余白・余暇空間の価値 文章を描く(6)

今日の言葉

片蔭や滅びし寺の名の町の

茶店が並び、宿屋があり、寺があり、往来する人々は一息、一休みして、これからの旅を祈念してお寺に参拝する。
古びた建物、少し曲がりのある街路、お寺、どこにも人がおらず閑散とし、哀愁が漂う。そんな夏の終わり、ジージーと蝉の声がなくもののどこか弱々しく秋に近づいてきたかなと感じるそんな日に、片蔭のつくりだす陰影がさらなる哀愁の影を町に落とす。

[片かげり 日蔭]真上から照りつけていた夏の日が、午後になって家並みや塀の片側に蔭を生むこと。
古くは夏蔭や日蔭が主季語であったが、昭和初期から片蔭の季語が使われるようになってきた。
心理的な陰影に富む句が詠まれやすい。

今日の緑 ケヤキ 欅 Zelkova serrata 
落葉高木。15-20mになる。鋸葉は葉先へ向かって曲線で、先が尖る。葉が小ぶりで、小さな葉の集合が大きな木陰をつくる。杜の都仙台の象徴である定禅寺通りもケヤキ並木である。

ショッピングモール
ここに行けば、なんでも揃えることができる。
田舎の人は買い物から食事、遊びまでと思っていたが、都会も構造的に同じなんだと初めて認識した。たくさんの似たお店の配列が、縦に伸びるか、横に伸びるかである。田舎に行けば行くほど、横に伸びて、背が縮んで行く。
ひとたび、都会に出れば、横の限界はあるので、縦に伸びる。縦の限界もあるので、隣の、近くの敷地で同じようなビルが立つ。
人間は本来、もっと選択の自由がある。たくさんの店が並んでいるので、自分で選択している気になっているかもしれないが、もっと選択肢は無限にある。大衆のシステムに組み込まれるなかれ。

余白・余暇空間の価値
と批判的な思考で歩いていたが目的地の横浜へ。新高島からみなとみらい間の公共空間がしばらく前にリニューアルされている。素敵。建物の合間合間が、公的空間として整備されている。横浜美術館前は、(結果として)じゃぶじゃぶ池で子供たちが遊ぶ回る。木陰の合間も、池の周りも、池の中も子供たちがはしゃぎ回る。賑やかな声が響く。昔からあるケヤキは大人たちの居場所となり、休息、語らいの場になっている。新高島側は様々な形と、建物側の公開空地に置かれたベンチに思い思いにオフィスワーカやデート中のカップルが座る。なんとなく、子供づれの大人の場所と、大人だけの場所になっている。そんな私はケヤキの下で、母親たちの語らいと子供たちの叫び声を聴きながら、この文章を描いている。

ビルを建ててもいい、でも味気なくちょっと付け足すだけではなく、しっかり余白・余暇空間を屋外に用意したい。そして、建物で完結するのではなく、あくまでも全環境のなかに人は住まわせてもらっているということを忘れずに、環境の一部としての建物にしたい。そして、建物をできる限り分解して、環境に溶け込ませたい。それは、今、そしてこれからの子供たちの世代に引き継ぐ環境作りにつながると感じている。

こんな遊び空間、欲しいわ。子供つくって、一緒に入って遊びたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?