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国語教師、授業の雑談

 長いこと国語教師をやってきましたが、どうも授業そのものよりも授業中にちょくちょく挟む「雑談」のほうが性に合っているようです。

 よく、「国語の勉強ってどうやってするの?」とか、「なにを覚えればいいの?」と聞かれますが、正直なところ、「さあ・・・」としか言えない。(実際にはそれらしいことをそれらしくお答えしますがね)

 本当は「まあ、そんな難しいことはさておいて、この作家にはこんなエピソードがあってね・・・」とか、「藤原氏ってのは実に阿漕な人たちで・・・」とか、「むかしむかし、あるところにレヴィ=ストロースというおじいさんがいました。そのおじいさんは・・・」などというお話をしたい。本音を言えば、一時間ぶっとおしで雑談をしていたい。
 文部科学省と教育委員会と管理職の手前、受験に役立つ(であろう)授業をしています(しているつもり?)が、それでもやっぱり雑談が好き。

 いつだったか、同窓会で言われたのは「先生の授業で覚えているのは、宦官の話!」、「私は平安時代の美人の顔の絵!」、「俺は先生の学生時代のバイトの話!(そりゃ、もはや国語とは関係なかろうが)」。生徒達よ、君たちは私がどんなに無い知恵を振り絞って授業を講じていたかわかってるのかな?
 でも、現実はそんなもんです。いやいや、雑談を覚えていてくれるだけでも望外の幸せ。雑談にも力が入るというものです。

 ならばいっそ、雑談だけしてもいいのかな?と考えて、こちらで雑談だけしちゃうことにしました。この道三十年あまりの(うわ、そんなに経ったのか・・・)国語教師のする、役に立たない話の数々、できるだけ無益なお話をいたしましょう。

 まずは『方丈記』についての雑談を。『方丈記』、ご存じですね。では「方丈」ってなんでしょう?

著者、鴨長明は出家後、極小の庵を作って暮らしました。その庵が「方丈」。一丈四方なんです。一丈は現代風に言うと、約3メートル。3メートル四方というと、四畳半より少し広いぐらいかな?この方丈の庵で執筆したから、『方丈記』。

長明はなぜそんな小さな庵に住んだのか、それがまた、まことに合理的な考え方に基づいているんです。この庵、実に良くできている。解体可能の組み立て式。『方丈記』の説明によると、解体すれば車二台で移動可能。車はリヤカーみたいなもんですかねえ。(リヤカーご存じ?)
解体・移動・組み立てのことを考えると、コンパクトな方がいい。一丈四方という大きさは故あることです。

 また、「維摩経(ゆいまきょう)」という経典の中に、釈迦の弟子である維摩詰(ゆいまきつ)の居た方丈の間に文殊菩薩様ご一行が収まりきったという故事が紹介されています。
 そこから、仏教では方丈は宇宙そのものをあらわす言葉になり、また、お寺の住職さんのおうちを方丈と呼んだりするようになります。長明は出家者でしたから、「方丈」に住むのはある意味で必然です。

 長明はこの小さな庵を、楽器(琵琶と琴)演奏室、書斎、仏間、寝所と分割して使いました。(器用だなあ!)まあ、それぞれが重なり合った空間だったとは思いますが。
 
 方丈の庵は都からほど近い、日野山に置かれました。長明は日野山で人との交わりを避け心静かに余生を送りましたとさ・・・、とはいきません。どうもしょっちゅう山から下りてきて、人々の暮らしを覗き、都の様子を観察していたようです。ことに火事や飢饉などの天変地異についてはつぶさに見て回り、事細かく、えらくビビッドに描写しています。
 長明や兼好を「世捨て人」と言いますが、「世捨て人」・・・、捨てていないと思いますよ。俗世間という奴はやたらおもしろい。なかなか捨てられん!

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