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神の社会実験・第19章

とうとう、僕ら一家が皆、最初は絶対ありえないと思っていたことが現実になってしまった。

お互いに、腕に相手の感触を焼き付けるように固く抱き合った父と母と僕を、院長先生がそっと引き離した。その後の事は、あまりよく覚えていない。院長先生に連れられて、歯科医院から出て、無人タクシーのような乗り物で街へ向かったが、涙越しに見た景色はぼんやりしていた。

「母親は本当に手強いわね。お蔭で大分時間が掛かってしまったわ。しかも、本当はあなたさえ説得できれば、御両親の了承を得る必要なんてなかったの。でも、あなたたち一家の絆がとても深いから、ご両親を説得した方があなたに納得してもらいやすくなると思ったの。
人間は運命とか宿命と言った言葉に弱いから、いつもどおりに遭難者を迎える方が絶対に合理的なのだけれど。たまにあなたみたいなケースを迎えるのは、サンプルの偏りを抑えるためかしら。それとも、神は余程あなたの事を気に入ったのかしらね。」

院長先生がそんな事を言っていたような覚えがあるけれど、記憶はあまり確かではない。

タクシーはピンクと水色ネオンの町を抜けて、20分程走ったと思う。海沿いの道を離れ、どんどん斜面を登って行くようだった。降りたところは、木が鬱蒼と茂った山道で、一か所だけ鍾乳洞の入り口の様な洞穴があった。院長先生は、まっすぐそちらに向かい、ハイヒールで器用に洞穴を下って行った。真っ暗な洞穴に入るのは、普段の僕なら躊躇しただろう。でも、その時は呆然としていたので、あまり考えずに先生の後をついて行った。先生が入って行ったときは暗いままだった洞穴は、僕が足を踏み入れた途端にポッと淡い照明がついた。その時はちょっと驚いただけだったけど、後で考えてみたら、悪魔には本当は実体がないのかもしれないと、キツネにつままれた気分になった。ゆるい斜面をほんの少し下った突き当りに、エレベーターのドアが見えた。先生はコールボタンを押して僕に向き直った。

「さあ、ここで私の役目はおしまいです。あの出前の人の様に例外的な事が起きなければ、もうお会いすることは無いでしょう。」

エレベーターのチャイムが控えめになり、ドアがすっと開いた。先生は僕をそっと僕の背を押し、エレベーターの中に入れた。振り返ると、院長先生は僕をまっすぐ見つめ、微笑んでいた。

「さようなら、幸運な少年。素敵な人生を歩んでください。」

先生がそう言い終えるのと丁度同じぐらいのタイミングで、ドアが閉まった。そして、僕がボタンなどの在り処を探しているうちに、エレベーターは勝手に動き出していた。どうやら、登っているようだった。

再びチン、と控えめな音がして、ドアが開いた。僕が踏み出した場所は、温かみのある間接照明に照らされた小ぢんまりとした受付だった。これは僕の勝手な想像だけど、全て木材で統一された内装は、なんだか北欧のサウナの様だな、と思った。カウンターには誰もいなかったけれど、卓上ベルの様な物があったので鳴らしてみた。ちりりんと優しい音がして、奥から「はーい」と言う風に取れる、何語か分からない返事が聞こえた。パタパタと可愛らしい足音が聞こえてきて、どこの国の人か良く分からない小柄なおばちゃんが出てきた。一見欧米人なのだけど、何となくアジア人風のその人は、にこにこと笑いながらワイヤレスのイヤーピースの様な物を一対手渡してくれた。また何語か分からない言葉に身振り手振りを交えながら、どうやら耳に装着して、と言っているようだった。インド人と欧米人のハーフなのかな、と思いながら装着すると、途端に「…そうそう!すぐに分かってくれて嬉しいわ!」とおばちゃんの言っている事が分かるようになった。驚いて彼女を見つめていると、童話のスプーンおばさんみたいなおばちゃんは両手を差し出して、僕の手を取った。その小さい手の力強さに、僕はまた驚いた。

「ようこそ!ここに残ってくれて、ありがとう!私は島の新住民歓迎会のディルセ。よろしくね!」

そう言って彼女は、上手にウィンクした。とてもチャーミングなおばちゃんだ。僕の名前を言う暇もなく、ディルセおばちゃんは握っていた僕の手を放すと、きびきびとした動作でカウンターから出てきた。

「さあ、行きましょうね。もう、何にも心配はいりませんよ。ここを出るころには、あなたも立派な島民!」

そう言って、僕の腕に手を掛け、山小屋風ホテルの廊下の様な通路を案内してくれた。ディルセおばちゃんからは、仄かにメタリックで微かに甘い、丁度サフランの様な匂いがした。さっきから、何かとフレンドリーな彼女の態度は、なれなれしいとか、子ども扱いされているとか、暑苦しいなどのネガティブな感情は一切齎さなかった。清潔感溢れ、感じのいい木造の廊下を幾らも進まないうちに、おばちゃんは右手にあるドアの前で立ち止まった。

「あなたも知っていると思うけど、この島の様に隔離された場所の人たちは病原菌に晒されるリスクが少ないから、新しいウイルスなどが入ってくるとすぐ広まってしまうの。だから、新しくこの島に来た人には、必ず健康診断を受けてもらうのよ。でも、安心して。もしあなたがウイルスを持っていても、大丈夫。検出された病原菌は全て研究室に送られて、すぐにワクチンが用意されるの。必要がなくても、もしもの時に備えてワクチン・ライブラリを制作する意味でも、新しい住人は大歓迎なの。そして、あなたの健康に何か問題が見つかったら、すぐに治療してもらえるから、島での生活を万全の状態で始められる。」

そう言ってディルセおばちゃんは、木造のドアを、頼りになる家畜の様に、ぽんぽんと誇らしげに平手で叩いて見せた。

「そして、ここが健康診断を行う部屋。検査は全自動で行われるから、誰も入ってきたりはしないわ。あなたには普通に、この部屋に泊まってもらうだけ。今日はもう遅いし、あなたも疲れているでしょうから丁度良かった。一つだけ注意してほしいのは、今履いている靴はすぐに下駄箱に入れてしっかり扉を閉めて、着ている服は全部お風呂場の籠にいれておいてね。夜のうちに自動滅菌されるから。部屋には必要な物が全て揃っているけど、何かあったらインターフォンでフロントにかけて。それじゃあ、お休みなさい!」

そうしてディルセおばちゃんは部屋を開けてくれた。すぐに立ち去る素振りを見せているおばちゃんを、僕は慌てて呼び止めた。

「ちょっと待ってください!ディルセさんは、僕と直接対面して大丈夫なんですか?」

すると、彼女はにっこりと微笑み、僕の肩をきゅっと握った。

「ディルセで良いのよ。この島では、みな平等。心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫よ。私、サフランみたいな匂いがするでしょう?これは、体の粘膜を一時的に強化するお薬の匂いなの。どんなお薬でもそうだけど、毎日使い続ける訳にはいかないけれど、ここで働く人や、お迎えバスの乗客とか出前の人みたいに、新しく島に来た人に会う仕事の人達は出勤する前に飲むの。だから、どんな菌やウイルスに晒されても大丈夫。ちゃんと守られているから。それに、あなたも、この建物を出る時までにはちゃんと感染病フリーの状態になっているから。それじゃあ、ゆっくりお休み!」

僕はディルセを見送ってから、部屋に入った。それは、とても健康診断なんかが行われるとは思えない、気の利いたホテルの一室の様だった。やはり丸太小屋の一室と言った内装の部屋で、清潔感と居心地の良さは抜群だった。言われた通りに靴をオーブントースターの様な下駄箱に入れると(靴のマークがついていたから、間違いないと思う)、カチッと扉が閉まって、小さな赤いLEDランプが灯った。それを確認してから、スリッパに履き替えて部屋をぐるりと見て回った。ディルセの言った通り、着替えから何から全て揃っていたけど、モニターや計測装置なんかは一切見当たらなかった。僕は、一体どこでどうやって計測をしているんだろうと考えながら、用を足し、歯を磨き、服を脱衣籠と思しきコンテナの様な物に入れ(Tシャツの絵が描いてあったから、そうなのだろう)シャワーを浴び、用意されていたパジャマと下着を着て、広いベッドに入った。そこでようやく僕は、父と母の事を考えた。そして、少し疼く胸を抱え、ちゃんと帰れただろうか、記憶操作って大丈夫なんだろうか、などと考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

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