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“Less is More” 引き算の快感、足し算の罪悪感

NewsPicksでインフォグラフィック・エディターをされている櫻田潤さんのVoicy『「デザイン逃避行」ラジオ』。櫻田サロン公式noteではテキスト版としてお届けします。今回は第七回「引き算の快感、足し算の罪悪感(8月21日更新)」です。


足し算の権化、それはリモコン

こんばんは。デザイン逃避行ラジオの時間です。

突然なんですがこの前、快感を感じる瞬間をひとつ見つけました。それは何かといいますと、引き算が上手くいったときなんですよ。デザインの話なんですけど。


足し算からは得られないものが引き算から得られる
。そう思ったときがあったんですよね。“Less is More”という言葉がありますよね。「より少ないもので、より多くのことをもたらす」という意味合いで“Less is More”。これができたとき、できそうだなと見えたその瞬間に快感を感じるなと思ったんです。

足し算をしているときというのは安全圏の戦いなんですよね。盛っていく思考回路というのは、言ってみれば勝負を仕掛けているわけじゃないし、たいして創造的な行為じゃないなというふうに思います。

もちろん、既存のアイディアの掛け算によって新しいアイディアが生まれるっていうのはあるんですけど、それはあくまで“掛け算”なんですよね。

掛け算は創造的ではあるんだけど、足し算というのはどうもそういう感じがしないし、じつは掛け算以上に引き算の方が「勝負してる感」がある。

足し算は創造的じゃないと言い切っちゃうのもどうかとは思いますが、足し算のダメな権化がリモコンですよね。よく引き合いに出される。

機能の追加とともにボタンをどんどん増やしていく。これは足し算の世界ですよね。引き算の世界だと、ボタンの数をなんとか減らそうと。そして、減らしながらも同じ体験、もしくはそれ以上の体験を創ろうというような世界観ですよね。

減らすということでリスクをとるだけじゃなくて、減らしていない。じつは最終形に付加価値をつけるという。この「引くんだけど足す」という言語レベルでは矛盾全開なことを成し遂げてしまうので、創造的だなというふうに思います。

そんなことを思っていくうちに、これはわびさびの話に通ずるなと思ったんですよね。

わびさびとモダニズムにある引き算の世界観

ここからはね、わびさびの話に移っていきます。

僕も別にわびさびの概念に精通しているわけではないので、バイブルを読み直しました。僕の好きな本なんですけど、『わびさびを読み解く』という本、読んだことある人いるかなあ。

100ページ程度のすごく薄い本。緑色の表紙なんですが、この濃い緑がすごくいい。お茶感のある緑。

書いた人はレナード・コーレンさんですね。その人があるとき、日本で開かれた茶会に招待されて、そこで「わびさびを味わえる」と期待して行ったらしいんですよね。

そうしたら何のことはなく、ツルッとしたプラスチック(の器)、オフィスビルを感じさせるようなワールド、場所でがっかりしたという話から始まって、わびさびがいいんだよということを書いている本です。

この本は、わびさびを理解するためにモダニズムとの対比が行われています。モダニズムは大量生産で普遍的で、プロトタイプ的、未来志向

それに対してわびさびというのは一点物で、個人的、そして型破り。未来ではなくて、現在を志向するようなものとして扱われています。

体系化されたような大量生産できるモダニズムの世界と一点物の再現性が難しいわびさびの世界というもの。これを読んでいて、やっぱりアンディ・ウォーホルはすごいなと思いました。シルクスクリーンで量産という世界観と、あと一点物の……版画なので一点物ですよね、ある意味。その両立をアートに持ち込んだので、モダニズムとわびさびが混ざった感じ。浮世絵とかもそうですよね。

(ウォーホルが)“大量”生産か、というのは微妙ではあるんですけれども、考え方としては両方混ざったところがあっていいなと、あらためて思いました。

話を戻すと、このモダニズムとわびさびに共通するのは、どっちも引き算の世界観なんですよ。足し算じゃなくて。

この本の中でもモダニズムとわびさびの類似点として、どちらも「構造に不可欠ではない装飾は用いない」とあるんです。両方、引き算のものだというふうな意味合いで扱われていますね。アウトプットに機能性とかモジュール的なものを求めるのか、そうじゃない何かを求めるのかという違いはあるんですけど。引き算した結果ね。

Googleというのは極めてモダニズムで、一点物のかけらも感じないわけですよね。パーソナライズとかがあるので、わびさびがそこに表れるという気もするけど。Googleが作り出すパーソナライズというのは自然発生的なものではなく、テクノロジーでアルゴリズムが生み出すものなので、そこが深遠なものかというと、どうも僕はそういう感じがしないんですよね。

この「深遠さ」というワードを出しましたけど、わびさびの概念として「万物は、無に帰し、無から生じる」というのがあって、どんなものも朽ちていったり、忘れていったりして無に近づいていく。

その一方で、「無」という状態、何もない状態は、そこから何か生まれる、生じる可能性があるわけですよね。

そういったわびさびにおける「無」というのが、シンプルというものを紐解くヒントがあるような気がしているので、ここからちょっと「無」とシンプルという話に移っていこうかなというふうに思います。



「無」はシンプルか

シンプルというと、できるだけ少ない要素で何かを実現していくわけですよね。

じゃあ、どんどん要素を減らしていって、最終的に「無」になったら、それはシンプルなのかということが気になってきちゃって。

みなさんは「無」と聞いて、何をイメージしますかね。

僕は最初、真っ白な状態を思い浮かべたんですよ。
それで「あれ、なんか違う」と。

次に真っ暗な状態を思い浮かべたんですけど、それもね、「違う」と思った。白色とか黒色は、ある時点で「無」じゃないなと思ったんですね。

だから透明なのが「無」なのかなと思ったんですけど、その結果、「無」とシンプルは違うな、と思いました。透明は認識できないですよね。

シンプルかどうかを考えるときには、認識できることが必要だろう、と思っています。完全な「無」のことをシンプルというわけじゃないな、と。やっぱり、何かがなきゃ認識できない、何かがなきゃいけないんだなという。

たとえば、透明じゃなくて真っ暗な状態があって、そこに一筋の光が見えるような写真があったら、それはシンプルだと感じるかもしれないですよね。

だから完全な「無」というよりは、その微妙な前後にシンプルが存在するんじゃないかなというふうに思いました。

限りなく「無」に近づいている瞬間か、あるいは「無」から少しだけ何か生まれた段階でパッと止めた状態がシンプル。消えゆきそうで、そこから何か誕生しそうな、さじ加減がシンプルだな、というふうに思いました。

シンプルというときは退屈じゃないんだよね。微妙さは退屈じゃないから。

だからシンプルな図、シンプルなメッセージ、シンプルな文章というとき、減らすことだけを指しちゃうとやっぱりちょっと違って。何か生まれそうな感じというのも必要で、それがあることで退屈じゃなくなるということかな。

だから「これはシンプルです」と出して、それを退屈だと感じてしまったり、感じさせてしまったなら、それはなんかシンプルにはなっていないんだろうな、と。ただ減らして削りました、みたいなやつは。そういうのが大事かなと思います。

たとえばね、サッカーの試合を最近すごく観るようになったんですけど、そのなかで「シンプルなパスワークだな」と思うときがあるんです。

それは、ただパスを回していること以上の創造的なものを感じるときにシンプルなパスワークだなと思う。

パスを回しているだけなんだけど「点が取れそうだな」とふと思うときがあって、そういうときは何か生まれそうだから創造的だと思って退屈しないし、ただのパス回しじゃなくて、期待感があるときにいいと感じるんです。

自分たちの陣地の後ろの方でパス回ししてるのを見ても、別にシンプルなパスワークとは思わないわけですよね。それはゴールとかチャンスを予感させないから。だからやっぱシンプルというのは、退屈しない創造的な要素を孕んでいることを目指さなきゃいけないと思いました。

さっき紹介した『わびさびを読み解く』という本には、わびさびについて「深く多次元的で捉えどころのない」ということも出てくる。だから、シンプルというのは曖昧だと思っています。

今のサッカーの話でいうと、いいパスワークというのは曖昧なんですよね。次の展開が予想できちゃうんだけど、そうじゃないことが起こるという。予想できそうでできない。その曖昧さがあるなというふうなのも思いました。

シンプルに対する誤解というかね、僕もちょっと勘違いしていた節があるんです。「シンプル=明快」というイメージありますよね。シンプルなメッセージはクリアだという。

けれど、唯一の解が綺麗に提示されるからクリアかというと、そうじゃないと、このテーマを考えているうちに思いました。モダニズムにおけるシンプルというのはそうなんだと思う。パッと、明快という感じの世界観。

でも、わびさびにおけるシンプルを目指すと、明快というよりは色々な解釈を生むところに意義があるかな、という。その美しさ、醜さから引き出される・生まれる、というようなことも本には書いてありました。相対的なことが含まれているときに、モダニズムの世界のシンプル以上のところにいけるんだな、ということを思った。

それはダイバーシティとインクルージョンにも通じる話で、「概念だな、わびさびは」と思ったし、「今後どんどん大事になるから、わびさびを意識しないとな」とも思いました。でも、わびさびというのは体系化できないんですよね。なので、複雑だなというところでもあります。


■■■櫻田サロン、9月のオフ会テーマもシンプルでした■■■

足し算の罪悪感

今日、これ(Voicy)を収録してて悔しいことがありました。ずっと、10分前後というのを目指してきたんですけど、10分過ぎてました(14分35秒)。

この話、うまく話さなきゃなと思ったからかな。まあいいや。今後、コンパクトに話せるようになっていきます。

あと、最後に一個だけお伝えしますと、『わびさびを読み解く』という本の中に千利休の話が出てきます。

利休が亡くなった後に、弟子とかがわびさびを様式化、体系化していったんだそうなんですけど、もうそうなっちゃうとわびさびじゃないというのが出ています。ただのおしゃれに磨かれたものになっちゃうみたいです。

なんか、それわかるんですよね。フレームワークとか体系化は量産において必要だし、そのアルゴリズムを作るというのはもちろん大事なことなんだけども、そうじゃないところに究極の世界があるんだろうなと思った次第であります。

嫌だね、なんか長くなっちゃうとね。これ、もう足し算だね。引き算と足し算で言ったら。

…というちょっと、今日は罪悪感の中で終わります。

おやすみなさい。


※この記事はVoicy『櫻田潤の「デザイン逃避行」ラジオ』の「引き算の快感、足し算の罪悪感」の内容を書き起こし、加筆・修正を加えて編集したものです。






櫻田潤の「デザイン逃避行」ラジオ
(第七回まで配信中 ※2018年10月16日現在。随時更新)

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テキスト:國井麻美子
編集:石川遼
写真:池田実加


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