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雑記1

弥生時代を考察する際に気になったことを雑記として残しておきます。

① 魏志 東夷伝 倭人条に記載されている倭人は、顔に入れ墨をしている海洋民であり、邪馬台国(原文:邪馬壹國(やまい))は奈良(大和)から発展したとは考えにくい
そもそも、原文:邪馬壹(やまい)を邪馬台(やまたい、やまと)と記載することに問題がある

② 魏志 東夷伝 倭人条に記載されている邪馬壹國は、考察の結果、以下の円の範囲内にあり、広形銅矛の分布と重なっているように見える

邪馬壹國
広形銅矛(桃色で囲まれたエリア)

③ 三遠式銅鐸の分布から、近江、尾張は1つの文化圏を形成していたように見える(青色で囲まれたエリア))

近畿(奈良)は、瀬戸内、東海、近江の影響を受けて、近畿式銅鐸の文化圏を形成しているように見える(緑で囲まれたエリア)

青銅器の分布から、北部九州、瀬戸内地域、出雲、近畿、東海は、ある程度、独立しつつも、それぞれ交流があったように見える

青銅器の分布


三円式銅鐸(レプリカ)@弥生文化博物館

④ 近江は独自文化で発展していた
 伊勢遺跡からレンガが出土することから、大陸、特に寒い地域、東北エリアの影響を強く感じる(個人的な感想)

 敦賀が近いことから、大陸との別ルートの交易があったと思われます

伊勢遺跡

⑤ 奈良の纏向遺跡は誰がつくった?

第一段階として、近江・東海から奈良に人があつまる(例えば、唐古鍵遺跡)

第二段階として、北部九州・吉備から奈良に人があつまる(例えば、纏向遺跡)

第三段階として、伊都国王(又はその後継者)が纏向に入り、王となる(第二段階と同時かもしれません)

それは、神武天皇だったのでしょうか?

なお、纏向遺跡は、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇あたりの時代とされていますので、仮に纏向に入った王が崇神天皇(ミ・マキ・イリ・ヒコ=纏向に入った王子)とするならば、かなり、話がしっくりします。また、崇神天皇の弟は、彦坐王であり、近江・東海に縁の深い人です。

とすれば、崇神天皇よりも前に奈良に住んでいた権力者を尊敬の念を込めて欠史八代として記載したのでしょうか?

近江についても調べたいことがたくさんでてきます。

⑥ 伊勢遺跡

伊勢遺跡は、滋賀県守山市にある弥生時代の遺跡です
倭国乱の頃、卑弥呼の共立の前
おそらくは、吉備の楯築遺跡の前
倭国王帥升の頃でしょうか?

三上山を神として見ていることから、縄文時代から続く、とても神聖な場所だったと思われます

三上山といえば、前出の彦坐王
彦坐王の妻は、息長水依媛(天之御影神の娘)であり、天之御影神は、
三上山に降臨したと伝えられています(第七代孝霊天皇の頃)

第七代孝霊天皇の宮は、奈良の唐古鍵遺跡の近くの黒田廬戸宮であり、妃は春日系、皇女は倭迹迹日百襲媛命(箸墓古墳)であることから、奈良の纏向遺跡と彦坐王は、とても深く繋がっています(崇神天皇の弟は、彦坐王ですが、同母系なのか異母系なのかは不明です)。

そして、三上山の周辺での銅鐸の埋設、そして奈良での鏡の祭祀の開始

とても気になりますよね~


三上山

こういう縄文時代から神として祀られていた山を見ると、とても癒やされます

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