駿の言葉から総括できるのではないだろうか。

三すくみ。千尋vs現実vs油屋

とりあえず物語内の勢力を分けるとするならば、「千尋」「現実」「油屋」の三つになるだろう。「現実」については、千尋の両親(とその言動)や、転校してきた千尋が歩むべき「これからの未来」のことだと言って良い。「千尋」が他二つの勢力と緊張状態にあることは自然に理解できる。

ここでややこしいのは、「現実」と「油屋」という対立関係である。ファンタジー作品なので、「現実」と「油屋」(=非現実、虚構)が対立するのは当然とも思えるが、両親がブタになることと、千尋が最後に「現実」にもどることを考えると、かなり特徴的な構造が見えてくる。

物語冒頭では、千尋と両親の関係があまり円滑ではない様子が示される(両親は二人で行動しがちで、千尋にあまり関心を寄せていない)。その両親が、「暴食」への罰としてブタにされる形で、「現実」は攻撃を受ける。それと呼応して「油屋」での生活は「現実」を取り戻すためのものとなっていくのだが、物語冒頭で十分すぎるほど「現実」と「千尋」の緊張関係が暗示されていた。つまり、「油屋」を乗り越えて「現実」に戻った先でも、千尋は困難に直面するということだ。まさしく、「現実」でこそ、「油屋」で身に着けた「生きる力」が活用されるべき、というメタ構造を取っていると整理できる。

ゆらぎの中にある「存在」として。差延化する「私」

三勢力の対立とは別にして『千と千尋』を語る上で外せないのが、登場人物たちの「二重性」、もしくは「ゆらぎ」である。

変身する者たち

作品内ではやたらと変身する者が多い。龍に変身する(むしろ龍が本体?)「ハク」がそうだが、ほかにもたくさんいる。三つの緑の頭たちである「カシラ」は、銭婆婆の手で「坊」の姿に変えられてしまうし、ペットである「湯バード」は蚊の姿に、「坊」はネズミの姿に同じく変えられてしまう。変身後の「湯バード」や「坊」たちと千尋は、共にハクを助けるため銭婆婆のもとを訪れる中で絆を深めていく。

湯婆婆と銭婆婆/「差延化」とアイデンティティ

変身とは違う形だが、存在の「二重性」という点で特別な意味を持っていた存在を挙げたい。「湯婆婆」と「銭婆婆」である。二人は双子の姉妹であり(銭婆婆が姉らしい)見た目はそっくり。油屋を取り仕切っている湯婆婆がずっと出ずっぱりだったのに対して、銭婆婆は、ハクが彼女の「ハンコ」を盗み出したところでようやく登場してくる。そして物語最終盤、千尋は湯バードや坊たち(変身済)と共に、銭婆婆の元を訪れるのだ。

ここで指摘したいのが、湯婆婆と銭婆婆は決して同じ場所に二人同時にいることは無い、ということだ。つまり二人が同一人物である可能性(別人格など?)も否定できないのだ。このことに、私はネットの書き込みか何かで気づかされたが、この「湯婆婆か銭婆婆か分からない」という、「存在の揺らぎ」は実はとても大切なテーマだったと思える。

ここで導入したいのが、ジャック=デリダの「差延化」という概念である。
例えば「AはAである」というAの自己同一性について考える時、「Aである」ことが主語の「A」と一致している、というのは、「Bでもなく」「Cでもない」という他の可能性があってはじめて言えることだ。このような、A、B、C、の「差異」の振れ幅こそが「AはAである」という同一性を担保していると考える時、「差延化」という語を用いる。

話を戻すと、「湯婆婆」と「銭婆婆」の「区別のつかなさ」は、あえてこの「差延化」をアンビバレントな形で暗示している(逆照射)、と解釈できる。それに反して、「湯バード」や「坊」、「ハク」は、「変身」(=「差延化」)を通して再び元の自分に戻ることで、物語終盤に「自己」を確立させていく。さらに言えば、千尋が物語ラストで唯一「現実」に持ち帰る「髪留め」は、変身した状態の「湯バード」や「坊」たちと一緒に編んだものだ。この髪留めが、「油屋」の従業員とではなく、上記のメンバーたちの手で、「銭婆婆」の家で作られたものだ、ということには何らかの示唆があると思えて仕方がない。

湯婆婆と銭婆婆の話に立ち返ると、二人の存在の背中合わせの状態は、「油屋」と「現実」という、一歩間違えば互いに干渉してしまう表裏一体の世界のアナロジーとも読めるし(日中はまさしく簡単に行き来できる)、その二つの間で「揺れ動くこと」(=「差延化」)で、千尋が「力」を手に入れ、「アイデンティティ」を確立した、と言い表すことも出来るだろう。千尋が油屋に彷徨いこんだ当初、体が透明になって消えかかっていたことは、この「揺れ動き」や「自己という存在」が焦点になっていることを示すものではなかったか。

「自己」を持たない者としてのカオナシ

ここでテーマとしてきた「アイデンティティ」にまつわる中心人物として、「カオナシ」について考えたい。「差延化」の観点で言うならば、「カオナシ」はまさしく、「他の誰でもない自分」という概念を持ちえない、何者でもない(他人や自分それぞれの表象たるべき「顔」がない)ということになる。

宮崎駿がカオナシを「現代の若者」のアレゴリーであると考えていたらしいが、そう考えるとカオナシの起こした事件はとても興味深い。千尋に導かれて油屋に入ったものの、「偽物」の砂金で千尋を誘うことに失敗し、従業員たちにおだてられた挙句、彼らを飲み込んでしまう。アイデンティティや自己の目的を持たないゆえの悲劇だったのだろうか。

もしカオナシに「顔」があれば、その手からは本物の砂金か、少なくとも千尋の気を引ける何かを出すことが出来たかもしれないと感じつつ次に移りたい。

銀河鉄道と電車

物語終盤、千尋はハクのためにカオナシらと一緒に銭婆婆を訪ねるのだが、そこで乗り込むのが、「海原電鉄」という電車である。この電車は、もうしばらく一方通行で帰ってきたためしがなく(釜爺談)、文字通りの片道切符を覚悟で千尋たちは乗り込んだ。乗客たちはみな体が半透明の幽霊たちであり、生身の乗客は千尋だけだった。

この電車の「車窓」のシーン、アニメーション映画『銀河鉄道の夜』のオマージュということらしいのだが、なるほど、死者と乗る列車、片道の切符など、モチーフとしても共通するものは多い(私は原作本しか読んだことは無いが)。ここであえて『銀河鉄道の夜』を交えて考えるなら、ジョバンニと千尋が生還した理由に注目したい。

ジョバンニはなぜか、ほかの乗客たちは持っていない「天上へさえ行ける切符」をポケットに所持していたので、列車の下車が可能だったようなのである。

では千尋はなぜ戻ってこれたのか。龍になったハクが銭婆婆の家まで迎えに来てくれたから、というのはその通りだが、ここでは作劇上の意図も考えて、千尋自身の「生きる力」と言ってしまうのはどうだろうか。例えば、実は千尋も死の一歩手前まで来ていて、ハクが迎えに来なかったら死んでいた、というのではあまりにも脚本としておかしいとわたしは思う。

千尋は生きて戻るべくして戻ったのであり、その原因は、乗客唯一の「生者」としての力、生きるための源であり、生きていることで発せられる「力」、そのようなものだったと私は考える(この「生きている」というのも寓意的で、労働と抵抗の末に勝ち取った千尋だけの「生」と言えるだろう。思えば、「食べ物」の扱いに現れていた通り、油屋の世界では、実存的な「生」が、存在としての「生」に直結していた)。

実存主義のようになってしまったが、油屋での試練を経ていた千尋はこの時、もうほとんど自己を確立していたと言えるのかもしれない。銭婆婆の元での会話や編み物は、まさしく最後の「仕上げ」だったのだ。

海の彼方にはもう探さない。輝くものはいつもここに

「海の彼方にはもう探さない 
 輝くものはいつもここに 
 私の中に見つけらたから」

『いつも何度でも』

「喰らい尽くしてくる」と宮崎駿が表現したものは、一体何なのか。蛙や湯婆婆のような意地悪な上司か、油屋のように搾取してくる社会構造の事か、はたまた千尋に無関心だった両親のような、冷淡な他人か。「力」「言葉」「伝統」と宮崎駿は言葉を並べるが、何を言っているのか掴み辛い。

ただやはり、そのような圧力に「食い尽くされない」よう働きながらも、蛙たちのように従属はせず、更にハクのために体を張って危険を冒す千尋の姿。居並ぶブタの本性を見極め、湯婆婆の「言葉」に騙されなかった千尋の決断を見て学ぶべきことは、とても多いなと感じ入るばかりのところで、今回は記事を終えたい。


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