困惑ならぬ混惑

俺は、日本における混血(ハーフ)を、何か日本社会に足りないものを見出させてくれるような、明るい存在だとは捉えない。

他の国での「混血」の扱いについてはここでは語らない。この足元の列島に這い蹲る俺含めた人々への文章である。


(例によって末尾に欲しいものリストと投げ銭コーナーを置いたので、この混血に金を握らせても良いという方は是非よろしくお願いします)

後ろ側

直接的に抑圧してくる保守派や権力のことは言うまでもない。さて、ではそれ以外に混血を見守る価値観とは何だろうか。

俺は小学校以来、まさに社会や道徳の授業で学ぶ様な、教科書的な「多様性」を疑い、しかしそれに縋らざるを得ない様な生活を送ってきた。自分が知っている多様性と、教科書・役所的な多様性が異なっている中で、何を求められるだろうか?

人権という言葉の空々しさは、ツイッターで逆張している連中よりは遥かに知っている。そして、その空々しさ……大雨の中、布が全てボロボロになり骨組みだけになった傘のような建前に縋るしかない経験もした。何故、用をなさない物に縋らなければならないか。
医者、教師、宗教者、(自称)フェミニストなど、人を少なくとも普遍的にするはずの人々が実際には全くそうではなく保守派と大して変わらない(ある面ではもっと巧妙な意味で悪い)ことも数多く見てきた。

しかしここで言うべきは、単純にそれらの悪さや不見識、「りべらるなんてそんな物さ」と言った軽口ではない。

単に我々は

日本の社会には、困惑……気を利かせて造語すれば、混惑が足りない。生々しさ、混沌、見知らぬ物を始めて見た時の胸の高鳴りが薄められ、巧妙に排除されている。

先般、ツイッターでは、彼氏の箸の持ち方が汚い云々で振った女の話が流行り、大喜利状態になった。しかし、もしこの女(男でも良いが)が実在して、外国人の文化に触れる機会があったなら、嫌悪や軽蔑どころか全身から血を吹き出す事になるだろう。箸ではなく素手で飯を食うどころか、全く異なる文化を目の当たりにすることになる。

混血が、「ポリティカルコレクトネス」なる概念を体現していると思うなら、間違いである。フェミニズム始め男女論の使徒でもない。道徳の小話の登場人物の様に思慮深くない。社会に「貢献」もしない。むしろ、そう言った社会から「逸脱」した場所で(狭義の)「混血」は生まれてきた。それを、少なくとも俺は肯定する。そしてそれに唯一味方になってくれる骨組みの様な人権(つまり憲法に書かれている様な、「いきなり殺されない」程度の建前)も一応信頼する。だが、「りべらる」の人々はどうだろうか。本当にそれを知っているだろうか。


保守派が、冷笑して「多様性はそんな綺麗なものでないよ」と言う。そうだ、綺麗ではない。だが、それも、保守派や「りべらる」の意図を超えた所にある。綺麗でないから何なのか?狭義の「混血」は、ずっとその最前線で暮らしてきた。保守主義とも、また人々を締め上げる「禁欲的・単一的・清潔的」世界観とも対面してきた。これからも、我々は生々しくあれるだろうか。




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