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『リスク』の捉え方について考えてみる。

1. はじめに  

ニュースで米子松蔭高校の高校野球出場辞退を知り、これこそまさに「コロナ脳」と「事なかれ」の典型的な事例だなと思いました。
学校関係者1名に陽性の結果が出たため、監督や選手などの出場者の検査を行ったところ結果は陰性でしたが、証明書の発行が間に合わず、やむなく当日の試合開始直前で出場辞退になったとのことです。
「雨天」での中止や開始時間延期のような、「順延」措置が取れなかったのかと思います。本大会である「甲子園」や高校野球以外でも想定されうる事態なので、対応を注視しようと思います。

「コロナ脳」の人たちや「ただの風邪」の人たちを見てきて思うのは、『リスク』についての捉え方が違うのかなと思います。
そこで、『リスク』をどのように捉えるかを書いてみようと思います。長くなるかもしれませんが、読んでいただけるとうれしいです。

2.『リスク』の捉え方

「ノーリスク」や「ゼロリスク」であるには、「しない」ことです。それが起きることで重大かつ不可逆的な結果になってしまうなら、すべきではありません。「核戦争」が典型です。

ただ「何もしない」わけにはいけません。生きていくために人間は『リスク』をとってきました。「狩り」が典型です。
この場合『リスク』を「低減する」ことが重要になってきます。もっとも「低減する」には『コスト』がかかります。そのため、『リスク』として想定する「悪い結果」があるとしても、やる以上は『コスト』を払って「低減する」必要があります(「狩り」だと、身を守るための装備品を買って用意しておくことです)。『コスト』の中身は「お金」と「時間」です。

なお、そもそも「悪い結果」による不利益が「良い結果」による利益に見合っていなければ、費やす『コスト』を考えるとしないほうがよいです。
また「悪い結果」が重大かつ不可逆なら、どんなに「良い結果」があってもすべきではありません。

3.『責任』と『事なかれ』(※追記あり)

「低減する」ということは、一定の『リスク』を負ってでも『コスト』を払ってやることを意味します。
この一定の『リスク』を負うが『コスト』を払ってでもやると判断するのが『責任』です。

これに対して、やるべきなのは分かりきっているのに判断を先延ばしにしたり、判断すべき人が判断から逃げて『リスク』を負わなかったりすることを、『事なかれ』と言います。

一方、やると判断はしたが、『リスク』を「低減する」ための『コスト』を払わないことを、『無責任』と言います。
誤解しやすいのですが、『リスク』を受け入れることが『コスト』ではありません。『リスク』を「低減する」ための「時間」と「お金」を費やすのが『コスト』です。
『無責任』な人は、『リスク』を軽視して『リスク』を「低減する」ための『コスト』も払わずに、甘い言葉ばかり言います。『無責任』な人には、毅然と『リスク』に対する説明や対応を求める必要があります。

「ノーリスク」や「ゼロリスク」の思考に陥っている「コロナ脳」の人たちは、相手にすべきではありません。「リスクが少しでもあればやらない」では、生きていけないからです。この人たちの主張は『事なかれ』なものが多いと思います。

重症化する肺炎という『リスク』への想定が楽観的な「ただの風邪」の人たちも、相手にすべきではありません。集団免疫を獲得するには「感染」よりも「ワクチン接種」のほうが合理的です。この人たちの主張は『無責任』なものが多いと思います。

「ワクチン接種」は「ゼロリスク」ではありません。ただし、「感染」して障害が残っても補償金はありませんが、「ワクチン接種」によって障害が残ると補償金があります。過去の裁判例から強制にはできませんが、政府は「ワクチン接種」を原因とする死亡・障害には補償することを決めて『リスク』の判断をしています。

米子松蔭高校の高校野球出場辞退は、高野連が『責任』をとっていません。
高野連は、高校野球を開催することと高校の出場を認めることの『責任』を担うのが「仕事」です。
陰性結果が出ているのであれば、保健所の証明書を待つのに必要な時間を「順延」すべきでした。調整仕事が大変だ(『コスト』がかかる)と思いますが、それが『責任』を果たすことです。
国や大臣に言ってもらえないと判断を覆せないようでは『事なかれ』と言われても仕方ないと思います。『責任』のある「仕事」をしてほしいです。

※  7/19   19:00追記
出場辞退から一転し、米子松蔭高校と境高校の二回戦が行われることになりました。やはり本件は「順延」措置をとるのが適当だと思います。鳥取県高野連等の大人が『責任』をとってくれたと思います。
「甲子園」もあるので、高野連は今回の先例を元にぜひルールを改善してほしいです。「悪法も法なり」と本質を考えずに思考停止し、ルールを機械的に当てはめるだけでは、「仕事」として任されている『責任』を果たすことはできません。高野連は「公益財団法人」なので民主的な運営がされるべきであり、世論を踏まえて高野連で再検討(議論)し、判断を覆す決定を今回したのは妥当だと思います。
鳥取県知事も優秀な人物だと思います。政治の「仕事」は、スポーツに圧力をかけるのではなく、スポーツができる環境を整えることだという趣旨(決めるのは高野連としながら、余分にかかる開催費用等の支援を約束)の発言は、まさしくその通りだと私は思います。


4. オリンピックと緊急事態宣言

オリンピックのスタジアムにおける観客の有無についてですが、この問題も『リスク』をどのように捉えるかだと思います。
私は「ワクチン接種証明書」を条件に有観客にしてもよいと思います。
また、手の消毒やマスクの着用の義務付け、体温検査等の症状申告などの感染予防対策を徹底するのが条件です(違反者は退去命令し、従わなければ不退去罪で逮捕します。テロリストへの対応と同じです)。

感染予防対策がされた飲食店を、短時間、少人数で席分けして利用するのなら、外食してもよいと思います。飲酒の時間制限よりも、換気を重視した感染予防対策や「ワクチン接種」のほうが大事だと思います。

なぜ「緊急事態宣言」を出しながら、コロナ対応医療機関や宿泊施設のキャパシティを大きくしないのか不思議です。医療体制の不拡充という制度不備が、「危機感」に繋がらず、本気の対応がされているように見えない原因だと思います。
「貯蓄=収入-消費」であるため、「消費」を減らすことは大事ですが、「収入」も増やさないと「貯蓄」は劇的に増えません。
「緊急事態宣言」は人々の行動抑制ばかり求めて「消費」を減らそうとしますが、医療体制の拡充という「収入」も増やさなければ限界があります。「貯蓄」するのに疲れきってしまいます。切り詰めて「消費」するのが馬鹿馬鹿しく思うのも仕方ありません。

2021.9.26追記
この文章を書いた7月19日時点では、65歳以上のワクチン接種が優先され、65歳未満(特に20代、30代)のワクチン接種が全くできなかったため、「ワクチン接種証明書」の活用による規制緩和を考えていました。
ただ、各都道府県での感染状況に占める高齢者の割合を分析していると、ワクチン接種による「集団免疫」が一定可能ではないか(ゼロコロナにはならないが、感染者数をかなり抑えられる)と考え、8月25日のnoteの「つぶやき」を書いて以降は、全体接種率75%の達成を目処に人流抑制策とクラスター調査を完全撤廃する立場にたっています。
オリンピックという一イベントにおいて当時の接種状況を踏まえると「ワクチン接種証明書」を活用するのは賛成でしたが、ワクチン接種が進んでいる状況において社会経済生活全般での「ワクチン接種証明書」の活用(不利益取扱い)には私は消極的です。
医療体制は通常の「かぜ外来」のように、診療のハードルを下げる方向に進んだほうがよいと考えます。保健所が診断するのではなく、医師が診断する通常の医療体制に進んだほうがよいと思います。ただ、新型コロナの研究は今後も必要なため、医療機関から保健所に検査結果等を報告することで、国が医療費を全て負担するようにしたらよいと思います。

5. おわりに

『リスク』があることをするのには『責任』を伴います。『責任』はなるべく負いたくないので、他人任せにするのが普通です。そのため、普通は『責任』に見合った「仕事」を任されて報酬を得ている人(責任者)がいるので、その人が『責任』をとればよいです。
にもかかわらず、責任者が『責任』をとらないようなら、人事評価に響かせる(その報酬を得る仕事に就いているのが適当ではない)ため、批判すべきです。

何をもって『責任』をとっているか見分けるのは難しいですが、『事なかれ』や『無責任』ではないのは間違いありません。
『事なかれ』や『無責任』かどうかの見きわめは『リスク』をどのように捉えるかにかかっており、評価者には分析力が必要だと思います。
また、過大な『コスト』を払う必要はないので、責任者には説明能力が重要だと思います。

個人レベルの『リスク』の捉え方は「嫌われる勇気」の記事ですでに書きました。今回は社会レベルの『リスク』の捉え方を書いてみました。
長くなりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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