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第十一話 画廊とのつきあい

K`sギャラリーの個展の翌年は、浅草橋にあったギャラリーURANOで個展をすることが決まっていた。
その翌年はまたK`sギャラリーと順番に企画してもらうことが約束だった。
美術年鑑社のHさんにずいぶんと骨を折っていただいたのだ。
しかし、画廊との付き合い方を知らない私はとんでもないミスを犯した。

無名の私の個展を企画し、期待の新人として美術雑誌「美術の窓」に掲載してもくれたK`sギャラリーのMさんのご厚意を裏切ってしまった。
この後8年間ギャラリーURANOで毎年個展を開くことにした経緯はここには書かないけれども、Mさんには大変ご迷惑をおかけした。

ウラノさんは日本橋三越の美術画廊担当の社員をやめてギャラリーURANOを起ち上げたと聞いている。
デパートの美術画廊で培ったと思われる画家との繋がりから日展の重鎮が個展を開いたり、自分の土壌とは全く違う画家たちの集いに触れて気持ちが膨らんだ。
ウラノさんは版画家も大事にしていたし抽象画もよく観ていた。
海外の物故作家の絵画を所蔵しており、携帯の画像を見せてくれたりした。
眼が腐るから悪い絵を見てはいけないと言われた。
私はウラノさんの絵を観る力を言葉の端々から感じ取った。

個展の会期は暮れの押し迫った12月と決まっている。
自分の絵の暗い色調がこの季節に合っていた。
ギャラリー入り口の両脇には冬の椿が植えられていて、日の短い夕暮れにはショーウィンドウの絵に明かりが灯り美しく見えた。
賑わいのある銀座とは違い、絵を見に行く目的を持つヒトだけが
やってきてくれる。一日数人という時もある。
画廊の顧客(絵のコレクターと言われる人たち)と画廊に縁のある絵描きたち、と私自身の知人や春陽会の会員会友にせっせとDMを送ったが来廊者は
少なかった。
見に来てくれる人の少なさに耐えて個展を開くことが、美徳でもあるかのように「待ちの営業スタイル」とウラノさんは言っていた。
現在のようにSNSがあるわけではなく、さもありなんと思ったが、決して「待っていて」はいけないのだ、画廊も、そして私も。今ならそう言える。
ただ、少ない訪問者のなかから絵が売れるのは本当に嬉しかった。反対に売れないといたたまれなくなる。

神田川が隅田川にそそぐあたりの柳橋界隈は昔の花街で情緒があった。
冬の乾いた寒さと拠り所のない心境が合わさって、飽かず川を眺めたり、下町の食堂へ入ったり、また、老舗の人形店があって干支の置物を購入したりした。
私はこの場所で個展を開くの楽しみであった。

だが、永遠と言うものはない。個展を毎年続けるということは大変な仕事量だ。当時は春陽会に所属しており、毎年春に行われる春陽展に出品し、この公募展の審査出席のために三泊四日の時間を割いた。
一年のうちの大部分は保険の営業をして糊口をしのぎ、きりきり舞いしながら売り上げのノルマをつくり、金融関連の試験の勉強をし、搬入日に追われて絵を描く何年かが流れた。
絵が痩せてくるのがわかった。もう潮時と思った。
そしてウラノさんの事情もあり、画廊は閉廊になった。
個展はしばらく休もうと決めた。

ウラノさんの画廊で出会った田鶴濵洋一郎さん、平塚良一さんらが現在もたゆまず制作を続けて独自の世界を広げている様子を励みとしている私に、ギャラリーURANOはかけがえのないの場の記憶になった。

※「第九話 禍福は糾える縄の如し」に遡っていただければ有り難いです。

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