デススト

DEATH STRANDINGが面白すぎて生活に支障が出たのでビーチについて考察する。

 先日やっとこさクリアした。発売日当日に買ったにも関わらず、クリアまでこんなにかかったのは、最近はガラル地方で血で血を洗うランクマッチに身をやつしていたからである。

 あまりにも殺伐としたガラルの大地に嫌気がさした私は、まだクリアしていないデスストランディングをクリアすべく、アメリカの大地に立ったと言うわけだ。まあ史実じゃどっちも血に濡れてるんだけどな。ガハハ。(ガラル地方のモチーフはイギリス)

 念のためだが、この記事はネタバレを含む。デスストというゲーム、断言するが貴方はラストで少なくとも三回泣く。そしてその感動の根元に関わるネタバレを私はするつもりである。もしも貴方がデスストをまだクリアしていないのであれば、ブラウザバックしてPS4とデスストを買いなさい。貴方の人生を設計する上で、この石の裏のダンゴムシみたいな記事を読むためだけに、デスストランディングの体験を得られないのは完全な損失である。デスストをプレイすること。それがまずは最優先である。

 私のnoteをよく読んでくれている方はご存知だろうが、私は伊藤計劃先生の大ファンである。であるのに、先生が大好きな小島秀夫監督の作品にはついぞ触れずじまいで来てしまった。故に、デスストランディングという完全な新作はちょうど良いと感じたし、存命ならきっと誰よりもデスストランディングを遊びたかったであろう伊藤計劃先生に変わり、ファンである我々がこのゲームをプレイすることは一種の義務であると思ったのである。

 このゲームの魅力は、その世界観にギュッと詰まっている。時雨(ときう)という現象、カイラル物質、そしてビーチ。生と死の相対的な概念を「物質」と「反物質」の相対性によって表現した科学ファンタジーだ。

ビーチとはそもそも何だったのか

 作中のハートマンの言葉から考えても、この作品で採用されている宇宙観は「多元宇宙論」と呼ぶべきものだ。様々な描写を見てみると、人は死後ビーチに行き、ビーチから完全な死に向かっていくのだと考えられる。ここで注目すべきは、ビーチに行くことができるのは「魂(カー)」のみである、という点だ。

 デスストランディングの世界では、人間に明確な「魂(カー)」と「身体(ハー)」が存在している。ゲーム内のテキストを見る限りでも、確認できるのはこの二つだ。ここでいう「魂(カー)」は、おそらくデカルト的な心身二元論を超越した何かだ。

 というのも、私はわざわざ古代エジプトの概念である「カー」と「ハー」を持ち出したことが不思議だったのだ。あいにくと古代エジプトの思想には造詣が深くなく、デスストを遊び始めてから勉強した。そこで知ったのだが、古代エジプトに存在した観念では、人間を構成するのは「カー」と「ハー」では無かった。「魂」と「身体」が存在するのは確かだが、一つの「身体(ハー)」に対して、魂には五つのパーツが存在しているのである。それがすなわち、「イブ」「シュト」「レン」「バー」「カー」なのである。

 この記事は古代エジプト文化の解説記事ではないので、詳細な説明は省く。簡単にだけ説明すると、イブとは心臓のこと、シュトとは影のこと、レンとは名前のことである。私がここで取り上げたいのは「バー」と「カー」だ。

 いわゆるキリスト教における「魂」とは、人間の意識そのものをさすことが多い。コギトエルゴスムの例でもそうだが、人間の物質的な体に宿るのは「意識」であり、この意識の移ろいこそが、西洋的な生死観である。つまり、一般的に呼称される魂とは、意識なのである。

 翻って、どの書籍にも共通して見られた記述は「『バー』こそが、いわゆる「魂」の概念に最も近いものである」というものである。このバーは「魂」「個性」などとも翻訳されるもので、つまりキリスト教的な魂、あるいは日本においても霊魂などと称される、個々人の自意識の部分こそ、古代エジプトにおける「バー」という概念だ。

 対して、「カー」とはよりエネルギー的な概念である。生命力や精神などと呼称され、これがハーから抜け落ちた時、人間は死ぬと考えられていた。この記述はデススト内のテキストにも存在していたものだ。しかし、デスストでの「魂」の扱いは限りなく「バー」に近い。つまり、個々人の人格をもった一つの意識だ。

 ここで考えてみたいのが、「アク」と呼ばれる概念だ。これは「バー」と「カー」が結びついた一つの個体であり、我々が一般に「霊魂」と呼ぶような観念に近い。つまり、人間の思考を持つ「カー」である。古代エジプト人は、死後にこの「アク」の状態になることで、輪廻することが可能であると考えたのである。

 デスストでビーチにやってくる人間は、みなこの「アク」の状態に統合されているように見える。古代エジプトにおいて「アク」は一つの統合された個体であり、これが死後にもう一度死んだ場合、完全な消滅を迎える。この点でもビーチにやってくる魂は「カー」ではなく「アク」と捉えた方が自然である。「アク」や「バー」という表現をしても良かったところで、あえて「カー」という概念を持ち出す意図を考えてみたが、てんで分からない。

 ここで思うのが、ビーチは一人につき一つある、ということである。だがこれには但し書きがついていて、同時にたくさんの人間が死ぬとビーチはもつれ、統合し、一つのビーチになる。クリフが引き連れた亡者たちの戦場もこれであり、ビーチは所有者の「死」によって変形することを示唆している。また、同時に考えたいのがデッドマンのことである。彼は母親の子宮から生まれていないために「魂(カー)」がなく、ビーチも持たない、とされている。だが、デッドマンはフラジャイルのビーチを経由することも、クリフのビーチに行くことも、サムのビーチに行くことだってできた。「魂(カー)」を持たないはずの彼は、なぜビーチに存在することができたのだろうか。更に言えば、ママーとロックネの話もある。彼女たちはビーチを共有しているから、一つになれたのだという。

 話を整理しよう。「魂(カー)」を持たない人間は「ビーチ」を持たない。「魂(カー)」が無くなった時、人は死ぬ。「ビーチ」を共有している「魂(カー)」は、同一の「身体(ハー)」を共有できる。

 ここから導き出される示唆は、「魂(カー)」と「ビーチ」が対応している/同じものである、という可能性である。そうであれば、ここまでの疑問には一応の回答が得られる。つまりビーチにやってきているのは「魂(カー)」ではなく、「バー」なのだ。それがそのビーチに存在することによってアクとなっている。これはアメリという規格外のビーチの持ち主が、二つに分離したことに説明をつけるにも十分だ。つまり、生命力そのもである「魂(カー)」が「ビーチ」と同一のものであるとするなら、物質世界のストランドと、「アク」としてのストランドが同時に存在できたことの理由づけにもなる。

 これが作中の「生と死」のキーとしてのビーチの解釈だ。科学的なビーチの解釈をするには、カイラル通信について考える必要がある。

カイラル通信/カイラル物質とは何なのか

 カイラル通信は、ビーチを利用することによって大容量・タイムラグなしの通信を行うものだ、と説明されている。また、ビーチ自体を演算に利用している描写もあることから、ビーチは物理系であると考えることができる。

 すなわち、ビーチを利用して通信が可能ということは、情報はビーチを経由しても、保持されることを示している。保持される、ということは情報の相互に可逆的な変形のみが許されているということであり、これがロジックに従うということである。つまり、ビーチは物理系だ。物質界と同じ物理系なのである。

 というか、「カイラル」通信というくらいなのだし、ビーチは反物質で構築された、物質と真逆の物理系であると考えることができる。だが、だとすれば反物質であるはずのカイラル粒子は、どうして物質世界で存在し続けることができるのだろうか。知っての通り、水素と反水素のように、同じ陽子/反陽子や電子/陽電子、中性子/反中性子の対応でできた物質と反物質が接触すると、対消滅を引き起こし、消滅に伴ってE=mc**2の式どおりに、質量に対応した膨大なエネルギーが発生する。おそらく作中で発生するヴォイド・アウトも、反物質の存在であるBTが、物質である人間と接触することによって対消滅する、というような現象なのだろう。

 だが、だからこそ疑問が生じる。BT、いやカイラル物質とは、一体地球上のどの物質に対する「反物質」なのだろうか。作中で対消滅が起こるパターンは大きく二つだ。「ネクローシス」した死体によるヴォイドアウトと、BTに襲われた人間によって発生するヴォイドアウトだ。

 この二つに共通するのは、BTとなった「魂(カー)」が、「身体(ハー)」を持つものと接触することによって発生する現象である、という事実だ。作中に動物は全く出てこないが、環境音などを聞くと鳥のような鳴き声が聞こえるし、そもそも植物は生命だ。時雨を浴びた植物は枯れ、死に、そしてまた生えてくる。これらの生命は死体を焼却されたりはしないだろうから、植物のBTが存在したり、ネクローシスしてもいいような気もするが、ネクローシスする描写があるのは人間の死体だけである。

 だとすれば、カイラル物質は人間に対する反物質なのだろうか? だが、それはおかしい。鋼の錬金術師で知った人も多いだろうが、人間自体を構成する物質には、なんら特異なものは含まれていない。自然界に普遍的に存在する物質ばかりなのだ。

 ここで思ったのは、デッドマンという存在である。彼の七十パーセントは死者の臓器で補われている。それがネクローシスを起こさないのはなぜだろうか。生きているから? だが、デッドマンは母親の子宮から生まれていないため、ビーチを持たない。つまり「魂(カー)」も持たない。

 そう、ここで一つの結論に到達した。対消滅を起こすのは、「ビーチ」を持つ存在だけなのだ。ビーチを持っているものだけが、BTと対消滅を起こす。なのだとすると、カイラル物質とは、ビーチを構成する何らかの反物質に対応した物質なのではないだろうか。そカイラル物質はビーチ側に属す反物質ではなく、こちら側の物質で、デスストランディングによってビーチと重なってしまった人間と同化することで、対消滅するのではないか。

 カイラル通信を行い、安定させるためにはカイラル物質の濃度を上げなくてはならない、という描写も出てくる。カイラル物質がビーチに対応するものだとすれば、カイラル物質はビーチの物理系を逆回転で演算できる。だとすれば、ビーチ⇄BB⇄カイラル物質という流れで相互通信を行うわけで、これは納得できる。

 これらの理屈は、全てBTがカイラル物質でできているという前提が必要だが、BTを倒した際にカイラル結晶ができる点、また、後半になって解放される武器「グレネードランチャー」で発射できるカイラル結晶の「黄金弾」がBTにダメージを与えられることから考えても、カイラル物質という媒体を介して、BTが物質世界に干渉していると考えるのは極めて自然である。

 まあここまで言っておいてアレなんだが、この手のフィクションの科学考証なんて真面目にやってもドツボにはまるだけなんだけどな。多分小島監督も二割くらいは勢いで書いてると思う。

クリフは何故、サムと戦ったのか

 さて、ここから本格的にネタバレを開始する。どうせデスストをプレイしていない人が読んでも面白くないんだし、マジで頼むから未プレイ未クリアの人はブラバしてほしい。それでも進むというなら止めはしないが、一生後悔するぞ。俺は止めたぞ。知らんからな。

 というわけで、クリフォード・アンガーの話だ。

 今の所、このへんが色々なことを難解にしている。作中を通してサムとクリフが戦う時は「スーパーセル」がトリガーになっている。サムがクリフのビーチに取り込まれるのはわかる。クリフが探しているのはBBであり、それはつまりルーではなくサムである。スーパーセルによって爆発的に上昇したカイラル粒子によって、ビーチへの接続が発生し、その結果強くサムを探しているクリフの元に飛んだのだろう。

 だが、そう考えると疑問が残る。そう、またもやデッドマンだ。彼はなぜ、山小屋で発生したスーパーセルで、サムとともにクリフの戦場に行けたのだろうか。

 さて、考えてみよう。他人のビーチを使う時、どんな条件が必要だっただろうか。たとえば、フラジャイルのミサンガや、アメリのドリームキャッチャー。そう、誰かと誰かをつなぐ、思い出の品だ。

 ラストの描写を見る限り、宇宙飛行士(ルーデンス)のストラップこそが、フラジャイルのミサンガや、アメリのドリームキャッチャー、あるいは回転拳銃のようなものであったのだろう。記憶を失い、ただBBを探し求めていたクリフにとって、宇宙飛行士のストラップこそが、クリフとサムの間の決定的な繋がりだったのだ。

 ストランド大統領やダイハードマンと、アメリのビーチで出会ったクリフは、そこで記憶を取り戻した、とダイハードマンは語っていた。そして「隊長は全てを赦した」と。クリフはあそこで、ジョンだけではなくブリジットも赦したのではないだろうか。だからこそベトナム戦争のビーチで、クリフはサムを抱きしめたのだ。

 とまあ、人物の考えていることがわかったとしてもいくつかの謎が残る。クリフはなぜ、戦場のビーチにしか現れないのだろうか。クリフが連れている四人の兵士は何者なのだろうか。クリフはどうして記憶を失ったのだろうか。そしてなぜ、サムのBBポッドにつけられていたはずの宇宙飛行士が、ルーのBBポッドについていたのだろうか。

 この辺りも考察するととても面白そうだが、とりあえずは置いておこう。本当は絶滅体の考察などもしたいのだが、長くなってきたので一旦ここまでということで。

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