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【明日はきっと晴れますように】第9章 雨上がり

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◆ 第9章 雨上がり

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 誰かが、わたしの腕をつかんだ。
 目の前に、一人の女の人がしゃがんでいた。高校生くらいに見えた。
 息を切らして傘を差しながら、まっすぐにこちらを見つめていた。

「大丈夫?」と訊かれた気がした。その声は震えているように感じた。
 わたしは無言でいることにした。
「立てる?」と訊かれた気がした。傘が一本差し出された。
 わたしは立ち上がらなかったし、傘も受け取らなかった。
 どうせわたしのことを責めてくるだろうし、雨に打たれて死にたいとかいうわたしの考えなんて理解しようともしないだろう、と思った。
 わたしはこのまま見捨ててほしかった。

 わたしが膝を抱えたまま動かないでいると、その人はわたしを抱き寄せるようにしてゆっくりと立ち上がらせた。
 わたしは戸惑った。拒もうとして、体がうまく動かないことに気がついた。それほどまでにわたしの体は冷え切っていたのだ。
「私がついてるから。行こう」
 女の人がわたしに言った。
 それは今まで誰もわたしに向けてこなかった、優しい声だった。
「……ごめんね」
 そうか。この人はきっと、〝交換日記〟の相手の人だ。顔も声も知らないはずなのに、理性ではないどこかがそう告げていた。
 気がつくと、わたしは目から大粒の雫をこぼしていた。
 わたしは心のどこかには死にたくない気持ちがあったんだと、このときようやく気がついた。
 差し伸べてくれるその手を、その声を、わたしはずっと待っていたんだ。
 この人には心を許してもいいかなって思えた。けれどわたしは、こみ上げる感情を表現できるほど体の自由はきかず、ぎこちなく頷くような仕草しかできなかった。

 その人はわたしの歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれた。
 わたしはその人の右肩に寄りかかった。
 彼女は左手で傘を差しながら、半身が濡れるのも構わずという様子で、右手でずっとわたしのことを温めてくれた。
 実際はその人のほうもすごく冷えていたからほとんど効果はなかったのだけれど、温めようとしてくれたその気持ちが嬉しかった。
 わたしがなぜあんなところにいたのかとか、橋の上で何をしていたのかとか、それらについてその人は何も訊いてこなかった。
 もしかしたら、すべて悟っていたのかもしれない。

 橋を抜けた頃、雨はさらに強くなってきているような気がした。
「ひとまず、安全な場所まで行くよ」と言うと、またわたしに合わせてゆっくりと、川から西方向へ歩みを進めた。

 坂道を上りながら、その人は話した。
「小さい頃から、私は疎外感とか劣等感を感じながら生きてきた」
 服はびしょびしょで靴の中もぐしょぐしょで、雨ってこんなに重かったっけな、と思った。体も熱っぽくなってきていて、余計にしんどかった。
 虚空に語りかけるかのように、その人は話を続けた。
「でも、じゃあ私は何が欲しかったんだろう」
 ぼうっとした頭で、学校に行っていた日のことを思い出してみる。
 みんなが楽しそうにしている中、わたしの心にだけ雨が降っているようで、今を生きるのがひたすら苦しかった。
「生きていればきっといいことがあるとか、つらいのはみんな同じとか、そうなんだけど、そうじゃないって思ってた」
 10年後に快晴の日が続くと言われても信じられなかった。雲の隙間から、ほんの少しでいいから、明日太陽が出てほしい。
「あのときの私はただ、自分の味方がほしかったんだと思う。あなたも、自分の味方とか理解者みたいな人がほしいんじゃないかな」
 ……ああ、そうだ。自分を許してくれる存在がほしかった。こんなわたしでも存在していいんだと言ってほしかった。
 わたしの言葉を、ずっと誰かに聞いてほしかったんだ。
「あなたは諦めなかった。よく生きてた。よくがんばった」
 そう言ってくれる人がいるのなら、わたしはもう少しだけ生きていけるかなって、そんな気がした。

 どのくらい時間をかけて歩いてきただろう。わたしたちは坂道を上り切っていた。
 あたりはもう真っ暗だった。雨はさらに強くなっていて、傘も効果がなくなってきている。足元は浅瀬みたいだった。
 ひとまず手近な建物の屋根の下に入ったけれど、とても雨を防げているとはいえない状況だった。
「私は日陰に生きてきた。自分のことを、ずっと日陰者だと思ってきた」
 わたしはしゃがみこんでいた。
 寒さで全身が震えていた。耳鳴りがした。けれど、この人の言葉だけは耳に入ってきた。
「しょせん私は日陰者にしかなれないんだって、諦めたことがあった」
 その人もしゃがんで、わたしに目線を合わせて話してくれた。
 わたしも目を見ようとした。けれど、もう焦点がうまく合わない。
「だけど、それでも諦められないと、それでも光が差すことを信じたいと、あなたはそう歌っていた」
 ──歌?
「日陰者なら日陰者なりに、ほんの少しでいいから前に進めばいい。大丈夫、私が見てるから。5年、いや、4年後、必ず私が見つけに行くから」
 ──よねん、ご?
 少し気にかかったけれど、わたしの体力はもう限界を迎えていたらしい。意識が薄くなってきた。
 わたしが倒れかかったところを、その人が支えてくれた。
「だからもう少し、生きててくれるかな」
 その言葉を遠くに聞いたのが、わたしの記憶の最後だった。

 それから先のことは、よく覚えていない。わたしは街の人に保護されて、病院に運ばれたらしかった。
 とにかく、わたしは生きていた。

   ○

 私は『あまやどり』に戻った。
 店のドアを閉めると、もう雨の音は聞こえなかった。
「朔乃さんには会えましたか?」
 いつもの「いらっしゃいませ」のような口調で、店員さんが訊いてきた。
「はい。私の思ったとおりでした」

 店内は温かかった。
 傘を軽く振って、水気を切る。同時に、あれだけずぶ濡れになった私の髪や服も、瞬く間に乾いていった。冷えていた体も、気がつけば温まっていた。

 初めて来たときからあまり現実感のない店だとは思ったけど、本当に不思議な店だった。
 いつ行っても変わらない店内。誰もいない店。
 そういえば初めて店に入ったとき、外が見えないのに店員さんは雨が降っているとわかっていたっけ。
 今回のことの顛末は、この人は最初からすべてわかっていたんじゃないかと思う。
 今だって、どこにも書かれていなかったはずのあの子の名前を知っていた。
 そして私は、この名前を聞いて驚くことはなかった。
 私も、彼女が「朔乃」という名前だということはわかっていた。名前だけじゃない。顔や声や背格好も、私はおおよそ知っていた。

〝交換日記〟の相手に会いに行きたい、と言った直後、カレンダーの日付が変わっていた。そこで時間が巻き戻されたのだ。
 私が日付を見ると、そこには「12月15日 木曜日」と書かれていた。
 1カ月前に戻ったのかと思ったのだけど、そうではなかった。
 ──それは5年前の日付だった。
 2011年12月15日、木曜日。
 あとで実際に確かめたのだけど、2011年3月1日から2012年2月28日までと、2016年3月1日から2017年2月28日までは、日付と曜日が一致している。
 2011年の12月15日は、2016年の12月15日と同じ、木曜日だ。

 日付と曜日を書いているだけではわからなかった。
 私は2016年から、彼女は2011年から〝交換日記〟を書いていた。
 2011年当時、彼女は13歳の中学1年生。私も13歳の中学1年生だった。
 2016年は、私は18歳で彼女も18歳のはずだ。
 つまり私と朔乃は、実際は同い年なのだ。

 テーブルの上に置かれていたコーヒーを飲んだ。
 まだ熱さは残っていた。だけど今は、たしかに味を感じる。濃く染み込んでくる苦みの中に、ほのかな酸味と甘み。すっきりとした後味が口の中に広がった。

「ごちそうさまです」とコーヒーカップをカウンターへ返すと、店員さんが言った。
「心にも雨は降るのです。空から降る雨と違い、傘で防ぐことができなければ、自然にやむこともありません。ですが、雫をそっと拭き取って、温めてあげることはできます。ふとしたことがきっかけで、その雨は上がるのです」
 たしかなぬくもりのある声だった。少しだけ、微笑んだように見えた。

 壁のカレンダーを見ると、日付は元に戻っていた。
 どうやら、すでにここは現在のようだ。
 私はスマートフォンを取り出して、2011年の洪水のニュースを調べてみた。
 あの大雨と洪水の影響で篠月橋は損壊、現在は撤去されているようだった。
 13歳の女子中学生が亡くなったことは、どこにも書かれていなかった。

「今までありがとうございました。『あまやどり』に来れてよかったです」
 私は店員さんに別れを告げると、鞄を持って店のドアを開けた。
 空には気持ちのよい青が広がっていた。

 鞄からヘッドフォンを取り出して、耳にあてる。
 私がヘッドフォンをつけたのは、まわりからの声から耳をふさぐためだった。
 12月のあの日、何もかもがどうでもよくなって諦めに似た清々しさを覚えると、まわりの声が気にならなくなった。だからあのときは、ヘッドフォンをつける必要がなくなっていた。
 しばらく私は、ヘッドフォンを手放すことはできないだろう。
 だけどこれは、もう耳栓の代わりなどではない。音に、声に、言葉に、耳を傾けるためのものだ。
 私も、諦めているだけでは前に進めない。前に進む勇気を、この両耳からもらうのだ。
 音楽を再生する。いつも聴いていた、あの人の声が耳に入ってくる。
 翳を彷徨う曲。光を手繰り寄せる歌。

 私の心の雨は、ようやく上がりそうだ。 

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