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国語教師の雑談、「杞憂」

「杞憂(きゆう)」
 空が落ちてくるんじゃないか?
 古代中国、杞(き)の国の人が心配していました。心配で心配で夜も眠れず、ご飯ものどを通らない。この人の友人が教えます。
「世には気が充満しているから大丈夫。天は落ちてこないよ。」
 しかし、筋金入りの心配性はこの程度の説明では安心できない。
「星や月は気でできているわけではなかろう。落ちてくるんじゃないか?」
「いやいや、星や月も気の充満の中で光っているものに過ぎない。だから落ちてはこないよ。」
「では、大地が崩れることはないか?」
 心配の種は尽きることがない。
「土はどこまでも続いて存在している。どこまでもあるものが崩れたりはしないよ。」
 心配性はようやく安心したとか。

 この心配性は本当にこの説明で納得したのかな?少し心配ですね。

 ともあれ、杞の国の人の心配、「杞憂」は無用な心配、いらぬ取り越し苦労をあらわす故事成語として知られています。

 馬鹿な人だなあ、と笑い飛ばすべきでしょうか?

 地面は絶対に崩れない。
 海は絶対に山まで襲ってこない。
 
 絶対ではありませんでした。
 地は崩れ、海は山にも襲いかかりました。

 人類は文明を築き、安心安全を追求してきたはずです。しかし、いまだに「絶対安心」「絶対安全」は得られていません。それどころか、今までに人類が経験してこなかった「もの」が我々に襲いかかってきます。
 
 地震、津波、疫病。

 我々人類の浅はかな常識は役に立ちません。何が起こるか全く予想もつかない。我々現代人は杞の人を笑えるでしょうか?

 「杞憂」は『列子』という書物に載せられた話です。『列子』の有名な話をもう一つ。

 宋の国に猿を飼う人がいました。彼はそれはそれは猿たちを大事にしていましたが、あまりに多くの猿を飼っていたために次第に餌代に窮します。そこで猿たちに提案しました。「これからは朝食にトチの実を三つ、夕食にトチの実を四つにしたいが、どうであろうか?」猿たちは朝食が少ないと思い大騒ぎ。そこですかさず、「わかった、では、朝食に四つだ。夕食は三つでどうだろう?」猿たちは、団体交渉の結果朝食が増えたために大喜び。
 有名な「朝三暮四」です。
 まったく、猿どもは目先の利益しか考えない愚か者よ。

 『列子』はなぜこんな話を載せたのでしょうか?杞の国の人や、宋の国の猿はバカだなあと笑うため?

 『列子』は周の時代に編まれました。「周」は「夏」「殷」に続く王朝です。「杞」は「夏」の遺民(新王朝に仕えない民)が封じられた国です。「宋」は「殷」の遺民が封じられた国です。新時代を作った周王朝から見れば、「杞」も「宋」も旧時代にとらわれた愚か者の国です。
 
 愚か者だから「杞憂」や「朝三暮四」のようなことになる、というのが『列子』の編集態度でしょうか?もちろんそういう考え方も成り立つ。でも、そうかなあ?
 古代中国で紙を使用する以前は書物は竹や木で作られた。竹や木の板に文字を記し、その板を緯(い)というひもでつなぎ合わせたのです。
 そんな手間のかかるものにわざわざ書き残しますか?「杞の人や、宋の猿はバカ」って。

 『杞憂』や『朝三暮四』には単なる教訓以上の何かがあると思います。二千年以上もの長きにわたって語り続けられるべき何か。何でしょうね?すみません、私まったくわかりません。想像もつかない。
 これ、わからないとまずいかなあ?国語教師失格かなあ?怒られちゃうかなあ?クビになっちゃうかなあ?わあ、心配だ!どうしよう?

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