秋会期の女木島でバイトした時の回想

 芸術祭のことなんて全く知らなかった。
 その代わり、初めてそれを知った時のことははっきり覚えている。平日昼間のお好み焼き屋で、注文した豚玉を待っていた時のことである。暇つぶしにX(当時はまだツイッターと呼ばれていた)を覗くと、高松市にある某予約制古本屋の店主のつぶやきが目に留まった。曰く、瀬戸内国際芸術祭のスタッフ募集。店主とは一応の面識があったので、私はただちに連絡を試みた。どうしていち古本屋の店主が芸術祭の求人をしているのか?という疑問は後回しになった。そんなことよりも私はひどく退屈していて、そこへ行けば何か面白いことが起こるんじゃないかと期待したのである。
 国際芸術祭という言葉の響きには、私のような精神的田舎者をビビらせる迫力があった。私は芸術に関する専門的な知識を持っていたわけでもなく、そもそも興味があるわけでもなかった。もちろん文化資本にも乏しかった。大竹伸朗も草間彌生も知らなかったし、ジャクソン・ポロックとピカソの区別がつくかどうかも怪しかった。学生時代の美術の成績は惨憺たる有様だった。そういう人種が手を挙げるには、いささか身の程知らずなのではないか、と頼まれもしないのに先回りして考えたりもした。そういうことをいちいち考えるのは採用する側なのだから、これは私の悪い癖である。けれどもその言葉の迫力とは裏腹に、採用は腰を抜かすほどあっさりと決まった。まず採用が決定され、そのあとに履歴書を提出する、というくらいにはあっさりしていた。そのあまりのあっさりさには、ひょっとしたら何か見落とした募集要項があったのではないだろうかと、むしろ採用が決まってからの方が不安になるほどであった。
 しかしそれも、具体的な職務内容を聞くまでのことである。私に任されるポジションは作品の販売係であった。早い話、土産物屋のレジ打ちである。芸術祭に招聘された作家たちが自らの展示にまつわる小物や著作などを用意し、それを会場の一画でまとめて販売するわけである。前職も似たような仕事だったから、現地で何をするのかは概ね見当がついた。レジの前に座る。客が来たら包装して代金と引き換える。店頭在庫と売り上げを管理する。気が向いたら「あざます」的なことを言う。これといって難しいことはない。接客の経験はありますか?と先方は問う。(不本意ながら)あります、と私は答える。
 瀬戸内国際芸術祭はおよそ半年間にも渡る長丁場である。途中いくらかの休止区間を挟んで、春、夏、秋と三つの会期がある。その年、季節はすでに夏の盛りで、夏会期もすでに終わりを迎えようとしていた。それから担当者と何度か電子メールのやり取りを重ね、私の就労期間は九月の終わりから十一月の頭までと決まった。それは丁度、次に控える秋会期の全日程に相当していた。勤務地は女木島という、まったく聞いたことのない名前の島である。少なくとも、義務教育で教わるような地名ではない。しかしそれが瀬戸内海に点在する、地図を拡大しなければ名前の表示されないような、無数の小さな島の一つであろうことは推測できた。瀬戸内を冠した芸術祭なのだから、勤務地が瀬戸内になるのは当たり前のことだ。生野区役所が大阪市生野区に存在しているのと同じ理屈である。
 会期中は自宅を離れ、島に泊まり込みで暮らすわけであるが、まぁそれは仕方がない。端的に言えば、ちょっと変わったリゾートバイトのようなものである。とはいえ、普段はリゾバなんか見向きもしない。利尻島に行こうが石垣島に行こうが、どうせやることは単純労働なのだ。くたくたに消耗し、その代償としていくばくかの金銭を得る。もっとも、世の中の大半はそういう単純労働で成り立っていて、私もその恩恵を被っている。だから、単純労働もそれに携わる人間も、下に見るつもりは毫もない。ただ、どうも自ら進んでやる気になれないだけなのだ。まったく、非才の身でありながらかような自意識を抱えているものだから、生きるのに余計な苦労をしてしまう。
 しかしこれが芸術祭での仕事と聞くと、途端に資本主義的予定調和が鳴りを潜めるから不思議である。それは近所のファミマでレジを打つ仕事とは、根本的に何かが異なっているように思える。おそらく、私が芸術祭の成り立ちについてまるで無知であったことがその原因だろう。無知であったからこそ、芸術祭という未知の、そして得体のしれない場が魅力的に思え、そこに何か自分の予測を超えた思いもよらない出来事を、ついつい期待してしまうのである。もっとも、そこには同時に自分の予測を超えた不快や落胆の可能性も存在しているわけだが、まあそれは陰と陽、光と影、硬貨の表と裏のようなものだから、いちいち心配していても仕方がない。

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 女木島は、高松の港からフェリーで二十分ほどの距離に位置する。フェリーの名前はめおん号といって、淡いクリーム色の船体に鮮やかな赤のストライプという派手な出で立ちである。島の人口は公式ではおよそ百五十人程度ということだが、地元の方の話では、実際には百名前後までその数を落としてるそうだ。1930年代に人工の巨大な洞窟が発見されたことから鬼ヶ島の別名でも知られ、現在は島の貴重な観光資源になっている。集落は中央の山を挟んで二か所あり、私が過ごしたのはフェリーの発着する港周辺に分布する側の集落である。この集落は一時間もあれば歩いて見て回れる程度の規模だが、見どころは結構ある。例えば、海に面した家屋の周囲には、オーテと呼ばれる異常に背の高い石垣が積みあがっている。かつては防波や防風の役割を果たしていたそうだが、建物の近代化や護岸工事の整備により、現在は女木島を特徴づける景観として、観光資源の役割の方が強い。
 港を出て浜辺を散策すると、防波堤に無数のカモメが等間隔にじっと並んでいるのが見える。鳥の分際でいささかお行儀が良すぎるのではないか、と思って目を凝らすと、それらは実は作り物であることがわかる。過去の芸術祭で女木島に逗留した作家の作品で、現在では常設の展示品となっている。その数、実に二百羽。これらも作品である以上、定期的に一つ一つメンテナンスしているというのだから驚きである。この作り物の、動かないカモメたちを毎日まいにち目にしていたせいか、動いているカモメや海鳥を浜で目にした記憶がさっぱり残っていない。
 ただ、例外的にトンビのことはよく覚えている。トンビというのは、私の暮らす大阪市生野区の今里筋沿いではちっとも見ない。近所のどぶ川には毎朝得体のしれない鳥たちがたくさん羽を休めているが、その中にトンビはいないようである。なぜ鳥の名前に詳しくない私にそれがわかるのかというと、トンビというものは実にトンビらしく鳴く、ということを私がこの島で知ったからである。トンビがトンビらしく鳴くのはトンビなんだから当たり前じゃないかウグイスじゃあるまいし、とあなたは思うかもしれない。それは確かにそうなのだが、実体験はしばしば一般論に勝るというか、それでも初めて耳にするトンビの鳴き声には衝撃を受けた。私が朝、フェリーを出迎えるために港まで歩いていると、頭上をトンビが旋回しながら「ぴーぃぃぃ⤴⤴ひょろろろろ~」と笛のように甲高い声で鳴く。その瞬間、気分はもうパナマ帽にサングラスにアロハシャツにハーフパンツにビーチサンダルのバカンスモードになってしまう。一応はこれから労働だというのに、気を引き締めるどころか肩の力が抜ける一方である。口元は「へへへ」という形に半開きになり、新NISAも少子高齢化もスタグフレーションも知ったことか、という気分になってくる。そういう非常に感染率の高いテイク・イット・イージー感が、この鳴き声からはひしひしと伝わってくるのである。将来うつ病を患った暁には、ぜひとも女木島にトンビの鳴き声を聞きに来ようと思う。
 そういえば、港にはモアイ像も立っている。嘘をつくな、話を盛るな、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、これはマジバナである。もし私が島の観光コンサルだったら、鬼ヶ島でいくのかイースター島でいくのか、島おこしの方針としてはっきりさせたほうがいいんじゃないですか、とささやかな提言を行うところであるが、残念ながら私はコンサルではなくただのパンピーなのだから仕方がない。もうすでにどちらもある以上、今更片方を撤去するわけにもいかないのだろう。
 こうして文字にすると、モアイの存在というのは実に突拍子もないことのように思われるのだが、しかし実際に現地で目にすると、不思議と誰もその存在を疑問に思わないらしい。というのも、私は職務の一環として、毎朝港から職場まで道案内のようなことをしていたのだが、その際一度もモアイ像についての質問を来島者から受けたことがなかったからである。そういえば、私も散々目にしたにもかかわらず、一度たりともその存在理由を考えたことがなかった。良い機会なので、これを書くついでにweb上で調べてみようと思い、実際に調べてみた。しかし驚くべきことに、ブラウザを閉じた瞬間にその理由を忘れてしまった。あるいはあのモアイ像には、鬼ヶ島大洞窟に潜む鬼たちがライバルを蹴落とすため、存在感が極めて薄くなる呪いをかけてあるのかもしれない。まあ真相の方は分からない。単に私の記憶力が悪いだけなのかもしれない。しかし仮にそう考えると結構気の毒なので、ここに書き留めておくことにする。イースター島までモアイを見に行くのは結構距離的に骨だけど、高松市女木島ならぐっと気軽に行けると思うので、本邦在住のモアイ愛好家の方々はぜひ検討してみて下さい。
 最も頻繁に利用したのは、港から海岸線に沿って伸びる道である。メインストリート、とはとても呼べないけれど、広くて歩きやすく、浜からの景観も良い。周囲には神社や、住人公認の猫の溜まり場や、偉人の石像なんかもある。民社党初代総裁、西尾末広氏ということである。私はそのことを、島の郷土史を研究されている方から伺った。出身は島外らしいが、島での生活はもうずいぶん長いようで、今やすっかり島の有識者、といった印象を受けた。知性は感じられるが、学者然としたとっつきにくさはなく、物腰はあくまで柔らかい。そして西尾氏にまつわるエピソードやら、島の植生やら歴史やら、流石にいろんなことに詳しい。その方とは毎朝港で顔を合わせたので、良く挨拶をした。お互いにフェリーを待っているわけだが、私が降りてくる乗客を待っているのに対して、その方はフェリーの積んでくる新聞を待っていた。といっても、読むためではなく配るためである。フェリーが接岸するや否や、いの一番に船員からビニール袋に入った新聞の束を受け取り、それを原付の前カゴに放り込んで颯爽と走り去っていく。やっていることはただの新聞配達なのだが、その姿は私の目にはなんだかすごく生き生きとして映る。
 その道をさらに歩くと松林のキャンプ場が現れる。島に渡ったばかりの頃はまだ残暑がずいぶんと残っていたのだが、寒いよりは暑い方がまだキャンパーとしては都合が良いらしく、週末になると数組の利用者を見かけた。彼らが乗りつけた車を見て、「結構小金持ちが多いみたいだね~」と同僚の方が意見を述べる。私は本邦出身の成人男性という身分でありながら、乗用車に対する解像度が著しく低い。道路を走っている乗用車はだいたいどれも同じに見えるし、具体的な車種なんて何一つ分からない。せいぜいうすらでかい車か税金の安そうな車、あるいは助手席にハンドルが付いている欠陥車、くらいの区別しかない。その上で尚よく見てみると、停まっている車は概ね前者であった。うすらでかい車は小さい車より値段が高いことくらいは流石に私にだって分かるし、ホームセンターの隅っこに並んでいるキャンプ用品には思わず後ずさりするような値段がついているし、そもそも私のような貧乏人は自分がいつ街中や公園で強制的にキャンプをさせられる羽目になるか内心怯えて暮らしているから、わざわざ休みの日にあえて外で不便を楽しむという発想が湧いてこない。とすると、やはり同僚氏の推察はある程度的を射ているのだろう。そういえば、島内にはいくつか別荘もあるようだし、金持ち連中の間では密かに名を知られた島なのかもしれない。
 キャンプ場の正面は海水浴場になっている。もっとも、私が訪れた時にはとうに海水浴のシーズンは過ぎていたので、見かけはただのさっぱりした砂浜である。これも昔民宿をやっていた地元の方から聞いたところによると、最盛期にはひと夏で一年分の稼ぎを得られるくらいには栄えたそうである。付近にはその頃の名残と思しき、廃業した旅館や民宿の空き家がちらほらと残っている。もちろん全てが滅んでしまったわけではなくて、現在でも数件の宿が営業を続けている。あなたがめおん号のデッキから女木島の海岸沿いを眺める機会があれば、砂浜にいくらか軒を連ねるそれら宿屋やら民宿やらの姿を、インスタ映えする構図で眺めることもできる。

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 私が寝泊りした寿荘も、そういったかつての宿泊所を改装した施設である。寿荘という名前は、建物がまだ現役だった時代のものをそのまま流用しているそうだ。浜辺に建っているためロケーションは良いが、正直に言って外観はあまりぱっとしない。没個性的で記憶に残りにくい、うらぶれた箱型の建物である。もっとも私だって外観は全然ぱっとしないから、その辺のところはお互い様である。
 内部は広くて部屋数も多い。少し変わった構造をしており、一階の一部が土間かつ吹き抜けになっている。そこから一本の若木が空を撃っていて、その木を取り巻くように、「回」の字型に部屋が連なる。それらを改装し、寝泊り用の部屋として利用しているわけである。台所や便所などは共用だが、生活に必要な設備はWi-Fiも含めて一通りそろっている。金だらいで洗濯したり、薪で風呂を焚いたりしなくて良いのはありがたい。おまけに利用料はただなので、(多少古くて埃っぽくて建付けが悪くて虫がたくさん湧いて夜中にトイレに行くのが不気味であっても)文句を言うわけにはいかない。
 その場所で、古本屋店主ルートで集められた幾人かの同僚の他、女木島の展示を受け持つ作家の一部が共同生活を送るわけである。顔ぶれは会期中に何度も入れ替わり、頭数も一定ではなかった。よって、暮らしは日によって賑やかになったり静かになったりした。同僚の方は女性が多く、芸術家の方は男性が多かった。私は芸術を生業にしている人間とお近づきになるのは初めての体験だった。私にとって、芸術とは得体のしれない対象であり、自らの理解を超えたものであった。だから、そこには自然と畏怖の念のようなものがあったし、それを作り出すことのできる人間においても、概ね似たような印象を抱いていた。私と彼らとの間には一本のはっきりした、だけど超え方の分からない線が引いてあって、彼らはその向こう側にいるのである。私は芸術家を志しているわけではなかったが、せっかくの機会なので、芸術家を芸術家たらしめている要因、言い換えれば、彼らが特別な存在である要因がいったい那辺にあるのかを、興味半分に観察しようと試みた。
 しかしもちろん、そんなことは簡単には分からなかった。そもそも他人を観察するという行為に私があまり向いていないということもあったし、熱心に見ていさえすればその内相手のおでこにその答えが浮かび上がってくる、というようなものでもなかった。おまけにそこで出会った芸術家たちは、別に凡人を下に見ることもなく、意味不明なこだわりも気難しさも見られなかった。むしろ付き合いやすい、感じの良い人たちばかりであった。私が彼らに迷惑をかけたことはあったかもしれないが、彼らから不快な思いをさせられたことは一度もなかった。そしてこれは徐々に判明していったことなのだが、彼らは自分のことを別段特別だとは思っていないようだった。だから途中からは、すっかりそんなことも忘れてしまった。
 ただし、彼らの感性や経験に裏打ちされた話については、聞いていて本当に面白かった。私には逆立ちしたって、あのような聞いている人間を思わず唸らせる話はできない。一度、共用の台所でさる高名なディレクターの方が麻婆豆腐を作っていた折、同じ場所で湯が沸くのを待っていた私がふと思ったことを質問をしたら、金を払ってトークイベント的なところへ出向かないと到底聞けないような話をその場でしてもらって、えらく恐縮した覚えがある。ほとんど何の知識もない私でさえ恐れ入るのだから、少しでも芸術に興味のある人からすれば、その芸術家たちとの距離感の近さ、フランクさには、親しみを通り越して困惑さえしてしまうかもしれない。例えばあなたがオールドロックの愛好家だったとして、台所でどん兵衛に湯を入れているエルヴィスやジミヘンに出くわしたらどうだろうか?「良かったら牛乳でも飲む?」とか気さくに言われたらどうだろうか?私だったら挙動不審に陥ってとても労働どころではなかったと思うので、無教養もこういう時には役に立つ。

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 さて、寿荘はただの宿舎ではなく、作品の展示場も兼ねている。それも、「女木島名店街」というスローガンを掲げ、館内にたくさんの展示がまとまっていたから、女木島を巡るにあたっては外せないスポットである。芸術にあまり興味のない方であっても、そこでは卓球を楽しんだり、いくつかのワークショップに参加したり、カフェやら美容院やら、もしその必要があればコインランドリーまでもを利用することができる。それらは営利目的の施設ではなく、すべてれっきとした作品の一部である。コンセプトとして、地元住民のために普段使いできる店的な要素が含まれているのだ。それらの体験を一か所の入場料でまとめて味わえるのだから、女木島を訪れて寿荘を訪れないというのは画竜点睛を欠くというか、金箔をはがしてしまった金閣寺というか、「lifetime respect」の入っていないbest of 三木道三みたいなものだと思うので、次回の芸術祭で女木島を訪れる方はぜひお立ち寄られることをお勧めする。
 そのほか土産物屋や軽食を売る店など併設されており、前者が私の職場である。自室からは階段を下りるだけなので、通勤時間は三十秒。これは歴代の通勤距離の中でもぶっちぎりでトップの短さで、今後も不動の一位を守り続けるものと思われる。そこで(似合わない)エプロン姿を披露しつつ、売り場に立つわけである。売り場は半円形のカウンター周辺に商品を並べた、プラットホーム上のキオスクを少し広げたくらいの空間である。客への掛け声は「いらっしゃいませ」ではなく「こんにちは」である。「こんにちは」というのは、あまり資本主義資本主義していなくてよい。気付けば客以外にも、道行く知らない人なんかにも積極的にこんにちはと声をかけていた。誰かにそう言えと指示されたわけではないのだが、そこにいる間は自然とそのように振舞っていた。芸術祭の雰囲気がそうさせるのかもしれない。大阪にいるときはマンションのエレベーターで誰かと鉢合わせしてもお互いろくに挨拶もしないけれど、そこでは見知らぬ相手に自分からガンガン声をかけられるのだから、環境が人に及ぼす影響力には恐れ入るばかりである。
 売り場の正面には館内受付があって、寿荘を訪れた来客はまずそこで入館手続きを済ませることになる。共通パスを持っている者はそれを提示し、持っていない者は当日券を購入する。先述した職場での配置上、私はしばしばこの受付業務も手伝った。手続きだけならすぐに終わるのだが、それに加えて館内の案内や見学上の諸注意を説明しようとすると、途端に時間を喰うのである。おまけに、フェリーが島に到着するタイミングで島内の観光客が入れ替わるから、来客の波がわりに極端である。空いている時は空いているのだが、混み合うときはやたらと混み合う。そういう時、私にだってまだ多少の良心は残っているから、頬杖をついてぼーっと眼前の混雑に我関せずを貫くわけにもいかない。もっともそういう時に限って、どこかランチやってるところないですか?とか、ベビーカー預かってくれませんか?とか、トイレどこですか?とか、写真撮ってくれませんか?とか、そのエプロンどこで売ってるんですか?などといった質問や依頼で手を取られてしまうことも多い。私なんてエプロンのせいでひと目で係員だと分かるから、猶更たくさん声をかけられる。まぁ来客が多いのだから比例して声をかけられる機会が増えるのも当たり前なのだが、団体でツアーをやってるわけじゃないんだから、もう少し分散して島を回ってくれればいいのにと内心では思ってしまう。
 でも、毎日が毎日盛況というわけではない。平日なんかは結構暇を持て余すというか、静かで落ち着いた一日も少なくない。時間の流れは緩やかではあるものの、それは工場での単純労働の最中に、五分おきに腕時計を確認してうんざりするあの感じとは異なっている。お客さんの姿はなく、受付周辺はひっそりとしている。からくりの鍛冶屋が鉄を叩くチン、という乾いた音と、鬼ヶ島ぴかぴかセンター!という子供のイノセントな音声がマントラのようにリフレインするのみである。もちろんそれらは退屈さによってもたらされた私の幻聴などではなく、展示作品のギミックが生み出す音である。そんな音や静けさにぼんやりと耳を傾けていると、自分だって労働の最中なのに、きっと今頃みんなどこかの街角で一生懸命働いているんだろうな、などといった感慨を覚えてしみじみする。そして自分が人口百人ほどの、それまで全然馴染みのなかった離島に、たまたま何食わぬ顔で存在していることを改めて思い出す。これについては特にしみじみはしないが、ちょっと不思議な気分にはなる。
 時々は暇潰しがてら、台所へ行ってこっそりコーヒーを淹れて飲んだり、日報の自由記述欄にしょうむない戯言を書き込んだりする。日報は春夏会期と兼用で、頁を遡れば過去に同じ場所で働いていた人たちの記録が残っていたから、それらも拝見する。概ね若い方が多いようである。ひとつの傾向として、ずいぶんと商品の売り上げに拘っていたようだ。そりゃ私だって販売員の端くれなのだから売れないよりは売れた方が良いとは思うが、しかしその日の数字に一喜一憂するほど拘っているわけでは全くない。売り場に立つからには常に責任を持って全力と最善を尽くす、ということなのだろうか?殊勝な心掛けだとは思うが、でもそれって年収二千万円とか取っている人のマインドセットでは?と一方で思ったりもして、心が片付かない。ひょっとしたら、春夏会期に限っては時給が十倍とかだったのであろうか。なんにせよ、それが平成生まれの若人たちの平均的な思考回路なのかと思うと、自らを省みて冷や汗がにじむ思いである。
 売り場に並ぶ商品は全て作家たちが手がけたもので、文鎮やスリッパなど普段使いできそうなものから、巧の技が光るガラス細工、はたまた凡俗には理解不能な珍品まで多種多様である。もちろん、「私の如き凡俗には理解の及ばぬ逸品でございます」ではセールストークにならないので、マニュアルをめくりながら一つ一つ商品の詳細を覚えていく。「これですか?これはお土産の記念コインですね。ほら、昔水族館とかに行ったら金ぴかのご当地メダルが専用の自販機で売っていたでしょう?五百円くらいで。今でも売ってるのかな?とにかく、あれですよ。あれ。まあこれは金ぴかではないですけどね。その代わり鉄製ですから、どっしりしてますよね。重厚感があります。お金と間違えてうどん屋のレジで恥をかくこともありません。えっ、なんでデザインが蛸なのかって?そりゃお客さん、島の特産品だからですよ。女木島ではいい蛸が捕れるんです。女木島のお土産なんだから、女木島らしさをプッシュしているわけですね。ディズニーランドのお土産にはミッキーマウスがデザインされていますでしょう?それと同じことです。まぁディズニーランドでミッキーマウスを狩ろうとしたら捕まりますけどね。そんなことよりほら、後ろを見てください。奥の部屋が工房になってるでしょう?あそこで作家が一つ一つ作ってるんです。ハンドメイドですよ、ハ・ン・ド・メ・イ・ド。いや、嘘じゃないですよ。ほんとですよ。ほら、よく見てください。細かいところがちょっとずつ違うでしょう?これが証拠ですよ。縁日のたこ焼きみたいにほいほいと作ってるんじゃないんです。だから貴重な逸品ですよ。今あるうちに買っておかないと、後で枕を濡らすことになるかもしれません」
 みたいな口上はもちろん尺が長すぎて使えないが、まぁ拙いながらでも一生懸命説明すれば、手に取ってくれるお客さんは多い。名の知れた作家が自ら企画、デザインした品々であるから、お値段としてはそれなりである。しかし芸術祭にわざわざ足を運んでまでコスパがどうこうのたまう輩はKYというものであろう。だったらはじめから最寄りの快活クラブで『ギャラリー・フェイク』でも読んでいる方が金銭的には最上である。実際、値段で悩んでいる人は驚くほど少なかったように思う。むしろ、特定の作家の新作グッズ目当てにわざわざ二度三度と現地に足を運ぶ人とか(通販はやっていない)、推しの作家の作品に散財できることに大いなる愉悦、エクスタシーを感じておられる人とか(そうとしか見えない)、その手の瀬戸芸フリークたちが持つ熱量には、私もレジを打ちながらしばしば圧倒されることとなった。

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 フリークといえば、何も来客だけではない。例えば、作品の展示場でもぎりをしている人員の多くはボランティアである。近隣の美大生やその職員、引退後の高齢者、協賛企業のボランティアなどはおおむね県内からの参加者であるが、関東やら九州やら北海道やら、はたまた海外からこのために自費で来日する方も見受けられた。そういった方々は、私からすれば立派な瀬戸芸フリークの一員である。もちろんボランティアの後には客として展示を見て回るわけだが、そういう持ちつ持たれつ感というか、一緒になって芸術祭を盛り立てていこうという彼らの熱量には、私もしばしば圧倒されることとなった(二回目)。
 彼ら現場担当ボランティアは「こえび隊」という名で知られている。瀬戸芸の存在を知っていて、かつ自分も客以外での参加をしてみたいと考える方は、このこえび隊に入隊するのが王道かつ正規のルートである。活動は芸術祭の会期外でも作品のメンテナンスなどを定期的に行っているようだが、最も盛んになるのはやはり会期中である。彼らは早朝に高松港に結集し、朝礼で鬨の声を上げ、それから始発のフェリーで各々に割り当てられた島嶼へと渡っていく。島での業務(それらは主に展示場での受付である)を終えるとまた高松港へ戻り、こえび隊の事務局にて清算を行う。これがおおよそ一日の流れである。遠方からの参加者には宿泊施設も用意されており、そこで参加者同士の交流を楽しみにされおられる方も多いと聞く。公式グッズとしてはこえびTシャツ(2200円税込)があり、その目に鮮やかな深紅のシャツを着用すれば、どのような人混みの中に在っても火炎放射器を構えたモヒカンのパンクスみたいに人目を惹く。傍目にも容易にこえび隊員だと分かる(シャツに書いてある)ので、話しかけやすさも増す。せっかくボランティアに参加するのだから、人から話しかけられたい、大いに交流したいとお考えの方にはぴったりの一着である。
 ボランティアという性質上、女木島を訪れるこえび隊員の面々は、一部の長期参加者を除けば日替わりである。だから寿荘を受け持つこえび隊の方々には、毎朝館内を案内したり、展示の概要を説明しておく必要がある。そしてそれら一連の説明を担当するのも私の職掌の範囲であった。なので毎朝それをルーティンとして行うわけであるが、やっていることはちょっとしたツアー・ガイドであるし、私が港で始発の船を出迎えたということもあって、私を女木島の住人であると誤解される方もしばしば見受けられた。もちろん私は兵庫県生まれ大阪市在住の、女木島とは縁もゆかりもない人間であるから、直ちに誤解を解いた。解かなければ、島についても展示についても熟知していると思われてもやむを得ないし、それによってどんな難問奇問珍論極論がお気軽に寄せられるか、想像するだけでも身震いしてしまう。私の胃腸はそれほど他者からのプレッシャーに耐性があるわけではない。それに、何でも知っている人は「遊撃隊」という役職で、他にきちんと存在しているのである。
 遊撃隊とは、いわばこえび隊の上級隊員である。上級隊員であるから、当然知識的にも人格的にも我々平隊員を圧倒していて、現場の運行に関することはマジでだいたい把握している。ひとたびトラブルが持ち上がれば颯爽と現場に急行し、あっというまに問題を解決へと導く。その手腕は、まるで有能さのイデアがいよいよ現世に顕現したかと、見る者を驚嘆せしむるほどである。私も元来出来の悪い性分であるから、ほぼ毎日、いや毎時間、最初から最後まで絶え間なく抜かりなくお世話になり通しであった。この場を借りて、改めて厚く御礼を申し上げたい。

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 仕事が終われば後は自由時間である。閉場が四時半、港にこえび隊の面々を見送っても五時すぎには体が空くので、残業がほぼないことを思えばまぁまぁホワイトな職場である。残業につぐ残業で毎日くたくたになって、自由時間はエサを腹に詰めて寝るだけ、という事にはまずならない。といっても、台所も浴室も洗濯機もみな共用であるから、自由時間だからといって気を抜いていると思わぬ不便を被ることになる。生乾きのパンツを履き、売り場で情けない半笑いを浮かべる羽目になる。こうした共同生活においては、共用設備の空きを目ざとく見逃さないことが肝要である。常に先手を取って行動することが、共同生活における快適なオフタイムを過ごす上で必須の心得なのである。
 もっとも、島でできる娯楽なんて浜辺を散歩くらいのものだから、自由時間といってもできることは限られる。自分一人で自分の暇を潰せる人間なら良いが、そうでない方はささか時間を持て余してしまうかもしれない。浜から望む高松の夜景を、恨めしく眺める夜もあるかもしれない。私はささやかな社交性を発揮し、他の同僚たちは自由時間をどう過ごしているのかを世間話のついでに探ってみた。すると、どうやらテレワークで会議に参加したり、別件の仕事を持ち込んだりしておられるご様子である。生産性、という言葉が私の脳裏をよぎる。本邦の国民総生産はかような人々によって支えられてるのかと思うと、まことに頭の下がる思いである。下がる思いではあるが、しかし生憎のことに、私にはそういった「成すべきタスク」の持ち合わせがない。だったら来るべき日に備えて自己研鑽にでも励めばよいようなものであるが、そもそもそんな日が訪れるのかどうかが定かではない上、普段からそういう思考、発想に慣れていないものだから、そのために何をすればよいかも分からない。それで仕方なく、生産性という概念にはしばし脳髄からご退場頂き、私は布団に寝っ転がって屁をひりながら、高松市のルヌガンガという本屋で買ってきた千葉雅也の新書を読んだり、youtubeでビックリマンチョコをひたすら開封する動画などを見たりして過ごした。
 せっかく女木島に来たのに、あなたはいったい何を下らないことやっておいでか?と呆れる方もあるかもしれない。蓋しご尤もである。確かに私は地元を離れ、何かしらの特別な体験をひそかに期待して島へとやってきた。しかしだからといって、一日の全てを特別な時間で埋めつくせるものだろうか?よしんば島の大自然に特別さを求め、無理やり夜の山や浜へ分け入ったとしても、野生の猪に鼻息荒く尻をつっつき回されたり、入水自殺の志願者と見紛われて香川県警の手を煩わせるのがオチである。加えて、特別というのは刺激的ではあるが、同時に疲弊ももたらすものである。日中は第三次産業に携わる身としてよそ行きの顔を続けていたのであるから、せめて同じ時間分は真顔に戻らなければ、労働の維持にも支障をきたす恐れがある。これは令和の御代において隆盛を極めつつある、サステナブルとかいう外来語の意味するところからの省察である。であるから、一見無為と頽落の極みであるかのような上記私のオフタイムも、視座を変えればきちんと理にかなっているのだと、胸を張って申し添えたい所存である。
 では、夜の寿荘には絶えず静寂の帳が降りていたのかというと、実はそうでもない。というのは、寿荘ではしばしば、宴会というか、そこで暮らす従業員と芸術家諸氏が車座になって食事を共にする、晩餐会的催しが開かれたからである。この傾向は、私が島で暮らし始めてからだいたい十日ほど経過したあたりから見られ、おおむね会期が経過していくにつれ、その頻度も規模も拡大していった。特に会期の終盤にもなると、ほとんど毎日のように開催されるせいで、備蓄してあった私物の食品を消化していく暇もなかったほどである。
 この事象の核となったのは、思うに二人の人物である。一人は島で唯一の駐在所に勤務する駐在氏。香川県に勤務する警察官の間ではあまり人気のないらしい女木島での勤務に、自ら志願して乗り込んできたという剛の者である。フェリーの乗降客数が多いと推定されうる場合において、自らトランジスタ・メガホンを片手に港に赴き、スムーズな乗降につながるよう現場で積極的な注意喚起を試みる姿は、警察権力が本来庶民に喧伝したいはずの「親しみやすい町のお巡りさん像」そのものである。
 駐在氏と親交を持ったのは、島に渡ってごく初期の段階である。断っておくが、私の人相、挙動、あるいはその双方に怪しむべき点が認められ、警察法第二条第一項の要請に基づき職務質問を受けたから、という経緯ではもちろんない。当時、私は島での暮らしに二つの問題を抱えていた。その一つが食糧問題である。この食糧問題に取り組む過程において、私は駐在氏と親しく口を利く間柄と相成ったわけである。
 そもそも、島に渡る前段階の所連絡において、こえび隊の運営事務局からは「二、三日分の食料の持ち込みは必須なりけり」というお達しがあった。島にはライフやmandaiやサンディや関スーや成城石井といった類の、いわゆるスーパーマーケットはほぼないので(あるはずがない)、食料の現地調達はあてにせず、数日分は各自用意したものを持ち込むべし、というわけである。それで、当初私は三日分の食料を島に持ち込んだのであるが、いざふたを開けてみると、私のシフト上における初回の休みは、なんと一週間以上も先であった。これは実に困ったことである。なぜなら3ひく7はマイナスを意味しており、そのマイナスは私の食料が将来的に欠乏に至ることを約束していたからである。勤務時間が概ね高松行きフェリーの始発と最終にかぶっているため、休みの日でなければ島外に買い物に行くことが難しいのだ。連勤はどうということはないが、飲まず食わずというのはいささか骨が折れる。一応、島には平日十五時まで営業している農協があり、日用品の他、多少の食料品もそこで売られているのだが、弁当類はなるべく島内で暮らす高齢者のために残しておいて欲しいと事務局からは釘を刺されていた。確かに高齢者は足も悪く、フェリーに乗って島外に出るのは一苦労だろう。そういう高齢者を押しのけて弁当を手に入れるというのは、いくら個人的に腹を空かしているとはいえ、人倫に悖る行いであるように思える。加えて私は料理というものをしないし、一応は青虫でなく人間であるので、大根や白菜をそのまま齧るわけにもいかない。それで、仕方なくおにぎりの代わりにおにぎりせんべいを購入し、それをおにぎりだと思って食べることにした。人は誰しも心のどこかでおのれをごまかして生きているわけであるから、今更この程度のごまかしなどはごまかしのうちにも入らないであろう。そう思ってトライしたのであるが、しかしおにぎりせんべいはあくまでおにぎりせんべいであって、どう頑張ってもおにぎりの代わりにはならなかった。
 事務局側の名誉のために申し添えておくと、彼らも私の窮状を黙殺していたわけではない。シフトを動かすのは難しいが、代わりにこちら(運営側)の人員がそちら(女木島)へ渡る際に、あなたが必要としている食品を高松市のスーパーで代わりに買って行きましょう、という申し出はきちんと頂戴していたからである。私はその申し出に礼を言って、仕事が跳ねた後、さっそく部屋で買い出しリストを作成することにした。そして鼻歌混じりに長いリストを完成させた……ところまでは良かったのだが、そこから先がよくなかった。というのは、いざ送信する段になると、まるで自分がこれから勝算のない愛の告白でもするみたいに、肝心の送信ボタンが押せないのである。書き出したリストを眺めていると、自分がひどく幼稚な、ろくでもないものばかり飲み食いしているという事実を突きつけられて、なんとも言えない気恥ずかしさを感じたのだ。そして同時に、私はあのズシリと重いスーパーの袋の取っ手が、指にするどく食い込む感覚を思い出した。私はその感覚が全然好きではなかった。
 仮に私がリストの買い出しを頼んだ場合、それを高松市内で代行してくれる相手ははっきりしていた。その方はこえび隊の事務局で事務をしているUさんという方であった。私は島に渡る以前から、電子メールでのやり取りを通じてその方の世話になっていたし、島に渡ってからは研修という形で世話になっていた。そして実際に対面で仕事を教わる過程で、その人となりにとても良い印象を持っていた。Uさんの穏やかな人格が世の中のすべての管理職にインストールされれば、パワハラという言葉は死語になるに違いないと私は思っていた。加えて、Uさんは「ランボー怒りのアフガン」に出演していた頃のスタローンみたいな体格とは対極にある、小柄でほっそりとした体つきであった。っていうか、そもそも女性であった。そんな人に、私の所望するろくでもないエサをはるばる海を越えて運ばせるというのは、なんだかとても不当なこと、間違ったことのように思えた。多忙な中(事務局の人たちは芸術祭の会期中、本当に冗談抜きで忙しそうだった)、私のためにスーパーに足を運ばせるのも気が引けたし、リストの品々をカートに放り込んでいる間、「こんなにろくでもないものばかり好き好んで食べているということは、あの人はひょっとしたらろくでもない人間なのではないだろうか?」的なことを思われたら嫌だなぁと思った。もちろん私はろくでもない人間ではあるが、なるべくならそれが露見する瞬間を遅らせたいと思っているし、あわよくば最期まで露見しなかったらいいのにな、とも思っている。かといって、自分から食糧難を訴えたわけであるから、自分から「あ、やっぱいいです(笑)」などと言って断るわけにもいかない。食べ物がいずれ涸渇するだろうことは確かなのである。それで考えた末、好きでも嫌いでもない食べ物を、あくまで形式的に、僅かな分量だけ依頼することにした。レンジで調理できる白米とレトルトのカレー。コカ・コーラの500ml缶半ダースもそこに加えたかったが我慢した。それは私の好みとは全く関係ないという意味において、私にとって考えうる限り最も匿名的な食べ物であった。
 けれども、幸いにもと言うべきか、結局はそれすらUさんに運ばせることはなかった。そこで登場してくるのがかの駐在氏である。氏はどこかから私が食糧難に陥っていることを聞きつけらしく、私に夕飯が食べられるいくつかの店を教えてくれたり、島民からの差し入れを分けてくれたり(氏は島民からばっちりと慕われていた)、あまつさえ私を夕飯に誘ってくれたりした。氏は非番の日以外は島の駐在所の二階で寝泊りしていて、そういう時には自ら夕飯を作っているのである。氏の他にも、島外から女木島へ通う方が毎回昼食にわざわざ弁当を買ってきて下さったりして、私はいつの間にか、手持ちの食料を少し節約しさえすれば何とか休日まで食いつなげる見通しが立っていた。周囲の方の思わぬご厚意に救われる形となったのである。日本銀行券さえあれば大抵のことはどうにかなる都市部の生活とは違って、島では困ったことがあれば誰かに頼るか我慢するしかないから、これは本当にありがたかった。
 もう一方は、招聘作家のY氏である。こちらは地元関東で作家業の傍ら、漁師、あるいは猟師も兼業しておられ、そのねじり鉢巻きの似合う芸術家然としない風体も、そうした背景を聞くと途端に合点がいく。このY氏が波止場に立ち、港から去り行くフェリーに向かって大漁旗を振りまく様はとてもとても堂に入っており、事情を知らない乗客のほとんどが、地元漁師の粋なお見送りと勘違いしたことであろうことは想像に難しくない。人となりは面倒見のよい親分肌で、豪放磊落を絵にかいたような人物である。反面、その手で作りあげる作品からは驚くほど繊細な傾向が見られるのだから、人間というのは面白いものである。
 Y氏とは同じ寿荘で寝泊りする者同士ということで、顔を合わせる機会がそもそも多かった。そして顔を合わせれば何のかんのと口をきいていたから、自然と親しく交わりを持っていた。であるから、駐在氏の時のように、何かきっかけがあって親しくなったというわけではない。とはいえ、駐在氏と同様、Y氏にも個人的にとても世話になったことが一点あり、公平さの観点からして、この場を借りてそのことを紹介しておくのが筋というものであろう。
 私が島での暮らしでもっとも悩まされたのは虫の問題である。寿荘に寝泊りする人員には、基本的に個室が割り当てられている。個室というものはいうまでもなく、割り当てられた人間が専有できる空間であってしかるべきである。しかし島で暮らす虫たちにとっては、そんな人間界での決まり事など些事に等しいようで、私の部屋は毎晩さながら昆虫世界におけるハチ公前の如き様相を呈していた。自室の入口正面には、四枚に渡って壁を埋めつくす巨大な窓がはめ込まれていたのだが、カーテンがないためそこからこぼれる室内の明かりに誘われて、飛翔機能を保有した様々な虫たちが毎晩窓ガラスにへばり付くのである。それだけならよいが、窓の端に設置してあるエアコンの建付けが実に杜撰な代物で、隙間からまったく無遠慮に虫たちが闖入してくる。きゃつらは蛍光灯の周りをぶんぶんと我が物顔で飛び回り、やがて私の頭上や足元に飛来して安息を脅かす。宿泊初日など、驚きのあまり布団の上で反射的に撲殺に及んでしまい、おかげで謎の昆虫の謎の体液の匂いを嗅ぎながら床に就かなくてはならなかった。一日、二日と同じ部屋で過ごすうち、私も闖入経路の洗い出しに成功し、養生テープなどを駆使して懸命に封鎖を試みるのだが、虫たちも虫たちでああ見えて知恵が回るようで、また新たな迂回路を発見しては部屋への闖入を繰り返す。こう鼬ごっこが続いては、かのファーブル博士だって辟易するのではないだろうか?ましてや、私は虫と鬼神は敬して遠ざける、という信条の持ち主であるから、こうたびたび視界に入られては精神の休まる暇がない。休まらなければ、疲弊した精神はいずれ発狂するより他はなく、例えば勤務時間中に突如として蟹のように泡を吹いたり、誰もいないレジ前で虚空と会話を始めたりする可能性が僅かながらも発生し、それはそれで由々しき事態である。
 そうなってはまずい、とひと肌脱いでくれたのがこのY氏である。「世の中にはこれほどまでに虫に怯える人間がいるのか」と驚き呆れたY氏はこの後、素人仕事では到底及ばない、徹底的な目張り、隙間対策を私の部屋に施してくださった。国際芸術祭の招待作家にいったい何をやらせているのかと我ながら思うが、当時の私はそんなことにも頭が回らないほど見苦しかったのである。その作業はちょっとした内装工事と呼称しても差し支えのないほどの水準で、手際を一緒に見学していた同僚の佳人などは「こんなに隙間をふさいだら部屋で窒息しそう」などといった内容の感想を、思わずもらされたほどである。私としては、これ以上平穏を脅かされないのであれば酸欠による頓死もやむなし、といった心境であったが、幸いなことに以後虫たちの闖入は激減し、また私も、今こうして当時を振り返って文章を書いている以上は健在なわけであるから、まことにY氏のご助力、ご高配には感謝しきりである。
 さて、いささか話が長くなってしまったが、ともかく以上がこの両人の紹介である。このご両人の初顔合わせは春会期であった。その後、春会期、夏会期を通してすっかり意気投合したご様子で、秋会期においても、その再会を心待ちにしておられた。両者に通底する気質として、社交的というか、陽キャ、あるいはパーティーピープル的傾向が大いに見られ、他者に関わることをちっとも厭わない。またその手の人士が持ちうる傾向として、やはりというか例に漏れず、大の酒豪でもある。そういう気質のお二人が、飲み屋もパチスロ屋もピンク色のネオンサインもない島で夜を持て余すのだから、これはもう、缶ビールとつまみを手に一堂に参集するというのは、有為転変、生者必滅の理にもまして必定というものである。先述したようにパリピ的気質を備えたお二人であるから、宴席の参列者は多いに越したことはない。というわけで、私などもその末席を汚す栄誉を賜るに至った次第である。
 もし「女木島でのハイライトを一つ上げてください」と問われたら、やはりこれら宴席のことを挙げないわけにはいかない。そこには普段私が絶対に交わることのない人たちが集っていて、かつみんな概ね機嫌がよく、食事も美味く、その場に存在しているのは大変楽しく愉快であった。しかしそういった場で具体的に私たちは何を話していたのかというと、これが不思議と思い出せない。あれほどたくさんの会話の渦中にいたはずなのに、そしてその時はずいぶん熱心に耳を傾けていたはずなのに、今はただ懐かしい想い出として、輪郭のぼんやりした温かな記憶だけが残っている。
 考えてみれば、日中は業務の一環としてこえび隊やお客さんと話をしていたし、夜は夜で大抵の場合宴会があったわけであるから、私は会期の終盤、ほとんど朝から晩まで話をしっぱなしであった。より正確に言えば、話を聞いている方が多かったので、絶え間なく会話の渦中に存在していた、ということになるかもしれない。いずれにせよ、これは私の普段の会話量から比較すれば、かなり急激な変化である。長年ペーパーワークを生業にしていたサラリーマンが、急に百倍の重力下で連日トライアスロンに挑戦するようなものである。そのせいか、 一日を終えた私の頭は体と比べて妙に疲れていて、部屋の明かりを消せば瞬く間に眠りに落ちた。いつものように、布団の中でごそごそとスマホを覗く気にもなれなかった。けれども、その時感じていた疲労は実にあっさりと私を眠らせてくれたので、決して悪いものではなかった。
 そういう膨大な量のコミュニケーションは私を自意識から引きはがし、どこか脳髄に霞がかかったような、ある種の酩酊状態へと誘った。多くの才人に囲まれながらも、私はおのれの身の丈の不足に悩まされることもなく、誰かを羨ましいと思うこともなかった。「幸せとは何か」などといったことは、一瞬たりとも脳裏を過らなかった。過去の後悔も未来への憂いもなく、今だけがあった。そしてその今に十分満足していた。そういった種類の満足は、私が人生で何事かを成しえた先に、その報酬として得られるものだと思っていたから、ずいぶんと拍子抜けしたものである。あるいは、それは酩酊した脳髄のもたらす束の間の錯覚だったのかもしれない。しかしこれまで散々に持て余した時間のなかで、自分はそのド素面の頭脳でもって、いったい何か意義のあることを一つでも考えつくことができただろうか?自分に絶え間なく向き続ける意識の矛先を、知らぬ間に持て余していたのではないか?そう思うと、酩酊が必ずしも悪いとは言えないような気がしてきて、私は腕を組んで考え込んでしまう。

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 まあなんにせよ、そんな風にして毎日が流れていった。仕事、宴会、就寝。時々の休日。日めくりカレンダーが高速で捲られていくみたいに、それはあっという間の日々であった。九月が十月になり、やがて十一月になった。集まって写真を撮る機会が増え、さようならを口にする機会が増えた。そういえば、これは秋会期だったのだな、とある時に私はふと思った。来たばかりの頃は夏会期第二部、といった趣きの気候だったのだが、流石にその頃になるとすっかり秋らしくなっていく。山々も少しずつ色づいてくる。日差しにもかつてほどの厳しさはないし、日もどんどん短くなる。毎日同じ時間に港で見送りをしていると、定点観測しているみたいにそのことが分かる。それでも、雨だけはなかなか降らない。春と秋というのは言うまでもなく、前線と日本列島の位置関係によって雨が降りやすい。実際、大阪ではその時期、良くにわか雨が降る。洗濯物がだめになって、外出先でもっとも舌打ちをするのはその時期である。だけど、女木島滞在中に雨を見たのは多分一度か二度くらいのものである。古くからため池が多く掘られたというのも頷ける。
 最終日の前夜、私たちは島にある閉店後の飲食店舗を借り切って食事をした。平素は島民が普段使いする食堂兼たまり場ということであったが、丁度経営者が体調を崩していたらしく、私が島にいる間はあまり開いているところを見かけなかった。どうして我々がその晩そこを使うことができたのか、詳しいことは分からない。でも多分、誰かが経営者の方に相談して許可を得たのだろう。いずれにせよ、私が実際に立ち入ったのはその日が初めてだった。
 店内には大勢の人が集まっていた。人数としては一ダース以上いたのではないだろうか。宴会の規模としては最大級だったように思う。同僚の方や芸術家の方はもちろん、島民もいたし、春夏会期に寿荘で働いていた方も顔を見せていた。もちろん駐在氏もY氏もいた。駐在氏のご子息までいた。私たちは店の奥にある、大きな鉄板のはめ込まれたテーブルを囲むように座っていた。お好み焼き屋でもないのに、どうして客席にそんな大きな鉄板があるんだろうと私は不思議に思った。入口のガラス戸にだって、そば・うどんの文字はあるが、お好み焼きの文字は見当たらない。まさかコックコートを着たシェフが、鉄板焼きをふるまってくれるような裏メニューがあるわけでもあるまい。しかしなんにせよ、Y氏がその鉄板の上で両手のヘラを器用に操りながら焼きそばを作る姿は実に堂に入っていた。本職以上に本職のテキヤみたいだった。私はその日、非番で高松市に遊びに行っていたので、途中からの参加だった。だから、私が鉄板の上で目にしたのはその焼きそばだけだったけれど、きっとそれまでにも様々なものがそこで調理されたのだろう。その状況は、オードブルとスープとサラダと食後のコーヒーが省かれた西洋風コース料理を私に連想させた。私の胃に収まってもおかしくなかった食材たちのことを思うと、少々残念ではあった。とはいえ私は私で、高松では個人的にとても良いことがあったのだが、ここではそれは割愛する。
 焼きそばを食べながら、隣にいた同僚のNさんと話をする。入れかわりの激しい寿荘での暮らしにおいて、その方とは概ね最初から最後まで一緒だった。部屋も隣だった。共用の台所をきれいに掃除してくれたり、溜まったゴミを集積所まで率先して出しに行ってくれたりと、集団が快適に暮らす上での細々としたことに、何かと気を配って頂いた方である。
 私は休日を利用して大島へ行ってきたことを報告する。大島は女木島のように瀬戸内の海に浮かぶ島の一つで、かつてハンセン病患者が隔離されていた島として有名である。法律が変わり、島に強制的に閉じ込められるようなことがなくなった今でも、幾ばくかの人はまだ島での暮らし続けている。そこにはもちろん、いろいろと複雑な事情がある。
 大島への部外者の立ち入りは基本的には許可されていない。言うまでもなく、観光気分でふらりと訪れるような島ではないのだ。しかし当時は芸術祭の会場の一つとして指定されていたため、特別に一般公開されていた。Nさんはその貴重な機会に一足先に大島を訪れ、大いに感銘を受けていた。それで是非にと勧められたわけである。だけど残念ながら、私はNさんとうまい具合にその感銘を分かち合うことができなかった。もちろんその要因は私の側にある。いろいろと見て回ったつもりでも、私の目はどちらかというと節穴で、Nさんに比べたらほとんど何も見ていないに等しかった。よしんば見たものであっても、私はそれをNさんほどには適切に言語化できなかった。そこに提示された凄絶さは文字通りあまりに凄絶であり、その多くは私の凡庸な想像力を凌駕していたし、安易に言語化されることを拒絶しているようにも感じられた。少なくとも、私がそれらをおのれの語彙で語るには時間が必要であった。そういうわけで、どうにも話が弾まなかった。もちろんそれが、感想を共有し合って盛り上がるような性質の展示ではないにせよだ。Nさんの残念そうな顔を思い出すと、今でも少し申し訳なく思う。
 それから、話題は高松のことに移る。高松市は良いところである、という点で我々の見解は一致する。街を縦横に走る商店街の少し懐かしい雰囲気が、私はとても好きである。例の予約制古書店を筆頭に良い本屋がたくさんあるし、そこで買った本を持ち込むにはうってつけの喫茶店も随所にある。言うまでもなく、うどんも美味しい。「賃貸価格も安いんだよ」とNさんは言う。これを機に高松市で暮らすのもいいかもしれない、とNさんは考え始めている。冒頭で述べた古本屋の店主を介して、すでに高松市近郊で暮らす知り合いの数を少しずつ増やしている。先のことを見据えているわけだ。芸術祭が終わり、寿荘での暮らしが終われば、エンドロールが流れて世界が終了するわけではないのだ。そしてその場にいる誰もが、祭りの終わりを意識し始めている。

                  *

 最終日はとても盛況だった。その日は秋会期の最終日であると同時に、芸術祭そのものの最終日でもあった。およそ半年間に渡って瀬戸内を盛り上げたお祭りに別れを惜しむかのように、多くの人が会場各地に足を運んだ。天気にも恵まれた(やはり雨は降らなかった)。私はすっかりおなじみになったエプロンをつけて売り場に立った。開場の準備をしていると、地元の方が大学芋を作って持ってきてくれた。値札を用意して売り場に並べると、容器に羽でも生えたんじゃないかと思うくらい飛ぶように売れた。とにかくたくさんのお客さんがやってきた。卓球台の上にはひっきりなしにピンポン玉が飛び交っていたし、いくつかの展示には入場制限までかかった。寿荘の脇に並んだ瀬戸内国際芸術祭20XXの青い幟もどこか誇らしげにはためいていた。鬼ヶ島ぴかぴかセンターもいつにも増してぴかぴかしていた(ような気がする)。私は何度も受付を手伝った。それから反復横跳びするみたいにレジに戻り、カウンター越しに言葉を交わし、商品を販売した。「勢いでパスポートなんか買っちゃったから、来なくちゃ来なくちゃと思ってはいたんだけど、結局最後になっちゃった」と来客の一人が苦笑いを浮かべて私に言った。その苦笑いが周囲の混雑のせいなのか、それとも自らの出不精に対する照れ隠しのようなものなのかは分からなかった。「せやけど、やっぱり来てみて良かったんとちゃいますか?」と私は言ってみた。「そうね。でも次はもう少し空いている時に来るわ」とその人は言った。やはり苦笑いを浮かべながら。次、というのは三年後のことである。三年後について私は連想した。さっぱり見当がつかなかった。今と大して変わらないのかもしれないし、AIによってシンギュラリティを迎え、恒星間移動さえ可能になっているかもしれない。私はその時、どこで何をしているのだろう?
 高松港はフェリーを待つ乗客たちの長い行列ができていた。それは私が会期中に目にした中で最も長い行列だった。空はすでに暮れかかっている。おそらくは、乗客たちがちょうど海上を渡る間に帳が下りるのだろう。駐在氏が例によってトラメガでアナウンスをする。積みきれないので、フェリーの臨時便がでるかもしれないということ。私は少し離れたところから行列を眺め、それから面識の出来たいろんな人に挨拶をしてまわった。ひょっとしたら、これが実際に顔を合わせる最期の機会になるかもしれないのだ。
 やがて高松行きのめおん号が行列の大半を飲み込んでしまうと、私たちは海上に突き出すように伸びた防波堤の先にある、鬼の形を模した灯台のところまで急いで移動した。そこには台座の上に、とぼけた顔をした鬼の石像が遠くを眺める恰好で膝を立てて鎮座している。我々はそのたもとで、すぐ傍を通り抜けていくめおん号に向かって大漁旗を振ったり手を振ったり、交通安全の幟まで振ったりしてやんやとお見送りをする。甲板の手すりのところにいた乗客たちが、応えて手を振り返す。めおん号までが船灯を明滅させ、我々に応えてくれる。粋な船長である。
  
                  *

 高松ではその夜、盛大な閉幕式がどこぞのホテルの宴会場を借り切って執り行われるということであった。我々寿荘組はというと、島に残っていたので参加は叶わなかった。でもまあ、そんなことはどうでもよい。式典なんてものは総じて退屈なものと相場が決まっている。自分の卒業式だって寝落ちするような性質なのだから猶更である。もちろん完全に放っておかれるわけではなくて、役所の人が寿荘の広間にモニターを設置して、そこで式典の様子を見られるようにしてくれる。寿荘で暮らす面々の他、関係の深かった地元住民らも招かれ、我々は紙芝居でも見物するみたいに、肩を並べてモニター越しに式典の様子を眺める。背広をとビッと着こなした関係者と思しきお偉いさん各位が登壇し、なんやかんやと閉会の挨拶を述べる。それが終わると芸術祭の会場となった各島々を中継し、我々のように一か所に集った現地住民の中の誰かが、芸術祭を終えるにあたっての感慨を順繰りに述べていく。もちろん我らが女木島組の順番もあり、誰かが何かをしゃべる。私はその光景を、間近で直接目にしている。目にしていた、と思う。しかし悪いとは思うけれど、内容はまったく覚えてない。誰が話したのかも覚えていない。とにかく、私はこういう場とは相性が良くないのである。ついつい頭が別のことを考えてしまう。こういう文章を書くことが念頭にあればもう少しくらいは身を入れて聞いていたと思うが、その時は全くそんなことは考えていなかったのだ。
 我々の出番が終わると、なんとなく現場に弛緩した雰囲気が流れる。閉幕式は依然として続いていたが、「まあもういいんじゃないですか、後は見たい人だけ残って見ていれば」という空気になる。それで、私と数人はその後、その場を抜け出して近所に住む漁業組合会長宅にお邪魔し、ささやかな祝賀会を開くことになる。そんな風にして、寿荘での最後の夜は更けていく。
 しかし謎なのが、高松ではその後、関係者を集めて野球をやるということであった。お堅い式典の後で、身内で和気藹々とレクリエーションに興じるというのは分かる。全然分かる。大いにやれば良いと思う。でもどうしてよりによって野球に白羽の矢が立ったのか、私には今ひとつよく分からない。野球が興味深いスポーツであることに異論はないが、進行にまとまった時間が必要だし、初心者が参加するハードルも高い。道具だって場所だって用意しなくてはならない(球審はいるのか?塁審は?)。まだ「うどん大食い対決」とかの方が、種目としてはすんなりと理解できる。まあでも何か意図や事情があるのかもしれないし、私の運動神経が自分で想定する以上に劣悪なだけかもしれない。人はそれほどフライの捕球や各塁への送球に苦労はしないのかもしれない。バットを振ればきちんとボールは前に飛ぶのかもしれない。そもそも部外者が容喙する事案でもない。だからもちろん式典の後に野球は敢行されたし、参加者各位はそれを楽しんだということである。
 もっとも今にして思うと、式典よりはむしろ、そこでどんな風な野球が繰り広げられていたのかを、モニター越しに見てみたかったような気もする。知り合いになった人たちも出場していたことだろうし、そこではきっと、芸術祭の時とはまた違った横顔が見られただろうと思うからだ。

                   *

 かつて島で迎えた初めての休日では、始発のフェリーで高松に渡った。シャバや~、と私は心の中で独りごちた。胸中には両腕を空に向けて突き出し、体をのびのびさせている自分の身体のイメージがあった。そしてほどなく、高松港近郊にマクドナルドがないことを知って軽い眩暈を覚えた。JRと琴電と港が集まる交通の要所に出店をしていないなんて、マクドナルド日本事業部のマーケティング担当者は職務遂行能力にいささかの問題を抱えているのではあるまいかと私は憤慨した。それから路線バスに乗って、しけたイオンの一階にあるマクドナルドまでぶつぶつ言いながら足を運んだ。無論、現世的な(つまりマクドナルド的な)食事への渇望を満たすためである。幸せの黄色いハンカチで、刑期を終えたばかりの高倉健が目についた食堂に飛び込み、ラーメンとかつ丼に喰らいつくシーンがあるが、そのスケールの縮小版とお考えくださればよい。しかし島での日程を全て終えてしまった後では、そういう何かを抑圧されていたような感覚は一切なかった。食べたいものもやりたいことも特に思いつけなかった。もう少し続けばいいのにな、という一抹の寂しさを感じただけだ。多少の不便やトラブルはあったものの、それらは遠い昔の思い出のように、終わってみれば全て笑い話になっていた。
 芸術祭が終わってずいぶん経った今でも、折に触れて当時のことをよく思い出す。陽光のきらめく穏やかな瀬戸内海や、展望台からの美しい夕暮れや、しんと静まり返った真夜中の廊下のことを。寝具から立ち上る虫の死の匂いや、トンビたちの笛のような鳴き声や、かけて貰ったたくさんの嬉しくなる言葉たちのことを。もちろん学んだこともいくつかある。しかしそれは出発前にあわよくば期待していたような、私の日常を劇的に変えてしまうようなきっかけには至らなかった。それまで知らなかったことを学んでもなお、私は私の日常へと戻っていった。女木島が、あるいは瀬戸内中の島嶼が、芸術祭を終えてそれぞれの日常へ戻っていったのと同じように。それを残念なことだとは考えていない。学びの機会というよりはむしろ、あれは私にとって療養の機会だったのだという思いが、今となってはあるからだ。ある種の楽しさは人を癒すのだ、というのが私の嘘偽らざる実感である。もっとも、それがどういう種類の楽しさなのかは、うまく説明することはできないのだが。
 人はみな病んでいる、というのはもはや一般論だ。「俺はちゃうで」とおっしゃる方もいるかもしれないが、少なくとも私はそれに賛意を表する。四六時中そのことに自覚的というわけではないけれど、でも時々はひどくそう思うのだ。そして町田町蔵が十八歳という驚きの若さで看破しているように、「むしろ環境とはお前自身」であることを考えると、日常に戻るというのは言い換えれば、そこに付随する固有の病を生きるということになるのかもしれない。海外に出ることによって初めて祖国を相対化できるように、自宅を離れ、自分の日常を離れたことによって、私はおのれの罹患する病の輪郭のようなものを、今回の体験を通じて外からふっと眺めることができた。そのことはひょっとしたら、このさき病に対する一定の免疫のようなものになりうるのかもしれない。
 まあでも別にならなくてもよい。上に書いたことが全然的外れだったとしても構わない。だって結局のところ、それは本当に楽しい時間だったのだから。

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