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小説|福岡天神 流しのバーテンダー 3

過去を背負う男

 黙阿弥堂へ本を買いに行った。
 カランコロンとカウベルを鳴らして中に入ると、カウンター前の椅子に長谷川が座っていた。
 その椅子はもちろん、自分で持ち歩いているパイプスツールだ。
「あ、こんばんは、涼子さん」
「なんしようと?」
 私は驚いた。
 もう長谷川を毛嫌いすることはやめた私だったけど、この店で呑気にくつろいでる姿などは予想外だった。
「一流しする前に寄ってみたんです。涼子さんに会えるかなと思って」
「張り込んどったと?」
「へへへ」
 長谷川はごまかし笑いをしながら立ち上がり、私に座るように勧める。
 いつも背負っている大荷物は床に降ろしてある。
 始めて私は長谷川の普通の姿を目にしていた。
 腰掛けながら、おじさんに挨拶をする。
「こんばんは。ごめんね、おじさん。変な男を呼び寄せて」
「いやいや、なかなか面白い青年だよ。それにね、今日が初めてじゃないんだ」
「え?」
「最近ちょくちょく寄ってくれてるんだよ」
「ウソ、邪魔じゃないですか?」
 私は長谷川を見た。
 まだごまかし笑いを顔に浮かべている。
「だって、涼子さんがいつ来るか判らないから」
「別にもういいんやないの?だって、お客さん見つけるの、今じゃ難しくないんでしょ?」 
 公園での盛況から何週間かたっていたが、その間に私は会社の同僚から数回、流しのバーテンダーの噂を聞いていた。
 西通り渋滞騒動時に一緒にいた友人の一人、多香子からは特にしつこく話を聞かされた。
「タウン情報誌に載ったそうじゃない。『謎のバーテンダー出現!』って記事があったって聞いたもん。あんたでしょ?」
「あー、知られちゃいました?実はそうなんです。写真撮られそうになって逃げたんですよ。でも記事だけは載っちゃって、参りました。完璧に違法営業なんで、本当は目立ちたくなかったんですけど」
 その形(なり)で、目立ちたくないって言うのもね……。
「気を付けんと、あの警察官にまた狙われるよ」
「そうなんですよ。当面の不安はそれなんですけどね」
「しかし涼子ちゃんも、面白い彼氏を見つけたもんだね」
 私は河竹のおじさんに向き直り、ぶんぶんと首を振った。
 振り回した。
「そんなんじゃないですよ。やめてください。おじさん今、話聞いてました?」
「ははは。でも私は好青年と見たよ。話し方も丁寧だしね。違法な流し商売をやってるやくざな男には見えないよ」
「見えないだけで本当はやくざな奴なんですよ。それって余計悪くないですか?」
「人間が悪くないならいいよ。しかしあれだね、君はこの街に住んではいるんだろうが、福岡の出身じゃないだろう?一個も博多弁が出てこないものね。実は私もそうなんだが」
 一瞬、長谷川はその表情に緊張を走らせたように見えた。
「そう言えば、長谷川って名字はこの辺じゃあんまり聞かないね」
「はあ、そうなんですか」
 長谷川は歯切れの悪い返事をした。
 何か事情があるのかもしれない。
 私はおじさんに目を向ける。
 おじさんは、深くは聞かないでおこうという風に、私にうなずいてみせた。
 私はそっとしておくことにした。

「そうだ、今日は何の本を探しに来たんだい?」
「あ、そうそう。ごめん、雑談ばっかり」
 私は立って本棚の前に行く。
 数分物色して、本を一つ選んだ。
 カウンターにそれを置く。
 長谷川は不思議そうにその表紙を見つめて呟いた。
「ロープと紐の結び方・その基本と応用」
 その本のタイトルだ。
「なに?」
「いや、その、そんな本、どうするのかなと思って……」
「どうって、読むんだけど。面白そうじゃない?」
「そうですか?いや、なんと言うか……」
「何よ」
「いや、別になんでもないです」
「ははは。涼子ちゃんは面白そうだと思った本はすぐに買っちゃうからね。私は助かってるけど、お陰で涼子ちゃんの財布にはいつも隙間風が、」
「おじさん、余計なことは言わなくていいから」
「あっはっはっは」
 おじさんは肩を揺らして笑いながら精算する。
 私は受け取ったおつりを財布に入れて、本と一緒にバックにしまった。
「じゃ、おじさん」
「あいよ」
「もう行っちゃうんですか?」
 長谷川は慌てて椅子を片付ける。
「あんたはいいわよ。おじさんに追い出されるまでいれば?」
「いや、僕もそろそろ仕事にいかないと。河竹さん、お邪魔しました」

 結局二人で店を出た。
 店のドアは荷物を背負ったままじゃ出入りできないようで、長谷川は道に出てきてからそれを背負った。
 アイスペールやらトングやらがガラガラ、カシャンカシャン音をたてる。
 歩き始めてもそれは同じだ。
 体が揺れるたびにカラカラいってる。
 私は新天町を通って電車の駅に行くつもりだ。
 長谷川も私についてくる。
「あんたもこっちなの?」
「って言うか、涼子さん今日、何かご用がおありですか?」
「ないけど」
「じゃあ、少し僕に付き合ってくれません?散歩しましょうよ」
「いいわよ。駅までなら」
「……それ、単なる帰り道じゃないですか」
「だって、あんたといると恥ずかしいもん。確かに新天町は人通り多いけど、ここに紛れたら目立たないってのは嘘よ。遠くからは荷物しか見えなくて気付かないかもしれないけど、近付いてきたらやっぱり目立つよ。今だって本当は一緒に歩きたくないんだけど」
 当然、私たちの傍を通る通行人は、好奇の眼で私たちを見て過ぎて行く。
 私たち、だ。
 長谷川だけ見ればいいのに。
「まあまあ、そうおっしゃらずに」
「仕事するんやなかったと?」
「8時くらいになったら明治通りを流そうと思ってるんですけど、それまでは時間があるので。やっぱり季節的に外が暗くなったとは言え、早い時間ではなかなかお客さんもつかまらないんですよね」
「なんそれ。暇つぶしに付き合えって?」
「あ、違いますよ、そんなんじゃ。なんて言うか、涼子さんと偶にお話ししないと調子悪いみたいなんですよね。あの日以来お客さんを見付けやすくなったのは確かですけど、繁盛してる訳じゃないんですよ。1日に二人見つかればいい方で」
「そうなん?」
「遠巻きに見られることは増えたんですけど、なかなか実際にお呼びはかからないんです。しかも、ここ2、3日は一人がやっとですし。きっと涼子さんは僕の幸運の女神なんですよ。あなたに会えたらお客さんが増える気がします。それに何より、涼子さんとお話しするの楽しいから」
 そんな風に食い下がられると、さすがにむげには出来なかった。
 幸運の女神なんてちょっといい響きじゃないか。
 偶にこんなせりふを聞くと気持ち悪くなるものだが、長谷川のそれには悪寒が伴わなかった。
 ま、少しくらいなら付き合ってやるか。
 
 私たちは市役所西側の広場に来ていた。
 少し疲れたので、片隅に腰を降ろす。
「でもここって、中央警察署のすぐ傍だよ。大丈夫?」
「大丈夫ですよ。大荷物背負ってるだけじゃ逮捕されませんって。しかし、随分寒くなりましたね。平気ですか?涼子さんは」
「うん。コート着てるし」
 確かに少し寒くはある。
 もう十一月なのだから当たり前だろう。
 でもそれほど風は吹いていなかった。
「何なら地下街に行きます?」
「ううん、いいよここで。最近、公園でお喋りするなんてあんまりなかったから、結構楽しいかも」
「良かった」
 長谷川は嬉しそうに笑った。
 そこに、渋い声が聞こえてきた。
「寒いぜ……。心の中まで凍っちまいそうだ」
 深い溜め息まで聞こえてくる。
 急に木枯らしに吹かれたような気になった。
 
 見ればすぐ近くの石段で、体格のいいおじさんがうなだれている。
 片足を上げて、それに肘をつき頬杖をついていた。
 その暗くてうら寂しい雰囲気をみると、自分が呟いたことにも気が付いていないように思われた。
 体から声がにじみ出てきたような感じだ。
 私たちは顔を見合わせる。
 そして長谷川は立ち上がった。
 うなだれる男に声をかける。
「あのー、すみません」
 男はゆっくり顔を上げた。
 街灯の薄明かりに見えたその顔には大きな傷跡があった。
 絵に描いたような縫い目跡の判る古傷だ。
 10㎝以上はあるだろう。
 それが左頬に斜めに伸びている。
 髪はごく短く、鼻鬚を生やしている。
「なんだい?アンちゃん」
 見た目で人を判断してはいけないとは思いながらも、何処から見ても非常に判りやすい、〇くざ以外ありえないだろう、という風体の男だったが、長谷川は意外にも動じることはなかった。
「こんばんは。僕、流しのバーテンダーなんですが、一杯いかがですか?料金は1杯500円です」
「ほーう」
 と、ニヒルに笑う。
「明朗会計ってやつかい」
 〇ーさんは足を降ろして、石段に腰掛けた。
「気に入った。一杯もらおうか」
「はい。ありがとうございます」
「スコッチをストレートで…。いや、せっかくだ。カクテルを作ってもらおうかな」
「何にいたしましょう?」
「さて、カクテルの名を空で覚えてるほど気の利いた男じゃないんでね。アンちゃんにまかせるよ」
「承知しました」
 いつものように長谷川はカウンターを素早く用意していく。
 しかし今回はシェーカーは出てこなかった。
 大きめのグラスに3種類の酒と氷を入れ、細長いスプーンでそれを混ぜる。
 よく見ると、そのスプーンのもう片方の端はフォークになっていた。
 混ぜ終えると、ステンレス製の変な形をした蓋みたいなものをかぶせて、中身をカクテルグラスに注ぐ。
 道具を脇によけて、グラスを〇―さんに差し出す。
「オールド・パルです」
 〇ーさんはその風体には似合わない、繊細な様子でそのグラスを手にした。
 一口、口に含む。
 目をつむり、ゆっくりと飲み下すその姿は、何かに思いを馳せているようだった。
 〇ーさんは飲んだ時と同じくらいに、ゆっくりと目を開いた。
 そして、呟く。
「オールド・パル、か。なるほど」
 長谷川を見上げ、微笑む。
 顔つきは怖いが、その目は優しく見えた。
「美味いぜ、アンちゃん」
「ありがとうございます」
 長谷川は頭を下げる。
「アンちゃんのお陰で、決心がついた」
「決心、ですか?」
「ああ。いろんな事を思い出しちまったよ。古い仲間のことをな。いい奴はみんな死んじまった。残ったのはクズばかりさ。俺もクズの一人って訳だがな」
 〇ーさんはおもむろに、ショートポープを内ポケットから取り出した。
 長谷川は素早くライターを出して火を点けてやる。
 そして灰皿をカウンターに用意する。
「昔は良かったぜ」
 紫煙をふーっと、長く吐き出す。
「やくざはやくざ、堅気は堅気ってな、ちゃんと判りやすく分かれてたもんだ。今じゃもう、誰がやくざなんだか判りゃしねえ。クソガキ共はすぐに盗みを働く。まだ子供のくせに安易に身売りする女もいる。それで将来は普通の一般市民として暮らすつもりなんだから世話ねえや。なあ、アンちゃん、そうは思わねえか?自分のすぐ隣に本物のどす黒い世界があるってのによ、なんにも判っちゃいねえんだからな」
「そうですね」
「いつからこの国は、こんな風になっちまったんだろうな。今じゃ誰も彼もがチンピラに見えるよ」
「きっと、誰もがそう思ってるんじゃないでしょうか…。よくは判りませんが、僕はなんとなくそう思います」
「そうだな。きっとみんな、何かがおかしくなっちまってるって思ってるんだろうな。きっと判ってるんだ。でも、それをどうしたらいいのかが判らない。多分原因は一つじゃないんだろう。いろんなものが絡み合って、どうしようもなくなってる。まるでゴミが溜まって塞き止められた川の水みたいなもんだ。腐っちまってんだ。みんな、もう腐ってやがる」
「でも、みんながチンピラになってしまった訳じゃないと思います」
「そうかい?」
「ええ。きっと、堅気は生きていますよ」
 〇ーさんは微笑む。
「そうだな。堅気は生きてる。堅気の故に目立たないだけだな。アンちゃんはやくざな商売をやってるみたいだが、なかなかどうして、性根は堅気のようだ」
「あ、へへ」
 長谷川は照れたように微笑んだ。
「僕の場合は、なんとも言えませんけど…ね」
「そこにちょこんと座ってるお嬢さんも、堅気だな。先刻から真面目な目でこっちを見てる。アンちゃんの恋人かい?」
「え、ええ、まあ」
 は?
 しかし私はそれを声に出せなかった。
 なんとなく騒ぎ出す空気じゃなかったからだ。
「こんなに暗くなるまで付き合わせちゃいけねえよ、アンちゃん。大事な女なんだろう?」
「はい。すみません」
「ちゃんと家まで送ってやるんだぜ。惚れた女を守れねえ男なんざ、死んだ方がマシさ」
 〇ーさんは言うと、グラスの酒を飲み干した。
「ごちそうさん」
 そう言って立ち上がり、カウンターに1万円札をぽんと置く。
 長谷川は慌てた。
 今日最初の客だから釣り銭が間に合わないのだろう。
「ちょっと待ってくださいね、今お釣りを……」
 長谷川はポケットを探る。
 私も自分の財布を確かめようとした。
 しかし、〇ーさんは手を上げて私たちの動きを制した。
「野暮なことは言いっこ無しだぜ。釣りなんかいらねえよ」
「でも…」
 500円なのに…。
「いいんだ。アンちゃんの酒はかなり効いた。ありがとよ。流しにゃ厳しい季節になるが、体には気をつけるんだぜ」
「はい。ありがとうございます」
 長谷川は深々と頭を下げ、万円札を丁寧に受け取った。
 
「一つ聞くが、アンちゃん当てはあって流してんのかい?」
「当て、ですか?いや特には…」
 今のところ私くらいでしょうね。
「じゃあ漫然とこの街をうろついてるって訳か。そりゃなかなかキツイだろう。知り合いが屋台をやってる。おでん屋の親父だ」
 〇ーさんは長谷川にその屋台の場所を教えた。
「その近辺なら、まだ俺の顔も利くはずだ。今度寄ってみな。不動明王の寅次から聞いたって言や、悪いようにはしねえ。なに、後腐れは気にしなくていい。今じゃ堅気の親父だ」
「フドーミョーオーのトラジ…。判りました。伺わせていただきます」
「そこで上手く行きゃ、中洲の屋台街にも出入りできるかも知れねえよ。流すんなら、きっとあっちの方が上手く行く」
「中洲……」
 長谷川は沈んだ声を出した。
「なんだ、どうしたい?」
「ええ、実は、僕、夢があって」
「夢?なんだい、言ってみな」
「いつか、中洲に店を構えたいと思ってるんです」
「ほう。今はその修行中って訳か」
「はい。それで、決めたんです。その夢を叶えるまでは、那珂川を越えないって。僕はまだまだ未熟です。中洲に足を踏み入れるには早すぎます」
「そうか。アンちゃんなりにケジメを付けてるんだな。判ったよ。別に無理に勧めるつもりはねえ、気にすんな」
「すみません」
 〇ーさんは空を見上げた。
 夜空だが、星なんか一つも見えない。
 雲がかかっているのか、街の明かりに打ち消されているのか、それさえも判らなかった。
「夢か。いいな」
 〇ーさんはポツリと呟き、長谷川はそっと聞いた。
「寅治さんには、夢がありますか?」
 〇ーさんはふっと、自嘲的な笑みをこぼす。
「そうさなあ、夢を見るにはちっと年を取りすぎたが…。言うなら、そう、温泉に入りてえな。広い露天風呂にザブンとよ。…息子と一緒にな…」
 〇ーさんは長谷川に向き直った。
 照れ笑いを浮かべている。
「なんでえ、アンちゃんのせいでポロッとつまんねえこと言っちまったぜ」
「その夢、叶うといいですね」
「さあな。アンちゃんは頑張りなよ。お前さんの未来は、俺のよりもうんとでかいんだからな」
 ぽんと肩を叩かれ、長谷川は頷いた。
「あの、もしよろしければ……教えてほしいんですが」
「なんだい」
「先程、決心したって言われましたよね。何を、決心されたんですか?」
 私も気になっていた。
 良いことなのか、悪いことなのか…。
 〇ーさん、いや、寅さんは、肩をすくめて言う。
「中洲のホステスに惚れて、この街に居ついて、もう20年にもなるかな。その間にいろんなことがあったよ。そろそろ俺も、ケジメをつける時が来たみてえだ。けど、その決心がつかなくて、今日は一日この広場で時間を潰しちまった。だが、アンちゃんのお陰さ、決心がついた。これから中央署に出頭するよ。じゃ、あばよ」
 寅さんは手を軽く振って、その場を立ち去った。
 私たちはその後姿が、中央警察署の中へ消えるまで、ずっと見ていた。
 しばらくして、私は言った。
「寅さんの背中には、きっと、不動明王が住んでるんだね」
「そうですね」
「温泉、入れたらいいね」
「そうですね」
 長谷川は思い切るようにふっと息を吐き、カウンターを片付ける。
「涼子さん」
「なに?」
「今日はこれでお開きです。ご自宅までお送りしますよ」
「えぇ?自宅にぃ?」
 私が顔をしかめると、長谷川は至極悲しそうな顔をした。

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