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新国立劇場バレエ団ハイライト公演を観て


 大阪の枚方市にある市立総合文化芸術センターで、新国立劇場バレエ団のハイライト公演があった。
 私にとっては、初めて見るバレエの舞台だったので、前々から楽しみにしていて、何を着て行こうか、席は三階だったけれどよく見えるだろうか、などといろいろ思いながら上演の日を心待ちにしていた。
 この公演を観に行ったのは、私がバレエそのものに興味を持っていたからではなく、新国立劇場バレエ団のバレリーナ、木村優里さんの踊りを、一度舞台で見てみたかったからで、というのも、ほんの数ヶ月前、偶然、木村さんの踊りを映像で見て、(たしか、その日は日本舞踊のお稽古のあった日で、踊りのことをあれこれ考えていたように思う)「バレエ」や「日本舞踊」の隔てを超えた「踊り」というものの美しさに、私はあっという間に惹き込まれてしまった。体の内側から指先まで、途切れることのないしなやかな流れがあり、音に合わせてポーズが決まった後には、心地よい余韻が残る。そこに、私が今まで思っていたバレエのイメージよりももっとやわらかい、奥ゆかしいものがあり、ともすれば日本舞踊にも共通するような、形り振りや間、抑揚を感じた。
 その後、木村さんの他の動画や、海外のバレリーナの映像も見たけれど、木村さんの踊りには、特別なやわらかさ、花が開く時のような、はらりはらりとした呼吸があり、私はその映像を見た時から、舞台でその踊りを観てみたいと思っていた。東京へ行くことも、この頃は少しずつ増えてきたが、それでも年に一度や二度のことなので、それが叶うのは随分先のことであろう、今は映像が見られるだけでも充分だと思っていたその矢先、三年前に公演が予定されていて、延期になっていた舞台が大阪で開かれることを知り、あまりの幸運に驚きつつ、私は急いでチケットをもとめた。数少ない関西での公演だからか、残席も僅かだった。
 大阪での公演とはいえ、劇場までは電車とバスを乗り継いで小一時間ほどかかる。知らない街をゆくバスに揺られながら、以前、木村さんがご自身でお描きになったイラストとともに投稿されていた「リンゴとバナナ」というお話を思い出した。可愛らしいバレリーナがシューズを履き、鏡の前で練習をしたり、トレーニングに励んだりする様子が描かれていて、そこに、木村さんの気づきが語られている。私なりに要約すると、

自分と他の誰かを比べたり、誰かに憧れたりして落ち込んでしまうことがあるけれど、そもそも、自分と他人はリンゴとバナナくらい、比べようと思っても比べられないもの同士なのではないか。ないものを求めて落ち込むのではなく、「与えられたものをどう生かすか」に目を向けてみよう。私がどういう人間かを教えてくれるために外の世界があり、もし、世界中に私しかいなかったなら、私という人間がわからないだけでなく、「私」という概念さえないのかもしれない…、そう思うと、自分にも他人にも愛が溢れてくる。どんなことも、どんな出会いも素晴らしい贈り物だと思えてくる。


 …というお話で、私はこのお話をとても気に入って、ふとした時に思い出しては何度も見返している。バレリーナが鏡の中の自分を見て涙ぐんだり、一生懸命トレーニングをしたりして、ようやく最後に綺麗な衣装を身に纏い、華麗に舞う。イラストとともに綴られる言葉の一つ一つに、私はその道の厳しさを思い、また、その道のりの中に生まれてきた思いがまっすぐに伝わってきて、心が揺さぶられた。
 私は、ここに語られていた他者との違いや、またそこに感じる芸の道の厳しさが「身体」というところから生まれてきているように感じた。
 たとえば、日本舞踊では、着物が身体の形やその存在を仄めかす程度だけれど、バレエの衣装やタイツは、細い手足をくっきりと際立たせる。また、高く飛んだり回転したりするのに、運動能力や年齢というところで差が出るかもしれない。
 素人目線にそういうところだけを思ってみても、バレエは特に「身体」からの隠れ家が少なく、しかもその「身体」こそ、各々の個性を持つために、形や動きの違いや技術の差をはっきり示すような気がする。
 舞踊や歌などの舞台芸術は、演者自身が舞台の上で作品と化す。自分は作品を描く作者でありながら、その作品というのは紛れもない自分自身である。舞台作品が自分の身体を離れたところでなく、自分にぴったりと一致したところ、この身体そのものだということを思えば、舞台芸術家は「身」に迫るものを誰よりも敏感に感じながら作品作りをしているのではないか。そのような舞台芸術の世界に、たとえば世阿弥の「離見の見」という言葉が生まれてきたことも不思議なことではないように思う。たった一度の舞台で、自らが作品となって舞い、踊り、歌う、演じる。そこに観客も演者もなかなか気付くことの少ない、芸術や芸能があらかじめ含み持っていた哲学(本当は哲学などという言葉では表したくない、智慧とも美とも呼びたいようなもの)がある。
 そして、舞台人たちは、簡単には取り替えられないこの身を以って、自分のため、、、、、ではなく、常に作品のため、、、、、に、自らの技や心を磨き捧げる。
 その真摯な姿勢、謙虚な思いを、知らず知らずのうちにでも持ちながら、芸術、芸能に取り組む人が、そこにある教えに出会うことができるのだと思う。
 身体、というものは思えば世界中の誰一人、自分で選べるものではない。それは、私にとって、最もわかりやすく、身近にある「宿命」とも言える。その宿命、自分に与えられたものに気付かせてくれる周りの世界に、そして、自分以外の誰かにとっては「外の世界」である自分にも愛が溢れてくる、という気持ちには、「違い」というものを否定するでも、肯定するでもなく、それそのままに受けとめるという、木村さんの考え方、バレエに真摯に取り組まれているからこそ生まれてくる思いが表れている。そのような思いに至るまでの道のり、その姿を私は小さなお話から教えてもらった。
 古い日本の文化や言葉に心惹かれるままに、感じ、学ぶなかで、私はそもそも自分に与えられているものの多くを、まだ知ることさえ出来ていないのだということを、しばしば気付かされる。よく見渡せば、そこにもここにもあるというのに…。
 それは、言葉や文化、芸術、芸能…その中にある肌ざわりや音曲の調べ、凛とした佇まいのなかに、誰にも気付かれないほどひっそりと、ごく自然に与えられているのだと思う。「違い」を含む外の世界に触れたとき、初めてそういうものに気づき始める。木村さんは、お話の最後に「バレエを通して気づくこと、これからも大切にしたい」と添えられていた。私も、日本の文化や言葉に触れて気づくこと、教えてもらうことをこれからも大切にしたいと思う。

 劇場に上演五分前の鐘の音がなった。気がつけば三階席の端の端まで観客でいっぱいになっていた。客席の照明が順々に消えてゆき、むんとした静寂が客席に充満した。静かに幕が上がる。
 それからはあっという間だった。ハイライト公演の名目通り、曲の主要なところが踊られるので退屈する暇もなく、曲の中で湧き起こる大きな拍手や、手拍子に場内は活気づいていた。私はもっとオカタイ舞台を想像していたので、会場の盛り上がりに少し驚いたけれど、とても楽しい舞台だった。
 初めの演目の後の三曲は全て古典バレエで、そこには「古典」というものに共通する格調、華やかさ、しどけなさがあり、初めてのバレエの舞台も楽しく、興味深く観ることが出来た。
 日本舞踊のお稽古場で先生から、日本の文化や舞台だけでなく、いろいろなものに触れてみるといいよ、と言ってもらったことがあるけれど、本当に、西洋で生まれた芸術や舞台にも、今回はそれが古典だったということもあって特に、学ぶことや感じることがたくさんあるのだと知った。木村さんの踊りは、私の世界をぐっと広げてくれ、これまで心惹かれてきたこと、その見方や感じ方にも深みを与えてくれたように思う。
 淡い青色のチュチュの裾が、寄せては返す波のように、バレリーナの踊りとともに心地よく揺らいでいる。大きな劇場、広い舞台、湧き起こる手拍子にも臆することなく優雅に踊る。華々しい音楽が鳴り止み、バレリーナは観客に向け、パートナーに向け、二度、三度と恭しくお辞儀をした。自分の手のひらから出る音が聞き分けられないくらいの拍手が、いっせいに舞台に向けて贈られた。暗くなってゆく舞台に残る二人の影を眺めながら、芸の道の葛藤や喜び、感謝、それら全てを最後のお辞儀がたたえているように感じた。

🩰



↓記事内で紹介した、木村優里さんの動画です。






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