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東海林直人のゴロテマ日本史◇中世5(鎌倉農業~建長寺)

*おかげさまで「東海林直人のゴロテマ日本史」(gooブログ)は10年にわたって好評を頂きました。多い時で一日あたり8,000 PVを頂いていました。ここに新メディア“note”に発表の場を移して「東海林直人のゴロテマ日本史」をリニューアルいたします。

※ 語呂合わせでテーマ史を記憶するので「ゴロテマ」です。
※ S←A←B←C←Dは重要順ランクです
※ 「note」は下線を引けないので太字を代用します(以下同じ)


◇中世§41.鎌倉時代の農業の覚え方(重要6語句)◇B

[ゴロ]草刈りにも牛馬が/台頭
木灰・敷・二毛作)(製農具・牛馬耕)(大唐米)

[句意]草刈りにも鉄製農具や牛馬の利用が台頭した、という句。「荏胡麻」を句の中に入れたかったのですが出来ませんでした。

[解説]
1.肥料すなわち雑草を土に埋め腐らせる刈敷、草木を焼いた灰を肥料とする草木灰の利用が拡大した。
2.牛馬耕が鎌倉時代中期から西日本を中心に普及した。
3.西日本・畿内で二毛作が増加した。同じ田で同じ年に、夏にを表作として、冬にを裏作として作るもの。
4.鉄製の農具や牛馬を利用した牛馬耕が盛んになった。その様子が『松崎天神絵巻』に描かれている。
5.多収穫米である大唐米が中国から輸入された。
6.灯油の原料である荏胡麻(えごま)が農家の副業として栽培された。

2019近畿大・全1/26:「
 鎌倉時代には農業の発達が広くみられ、畿内や西日本一帯では[ 1 ]を裏作とする二毛作が普及していった。鉄製の農具や[ 2 ]を利用した農耕も広がっていった。
問1.空欄[ 1 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。
 ①米 ②茶 ③木綿 ④麦
問2.空欄[ 2 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。
 ①牛馬 ②備中鍬 ④唐箕 ④千歯扱」
_________________
(答:問1④、問2①)〉

2018関西学院大・教育済国際社会神総合2/2:「
A.鎌倉時代には麦を裏作とする二毛作が畿内から西日本に広がった。農産物や手工業品を売買する①定期市も生まれ、月に3回開かれることもあった
問1.下線部①の鎌倉時代の定期市に関して、正しいものを下記より選びなさい。なお、すべて誤っている場合は「エ」をマークしなさい。
 ア.定期市では、おもに三都の商人が活動した。
 イ.定期市では、常設の店舗で和紙や絹織物などの品々が売買された。
 ウ.『一遍上人絵伝』には備前国の福岡の市が描かれている。」
_________________
(答:問1ウ○ ※ア✕鎌倉時代に三都でくくられる大都市なし、イ✕和紙の生産流通は室町時代)〉

2018学習院大・国際社会法2/10:「
 小規模な農民の住居が一か所に集まる「集村」化という現象は、13世紀に起こったことが確認されている。鎌倉後期には二毛作の普及が確認され、同じ土地からより多くの収穫を得るために不可欠であった①施肥の発達も認められる。
問1 下線部①に関して、わが国の土壌は酸性傾向が強く、連作によってその傾向が強まる弊害がある。鎌倉期に普及した肥料のうち、中和作用があってこの対策に有効だったものとして、あてはまる歴史的名辞を記しなさい。」
_________________
(答:問1草木灰)〉

2017早稲田大・文:「
問3 下線b諸産業の発展に関連して、鎌倉時代の産業発達について述べた文のうち誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 肥料として金肥が広く用いられた。
 イ 畿内や西国では二毛作も行われた。
 ウ 京都や奈良では座を結成する商工業者もいた。
 エ 定期市である三斎市がしばしば見られた。
 オ 各地の湊では問丸が活躍した。」
_________________
(答:ア✕ ※金肥は江戸時代)〉

2017中央大・文:「
2.鎌倉時代から室町時代にかけて、④農業の発達とともに、手工業や商業・流通業の発達も見られるようになった。まず農業については、⑤それぞれの時代に新たなな肥料が用いられるようになったほか、室町時代になると、水車の利用による潅漑・排水の普及、牛馬耕や鉄製農具の普及などによって、稲作の生産性が高まった。また、畿内や西日本では二毛作も広まった。畑作物としては、楮、藍、漆、桑、茶、荏胡麻などが栽培された。
問8.下線部④農業の発達について、中世に中国から輸入された東南アジア原産の長粒米で、味は淡泊だが災害に強く多収穫なため、室町時代には西日本を中心に普及した、別名「唐法師」、「赤米」とも呼ばれる米の品種の名称を漢字3文字で記しなさい。
問9.下線部⑤について、鎌倉時代にはすでに広く用いられていた肥料の名称と、室町時代から広く用いられるようになった肥料の名称の組み合わせとして正しいものを、次のア~オの中から一つ選べ。
 ア.(鎌倉時代)刈敷-(室町時代)下肥
 イ.(鎌倉時代)油粕-(室町時代)草木灰
 ウ.(鎌倉時代)草木灰-(室町時代)刈敷
 エ.(鎌倉時代)下肥-(室町時代)油粕
 オ.(鎌倉時代)厩肥-(室町時代)干鰯」
_________________
(答:問8大唐米、問9ア ※下肥とは人や家畜の糞尿を発酵させてつくる肥料)〉

2015立命館大・全2/3:「
Ⅱ 次の文章〔1〕を読み、(a)~(h)の問いに答えよ。
〔1〕鎌倉時代になると、農業はめざましい発達を見せた。畿内や1山陽道では、麦を[ A ]作とする二毛作が普及した。麦のほかに、2荏胡麻を栽培する地域もあった。肥料は、人糞尿に加え、草葉を地中に埋め腐敗させた[ B ]や、草木を焼いて灰にした草木灰などが用いられるようになり、生産量が増大した。
また、耕作に牛が利用されるようになり、牛に[ C ]をひかせて土を据り起こす農法が普及した。
 このほか、農村では、手工業の原料作物の栽培も盛んとなった。具体的には、桑や麻のほか、茎の皮からとれる繊維を利用して糸にする[ D ]や、樹皮からとれる繊維を原料として和紙にする[ E ]などが栽培されるようになった。
 農業生産力の発達にともなって、これらの原料作物の収穫が増加すると、手工業品の商品化が見られるようになり、3荘園の中心地や交通の要衝で開かれた定期市で販売されるようになった。
(a)下線部1に関連して、山陽道ぞいの播磨国にあり、東大寺大勧進職の僧重源によって開発され、鎌倉時代末期から南北朝期にかけ悪党の乱入が見られた地として知られる荘園の名を何というか。もっとも適当な荘園名を下から一つ選べ。
 あ阿氐河荘 い奥山荘
 う大部荘 え鹿子木荘
(b)空欄[ A ]にあてはまる、もっとも迫当な語句を笞えよ。
(c)下線部2に関連して、荏胡麻を原料とする油を、10カ国以上にわたる地域で独占的に販売することを認められていた油神人は、石清水八幡宮の末社に所属して活動した。大山崎にあるこの末社の名を漢字5文字で答えよ。
(d)空欄[ B ]にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
(e)空欄[ C ]にあてはまる、もっとも迫当な語句を下から一つ選べ。
 あ鋤 い犂
 う鎌 え竜骨車
(f)空欄[ E ]にあてはまる、もっとも適当なイラクサ科の植物を漢字1文字で答えよ。
(g) 空欄[ F ]にあてはまる、もっとも適当な語句を下から一つ選べ。
 あ楮 い藍 う茜 え漆
(h)下線部3に関連して、鎌倉時代に削作された『一遍上人絵伝』に、掘立柱の店に、布・米・魚などの商品が並ぶ、「ある市」の様子が描かれている。この「ある市」は、京西に山陽道が通り、南北に川が流れる交通の要衝の地にあった。「ある市」の所在地名として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。
 あ福岡 い伴野
 う鞆  え福山」
_________________
(答:aう、b裏、c離宮八幡宮、d刈敷、eイ、f苧(ちよ)、gあ、hあ)〉

2013早稲田大・文化構想:「
問4 下線部dに関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア 牛は食用としてはあまり一般的ではなく、牛肉食が広く行われるのは明治以降である。
 イ 奈良時代の貴族階層は牛乳を煮詰めてつくる乳製品の蘇を摂取した。
 ウ 貴族は牛に車を引かせた牛車を乗用として用いていた。
 エ 鎌倉時代以降牛を利用した農耕は西日本ではほとんど行われなくなった。
 オ 牛や猿・蛙などの動物を擬人化した『鳥獣戯画』が平安末期に描かれた。」
_________________
(答:エ ✕ ※西日本で牛耕が盛ん)〉

2011文教大・全学部:「
問4 次の文章A・Bをよく読み、各々の正誤を判定し〇 ✕で示せ(問題形式変更…東海林)。
 A 鎌倉時代には、鉄の善及にともなって牛馬に鉄製の犂を引かせて田畑の耕作を行うようになっていたことが、絵巻物の『信貴山縁起絵巻』から知ることができる。
 B 金属加工の職人である鍛冶・鋳物師は、諸国を移動する者も多かったが、彼らは刀剣ばかりでなく農具や鍋釜などの日用品の生産も行った。」
_________________
(答:問4A ✕『信貴山縁起絵巻』→『松崎天神縁起絵巻』など、B○)〉

◇中世§42.地頭の荘園侵略の覚え方(阿氐河荘)◇C

[ゴロ]奇異子や(こうや)/イフな子を/当てがわ
紀伊国・高野山文書(こうやさんもんじょ))(1275年)(阿氐河荘(あてがわしょう))

 [句意](合コンなどで同席の相手として)奇異な子や不思議(if)な感じの子を(主催者によって)当てがわれた、という句。

[point]
1.地頭の荘園侵略の例として紀伊国阿氐河荘高野山文書で知られ著名。
[解説]
1.紀伊国阿氐河荘民は、1275年、13箇条にわたる愁状で、地頭湯浅氏の非法を、京都の荘園領主寂楽寺へ訴えた。出典は高野山文書(真言宗・高野山金剛峯寺に伝わる文書の総称)。阿氐河荘は現在の和歌山県有田郡

2018学習院大・国際社会法2/10:「
 紀伊国[ 3 ]上村地区の百姓が地頭湯浅宗親らの横暴を訴えた、1275年10月付けの訴状が高野山金剛峯寺に伝わっている。地頭らが、自分たちの命令に従わないならば「メコ(女子ないし妻・子)ドモヲ、ヲイコメ(追い籠め)、ミミ(耳)ヲキリ(切り)、ハナ(鼻)ヲソキ(削ぎ)、カミ(髪)ヲキリテ、アマ(尼)ニナシテ」虐待するという暴言を吐いた.というくだりが特に有名である。
 この暴言自体は口先だけの脅しであった可能性もあるけれど、紛争の過程では、地頭側が百姓の住居のなかに乱入し、税と称して家財を奪い取った、という事実もあったらしい。神仏の座す寺社の境内ほど強いものではないけれど、住居には外部からの侵害を拒む安全地帯(アジール)の意味がある。現代でも、裁判所の令状がなければ家宅捜索は許されない。百姓たちは、地頭の非法によって本家・領家への納税が困難になっているだけでなく、荘園内において安全に居住することができなくなっているということを訴えたのである。関係する史料から、[ ③ ]上村地区の百姓たちが1275年12月に⑥「神水」を呑んで地頭湯浅氏の命には従わないという誓約を交わしたことがわかる。中世後期に一般化する「一揆」の作法に通じることが注目されている。1275年当時、[ 3 ]の本家は近江国[ 7 ]の管長(長吏)を出す門跡のひとつ円満院で、領家はその末寺の寂楽寺であった。1275年6月、本家円満院が六波羅探題に地頭湯浅氏を訴え、これに関連して、現地住民の証言として法廷に提出されたものが、くだんの同年10月付け訴状だったらしい。
問3 空欄③には、かつて和歌山県有田郡にあった荘園の呼称があてはまる。この荘園の呼称を記しなさい。
問6 下線部⑥に関して、中世後期に武士や民衆が「一揆する」という行動を始める際には、神前に捧げた「神水」に起請文(誓約書)を焼いた灰を混ぜて飲み交わす作法が普遍的にみられる。この作法をあらわす言葉として、あてはまる歴史的名辞を記しなさい。」
_________________
(答:問3阿氐河荘、問6一味神水)〉

2017明治大・法:「
問5 下線部(d)その横暴ぶりが目立つようになったに関連して、地頭の横暴を示す史料としては紀伊国阿氐河荘上村百姓等言上状が有名であるが、この言上状第4条には、
「一、ヲンサイモクノコト、アルイワチトウノキヤウシヤウ、アルイワチカフトマウシ、カクノコトクノ人フヲ、チトウノカタエセメツカワレ候へハ、ヲマヒマ候ワス候、ソノゝコリ、ワツカニモレノコリテ候人フヲ、サイモクノヤマイタシエ、イテタテ候エハ、テウマウノアトノムキマケト候テ、ヲイモトシ候イヌ、…」(『高野山文書』)
と書かれている。下線部の「チトウノキヤウシヤウ」や「チカフ」は、いずれも地頭の[ ウ ]の一種である。空欄(ウ)に該当する語句を、漢字2字で記しなさい。」
_________________
(答:問5夫役)〉

2016上智大・神外総人:「
問6 東寺(教王護国寺)が所蔵する東寺百合文書には、東寺が領有した荘園に関する文書が多い。次のうち、東寺百合文書に含まれる文書からわかるのはどれか。1つ選べ。
 ①紀伊国阿氐河荘の百姓等が地頭湯浅氏を訴えたこと。
 ②伯香国東郷荘の下地中分。
 ③越後国奥山荘波月条に地頭屋敷や市場があったこと。
 ④紀伊国柿田荘の牓示の位置。
 ⑤肥後国鹿子木荘の伝領。」
_________________
(答:問6⑤)〉

2014立教大・現代心理コミュ福祉経営:「
 鎌倉時代から室町時代にかけて農業技術が発達し、地顔や荘民を中心にして積極的な耕地開発が行われたため、農業生産力が向上した。そのため、これに伴う富を誰が手に入れるかを、荘園領主や地頭、荘民が争ったのである。13世紀になると、荘民は土地との結びつきを強め、地域的なまとまりである村落に関連して地域社会の主体的な勢力となった。1275年に紀伊国( ヌ )荘の荘民が、地頭である湯浅宗親の非法を、片仮名書きの訴状で13カ条にわたって荘園領主に訴え出たことも、その一例である。
_________________
(答:阿氐河)〉

2014早稲田大・国際教養:「
問8 下線部h寺社や荘園領主のもとに大量の古文書や絵図も残されたに関連して、正倉院蔵のものはどれか、1つ選べ。
  ア 尾張国郡司百姓等解文
  イ 筑前国嶋郡川辺里戸籍
  ウ 紀伊国峠田荘絵図
  エ 紀伊国阿氐河荘民訴状
  オ 越後国奥山荘絵図」
_________________
(答:問8イ)〉

2013早稲田大・文化構想:「
 このような意見や議論は、次第に地域社会へと広がっていった。たとえば、国司の暴政が著しくなり、その圧政をc尾張国郡司百姓らが訴えた愁状が知られている。さらに、荘園制の展開のもとで、d阿氐河荘の上村百姓等が13箇条にわたって地頭湯浅氏の暴虐を訴えたとされる例もある。一方、京都では、後醍醐天皇の御所に近い[ B ]条河原において、[ C ]の新政を批判し、社会を風刺する内容の落書が登場してくるようになる。
問5 下線dの所在する国名は何か。漢字で記入しなさい。
問6 下線dの百姓らが訴えた文書に関する説明で誤っているものはどれか。1つ選べ。
 ア この文書は、1375年に作成された。
 イ 耳を切り、鼻を削ぐ、という暴虐行為が記されている。
 ウ 材木に関することが述べられている。
 エ 基本的には仮名で書かれた文書である。
 オ この文書は、高野山に伝えられた。
問7 空欄Bにあてはまる漢数字は何か。記述解答用紙の解答欄に記入しなさい。
問8 空欄Cにあてはまる語句は何をさしているか。1つ選べ。
 ア法令の名称 イ国名 ウ職名
 エ制度の呼称 オ年号」
_________________
(答:問5紀伊国、問6ア(正しくは1275年)、問7二、問8オ(建武))

地頭の荘園侵略

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