ふるさとの歴史 上越、糸魚川、妙高 3市の郷土史を歩く〈2〉番外編 縄文時代・古代編 糸魚川市、上越市、中郷区の遺跡 奴奈川姫長年研究・土田孝雄さん(82)語る 出雲政権が特別視 奴奈川の里 ヒスイは霊性の象徴

 糸魚川、上越両市のヒスイ文化を象徴する人物が、3世紀から4世紀ごろにこの地域を治めていたとされる奴奈川姫(ぬなかわひめ、ぬながわひめ)。奴奈川姫を長年研究している土田孝雄さん(82、糸魚川市一の宮3)は奴奈川姫と、ヒスイ加工を行っていた「奴奈川の里」が、古代のわが国において特別な意味を持っていたと語る。

 奴奈川姫は『古事記』の中で「高志(こし)の国の奴奈川姫」と記述される。出雲政権を治めていた大国主命(おおくにぬしのみこと)が奴奈川の里を訪れて求婚し二人は結婚。奴奈川の里は出雲政権の勢力下に入ることとなった。出雲政権の最大版図は信濃川流域までと推測され、上越地方は辺境の地。最高権力者がわざわざ訪れたことからも、特別視されていたことがうかがえる。

 土田さんは「御霊(みたま)の言葉があるように、ヒスイの玉は魂や命そのものだった」と話し、ヒスイが日本の霊性の象徴だったと指摘する。「奴」は美しい玉を指す言葉で、『古事記』における国産みに使われた天沼矛(あめのぬぼこ)はヒスイの飾りが付いていたとされる。ヒスイが産出し、加工の技術を持っていた奴奈川の里を勢力下に入れることは、政権の権威に大きな意味を持っていた。

 出雲政権の後に日本を治めた大和政権は、糸魚川に天津神社を置いた。天照大神の孫と直属の神を祭神とし、出雲勢力下だった奴奈川の里を、大和が治めるために特別な措置をしたと考えられるという。

 奴奈川姫は『古事記』の中で「賢し女(さかしめ)、麗し女(くわしめ)」と記述されている。土田さんによると、賢し、麗しと書かれる人物は非常に少なく、奴奈川姫個人も重要視されていたことが分かる。土田さんは「奴奈川姫はシャーマン的な存在だったのではないか。卑弥呼同様に治めていた女性が全国各地にいたと推測できる」と話す。

※本投稿は2019.02.28付「上越タイムス」に掲載した記事を投稿しています。文中に出てくる日付等は掲載当時のままです。あらかじめお含みおきください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?