国語表現の授業〜提出物より③

作文 校則について

近頃テレビ、新聞、雑誌等で、中・高生にはつきものの〝校則“について、さまざまな意見が報道されている。テレビなどで取り上げられるものは、とても校則とは思えないようなものが多い。個人が考えて決定すればよいものなども、校則によって拘束されていたりする。

“今の若者には個性が少ない“などと世間で言われることがある。でも、毎日の生活をさまざまな校則によって縛られてきた若者が、学校生活の過程を過ぎて社会に出た時に、どれだけの個性を身につけているのだろう。今まで型にはまった、回りの学生達と同じことをしていたのに、社会に出た途端にその型は取り去られてしまう。そうなると、社会に出るまでの間にしっかりと自分自身の個性を持っていなくてはいけなくなる。

しかし、個性を身に付ける為に校則がいらないというわけではない。学校というのは集団生活である。集団生活に規則はなくてはならないものである。だが決して、個人の自由までも縛るようなものであってはいけない。
だからやはり〝規則“=〝校則“は、ある程度なくてはいけないのだ。けれども、時代の流れとともに、生徒や親、そして先生方の考え方も変わってくるのだから三、四十年前に決めたものを、そっくりそのまま守らせていたり、個人の考え方まで変えてしまうような校則はあってはならないと思う。

 私は校則は必要だと思う。ただし、生徒、親、教師が一緒になって作り上げたものでないと、意味のない、ただの文章にすぎない。
学校側、教師側からの一方的な校則を作って、生徒に守らせるのではなく、教師・親・生徒が、どうしてこの校則が必要なのかを一緒になって作り上げたものが、本当の校則であると私は思う。

先生の評価 A

コレには更に詳しい評価が付いていなかった。
特に訂正も入っていないので、そのままの評価を信じることとする。


最近のニュースでも、ツーブロックの髪型が良いとかダメとか、流れていたところだが、何十年経っても、変わらないものは変わらないんだな…
作文は、平成に変わる直前の昭和の話だ。


中学も高校も、「地毛証明書」というものを提出させられた。
自分はどちらかというと天パで、栗色なのだ。
全くの天然なのだが、光の加減で、まるでカラーリングしているように、髪が透けて見えるのだ。
なので、親に
「この子は生まれながらにして
   天パで栗毛色の子なんです!」
と書いてもらって、ハンコまで押していた。
なんとも情けない証明書だ。
更に幼少期の写真まで見せた覚えがある。
本当に小さい頃から栗毛だったかどうかを見せるために。
(幼稚園児の時はもっと栗毛なのだが…)


今だにこんな事をしているのかと思うと、
日本はなんだか変わってないなぁ…と
もっとチカラを入れるところはあるんじゃないのかなぁと思うのである。
もう令和だしさ、髪の色なんて良いんじゃない?