見出し画像

第二十章 仲間たちとの別れ

この物語はフィクションです。登場する団体、名称、人物等は実在のものとは関係ありません。


赤線とはー
性風俗の混乱を恐れた国が慰安所として許可を出した特殊飲食店街。半ば公認で売春が行われ、警察の地図に赤い線で囲ったため、赤線と呼ばれた。ー


―横浜―

 電車が横浜駅へ着いた。
 浜やんは虎之介とちか子を待たせ、ある船会社に電話を入れた。

「もしもし…第一光洋丸は港に入ってますか」

 貨物船の第一光洋丸が横浜の港に入港しているかどうかを問い合わせたのだ。
 当直なのか、たまたま居合わせたのか。社員が電話に出て、教えてくれた。

「まだです。あと二、三日で入ります」

 実は浜やんと仲の良かった城島という船員がその船で外航から帰って来るのだ。
城島には前回横浜に戻って来た時、あるものを買って来てくれるよう頼んでいた。
金は既に渡してある。すぐにでも受け取りたかったが船が入っていないのでは仕方がない。受話器を力なく置いて虎之介たちのところへ戻って来た。
港から吹きつける風で冬の夜がいっそう肌寒く感じられた。

 飯など食う気持ちになれなかったが、三人でこれからのことを話し合う為駅近くの食堂に入った。
 ビールを一気に飲み干すと虎之介の方が先に口を開いた。

「浜、これからどうしようか」

「俺はとにかく助けにいくよ」

「もう、俺たちはダメだよ。あちこちに知れ渡ってヤバイよ。俺は辞めるわ」

 意外だった。虎之介はマリの救出を手伝ってくれるとばかり思っていた。店に乗り込みたい浜やんの気持ちは十分わかっている筈だ。虎之介の言うように赤線を荒らすことについては噂が更に広まり、何処へ行っても商売などもう出来ないだろう。
 その上、マリが一人欠けていてはどうやっても無理だ。だが、マリの救出には力を貸してくれると思っていた。おそらく逃げる車中で結論を出したのだろう。
命を落とすかも知れない危険な賭けに、彼は結局ノーの答えを出したのだ。

 考えてみれば、それも無理からぬ話かも知れなかった。いくらチームワークを謳ったところで、所詮は詐欺を目的に金でつながった急造の仲間である。この半年間の旅を振り返れば、そうは思いたくなかったが、それが現実なのだ。小さな亀裂から、あっという間に砕け散ってしまうガラスのような関係が続いていたのだ。
 その上、半年間の逃避行で虎之介もちか子も精神的にくたくたに疲れている。

 浜やんがゆっくりとタバコに火を付けた。

「…わかった。おまえの言う通りかも知れねぇ。解散しよう」

 夜も遅くなったので、三人は港湾関係の宿泊施設に泊まり、明日横浜駅で別れようということになった。
 夜、浜やんの部屋にちか子が入って来た。
眠っている虎之介に気づかれないように部屋を抜け出して来たのだ。

「どうするのよ。本当に丈二さん」

「ん、俺は何度も言うようにマリを取り戻しに行くから…心配しねえでいいからよ」

「だって殺されちゃうよ」

「大丈夫だよ」

「マリちゃん、今頃どうしているかな」

「向こうは女が商品なんだから。あまり手荒なことはしねぇよ。心配するな」

「…だって、どうやって助けるのよ。そんなこと出来るの?」

「大丈夫、出来る」

「いつやるの?」

「日取りはまだ決めてねえよ…俺にもまだわからねえけど、なるべく早くしねぇと…」

「私、どうしようか」

「行けよ一緒に…虎之介と」

「このまま別れるのは、なんか中途半端で嫌だけど…」

「その気持ちだけで十分だよ」

 ちか子はこの先のことを心配して、自分の部屋になかなか戻らなかった。その心中を察して浜やんは

「マリを助け出したら一緒に暮らすから。そしたら又、逢えるよ」

とちか子を慰めた。
 その言葉で、ちか子は少し愛想を崩した。

「ほんと、絶対そうしてよ」

 別れの時が迫っていた。藤沢までいったん帰る虎之介とちか子を浜やんは横浜駅のホームまで見送りに来たのだ。ホームに各駅停車の下り電車が入って来た。

「浜、じゃこれでいくからよ。体気をつけろよ」

「ああ、おまえもな」

ちか子は泣きじゃくっていた。うつむいたまましきりに涙を拭っていたが、電車に乗り込む直前、嗚咽をこらえながら浜やんを見て声を絞り出した。

「丈二さん、生きていて…絶対、絶対だよ」

「ああ大丈夫だ。ちかちゃんも元気でな」

 虎之介が先に電車に乗り込み、ちか子が続いた。
ちか子はドアのところに立ったままだ。
電車が動き出した。ちか子が、まだドアのところで口を動かして何か言ったようだが、動き出した電車の音にかき消されて、聞き取れなかった。
ちか子には可哀想なことをしたと思った。
まとまった金を作って人生の足固めをしようなんて言ってみたものの、その独立記念日は結局、作ってやれなかった。

 とうとう一人になってしまった…

駅構内の人混みの中を歩いていると孤独感が全身を包んだ。
何処へ行こうかと思った。
第一光洋丸で横浜に戻って来る城島に早く逢いたいが、あと二、三日かかる。時間つぶしをあれこれ考えた末、いったん実家に帰ることにした。船員をクビになってすぐに旅を始めた為、実家にはかなりの間帰っていない。
久しぶりに母親の顔が見たくなった。

 浜やんの実家は横浜駅からバスで四、五十分の農村地帯にあった。船乗りの父親は既に亡くなっていたが、母親と妹たちは大きな農家の納屋に間借りして暮らしていた。浜やんは、もう少しちゃんとした家に住んでもらいたかったが、以前からの貧乏暮らしが身についている母親は、浜やんの再三の申し出を断っていた。かといって、長年の納屋に間借りの生活から母や妹を助けてあげたい。赤線でひと儲けしたら、ちゃんとした家に住まわせてあげたいと思っていた。

 母親たちが間借りしている農家に着いた。
浜やんは、その農家の玄関先に着くと大声で母を呼んだ。

「母ちゃん!」

 返事がなかったので近くの畑へ行った。母は大家の娘さんと一緒に畑仕事をしていた。背をかがめて農作業に精を出す母の姿がなぜか不憫だった。
 母が浜やんに気がつき、驚いた声を上げた。

「あら、丈二。いつ帰ってきたの」

「今日、船が着いてよ」

「あっ、そう。久しぶりだね。何の連絡もないから心配していたよ。ゆっくりしていきな。ご飯食べて行きなよ」

 浜やんはポケットから一万円札を取り出し、母に渡した。

「これ使ってくれよ」

「こんなにいっぱい。おまえ、なんか悪いことでもやってんじゃないだろうね」

「そんなこたぁねえよ。俺だって働いているから少しぐらいはあるよ」

「それならいいけど」

「母ちゃん、借金ないの?」

「借金?どうして…」

 浜やんが突然、借金のことを言い出したので母が戸惑っている。

「借金なんてないよ。そんな心配しなくても大丈夫だよ」

「いや、もしあったら、俺、全部ケリつけるからさ」

 一家は以前、広島に住んでいたのだが、父が船員だった頃、転勤で横浜に引っ越して来た。広島に住んでいた当時はお手伝いさんまで使っていた大きな家だったが、父が亡くなってからは経済的にも苦しかった。
 その上、長女は横浜に駐屯していた米軍の兵士と結婚し、アメリカに住んでいた。
一家の稼ぎ頭は長男の浜やんである。子供の頃から靴磨きをして家計を支えた浜やんは、船員になってからも家に金を入れ母を助けた。母は大家の畑仕事を手伝って、野菜や米を分けてもらい、細々と生活していたのである。
 納屋を改造した部屋で久しぶりに母とお茶を飲んでいると中学生の妹、幸恵が帰って来た。

「おう、幸恵。久しぶりだな。元気か」

「あら、いつ帰ったの?私は相変わらずよ。今度は何処へ行って来たの?」

「ん、東南アジアだ。いつもと同じ外航だよ」

 幸恵が母親を冷やかした。

「母ちゃんも嬉しいでしょ。可愛い可愛い、ご長男様に会えて…」

「おまえもだいぶ言うようになったな」

「だってほんとだもん。兄ちゃんが外航に出ている時は毎朝神棚にお参りしてるのよ」

 母が少し照れて、妹を制した。

「幸恵、そんなこと言わなくてもいいの」

「だってほんとだもん」

「俺も海の上で祈ってるんだぜ。幸恵のこととか、母ちゃんのことを…」

「アッハッハッ八、それは嘘だね。相変わらず調子のいいこと言って」

「ところでさぁ、今夜はあれ作ってくれねぇかな。母ちゃん特製の酢の物。久しぶりに食いてぇから」

「ああ、任しといて」

 浜やんは母が作る料理の中で、キュウリや山芋やわかめが沢山入った酢の物が大好きだった。
 母は早速釜戸に薪をくべ、夕食の支度を始めた。母は息子の為に畑から採って来たばかりの野菜を煮たり、ジャガイモの千切りをカレー粉でまぶした炒めたもの、そして自慢の酢の物など料理に腕を振るった。
 浜やんはこの夜、いつもとは違う特別な思いで、おふくろの味に舌づつみを打った。

 ―もしかしたら…これが最後になるかも知れねぇ。

続き > 第二十一章 待ってろマリ! 飛び道具リボルバーを密輸
―横浜港沖―

<前   次>

◆単行本(四六判)

◆amazon・電子書籍

◆作詞・作曲・歌っています。


参考文献

兼松佐知子(昭和62年)『閉じられた履歴書 新宿・性を売る女達の30年』朝日新聞社

木村聡(写真・文)(平成10年)『赤線跡を歩く 消えゆく夢の街を訪ねて』 自由国民社

木村聡(写真・文)(平成14年)『赤線跡を歩く 続・消えゆく夢の街を訪ねて2』自由国民社

澤地 久枝(昭和55年)『ぬくもりのある旅』文藝春秋

清水一行(平成8年)『赤線物語』 角川書店

新吉原女子保健組合(編)・関根弘(編)(昭和48年)『明るい谷間 赤線従業婦の手記 復刻版』土曜美術社

菅原幸助(昭和62年)『CHINA TOWN変貌する横浜中華街』株式会社洋泉社

『旅行の手帖(No・20)』(昭和30年5月号) 自由国民社

 ※近代庶民生活誌14 色街・遊郭(パート2)南 博  三一書房(平成5年6月)

名古屋市中村区制十五周年記念協賛会(編)(昭和28年)『中村区市』(名古屋市)中村区制十五周年記念協賛会

日本国有鉄道監修『時刻表(昭和30年)』日本交通公社

日本遊覧社(編)・渡辺豪(編) (昭和5年)『全国遊郭案内』日本遊覧社

広岡敬一(写真・文)(平成13年)『昭和色街美人帖』自由国民社

※戦後・性風俗年表(昭和20年~昭和33年)

毎日新聞出版平成史編集室(平成元年)『昭和史全記録』 毎日新聞社

松川二郎(昭和4年)『全国花街めぐり』誠文堂

森崎和江(平成28年)『からゆきさん 異国に売られた少女たち』朝日新聞出版

山崎朋子(平成20年)『サンダカン八番娼館』文藝春秋

吉見周子(昭和59年)『売娼の社会史』雄山閣出版

渡辺寛(昭和30年)『全国女性街ガイド』 季節風書店

大矢雅弘(平成30年)『「からゆきさん=海外売春婦」像を打ち消す〈https://webronza.asahi.com/national/articles/2018041300006.html〉令和2年12月14日アクセス 朝日新聞デジタル

※参考文献の他に物語の舞台となっている地などで、話を聞いた情報も入れています。取材にご協力いただいた皆様に感謝いたします。ありがとうございました。

よろしければサポートお願いします。