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距離感

6月と7月は色々あって人との距離感について悩んでいた。
そんな中、ある朝に距離感について考えさせられる出来事があった。

鳩の写真

うちのベランダにはよく鳩がくる。すごいたくさんくる。どれぐらいくるって、毎日鳩の鳴き声を聞かない日はないぐらいには、くる。

今朝はたまたま2匹きていることに気づいた。様子から見るに、まだつがいになっていなさそうな初々しい雰囲気。

彼ら(?)は最初は体3つ分の距離あけて見つめあっていた。なんだかステキ。思わず写真を撮る。

なんだか初々しい距離


そしたら、メスはぽーっとしているけれどもちょーっとずつ雄が近づいてきた。ゆっくり、ゆっくりと。歩いてるかどうかわからないぐらいのスピード。

だんだん、近づいていく


しかし、ある程度以上の距離にくるとメスは少しビクッと身じろぎしたように見えた。
そうすると、オスはまるで何もなかったかのように違うベランダに飛んでいってしまう。あーあ、せっかく近づけたのに。私は少しがっかりする。
考えてみれば、私がじっと見つめていたから彼らも気まずかったのかなと思った。なので10分ぐらい時間をあけてからこっそり息を潜めて見に行ったら、彼らは隣同士に座って、二羽で寄り添ってる感じにまーったりしていた。
でも、私がいるのに気づくと、オスは「お、俺が彼女を守るゾ…」みたいな感じで軽めに立ち上がる。メスは相変わらず、ポーッとしたまま。
私は、彼(?)の勇敢さに感動しながら、「ごめんよ、写真だけ撮らせてね」って立ちかけのオスとリラックスしてるメスの写真を記念に撮った。

多分こっちを気にしてるハトたち

オスは「おう、写真ぐらいなら許してやるよ」と言ってる気がしたし、メスも「なんか撮られてるねうちら」って言ってる気がした。
そのあと、オスは気まずくなってしまったのか、その場から飛び立っていってしまった。その場にはメスが座ったまま取り残されていたけど、私にはまるで場を守りながらオスをただ待っているかのように見えた。

鳩の距離感

鳩のオスは、(言葉が使えないからこそなのかもしれないけど)メスのことを気遣いながらも距離を詰めたり、詰めすぎたらきちんと違うところに行って時間をあけて距離をあけて仕切り直したりしていた。そうやってすこーしずつすこーしずつメスとの距離を詰めていった。メスの方も、嫌になったら我慢しすぎずにちゃんと身じろぎをして自分の状態をしっかりと発信していた。私は、そのプロセスを一部だけどみさせてもらったからこそ、彼らが寄り添って座れている、という事実を前後の文脈込みでみれて、その様子がとても美しく感じられた。
彼らは動物といえどもそれでもお互いのことをしっかりよく見つめあい配慮しあい知ろうとしていて、まるでKing Gnuの井口とAikoがカブトムシのデュエットをする動画を見ているかのような優しいふれあいを感じた。



鳩でさえ距離感を感じながらコミュニケーションできるはずなんだから、人間だってもう少し繊細さをもったり自分なりの孤独の対策をすれば非言語コミュニケーションを通してもう少し優しい関係性が持てるだろうし、二人だけの良い“秘め事”や物語が共有できるようになるんじゃないかと感じた。
手を繋ぐのは何回目がいいだとか、キスをするタイミングはいつがいいとか、そういうベタな恋愛のハウツー情報にアクセスしやすくなってしまった今だからこそ、彼らのような「他の人たちにうまく説明できるかわからないけど自分たちは知っている、自分たちだけの名前のない関係」みたいなものが貴重なんだなと。

より近くに近づくことだけがその人と仲良くなるための手段じゃない。相手の反応をしっかりと見つめて自分をコントロールすることこそが関係性の始まりなのだ。改めて感じた。

鳩の世界


鳩は人間のように言語を使えないから、何かを学ぶ時はその個鳩(?)の五感をとおした体験に基づいてるのかなと思う。なので、私のみていたオスも最初からそんなにうまく繊細なコミュニケーションできなかったんだろう。

きっと、彼(?)は何度も何度もいろんなやり方を繰り返して、何がよくなかったのかって鳩なりに考えて、感じて、今回たまたまその繊細さが発揮できたのかもしれない。
多分だけど彼らは人よりもかなり生存に直結した環世界を生きているはずで、体の仕組みも人間ほどジェスチャーに特化しているわけではない。例えば、目のほとんどを黒目が占めていて瞬きもほとんどしないのでアイコンタクトもきっと不自由だろうし、喋らないから嘴だって表情を示せない、などなど。
そんな中でさえ、相手の“身振り”を伺いながら自身の行動をすごく繊細な操作でコントロールすることで実現した美しい世界、のようなものをみせてもらったみたいで心震える体験だった。

そして、その繊細さは相手のメスの鳩との間にしか成立し得ない、再現不可能なヤツかもしれない。

そうやって想像してみると、より彼らなりの物語が鮮明に浮かび上がってこないだろうか。

人間

一方、私たち人間は、距離感をどう測っているんだろう。鳩のような制限(目や嘴や言語を使えないこと)がないから幾分イージーに思える。
だけど実際、私たちはしばしば距離感を見誤ってしまう。脈がない人に告白して関係を迫ってみたり、自分は親友だと思ってたら向こうはそう思ってなかったり。
どうして距離感を測る上では鳩よりも圧倒的に有利なはずなのにこんなトラブルが起きてしまうんだろう。
大きく分けて2つあると思う。

あなたもそうでしょ?

1つ目は「あなたもそうでしょ?」現象だ。心理学的には投影とか言ったりする。防衛機制という、ストレスを受けた時についやりがちな行動の一つ。それが投影。
「私もこんな経験ある、だからきっとあなたもそうでしょ?つらいでしょ?私がそばにいてあげるから(なぜなら私はその時人にそばにいてほしかったから)」とか「私も貴方と似てる、だから感じ方同じかも!」みたいな具合だ。


これは厄介なことに、自分が「これって投影しちゃってないかな?」と意識できてない時やストレスがかかりすぎてる時ほど起きやすくなって止めづらい。でも、意識しすぎてしまっても人間関係が味気なくなってしまってキツくなるのでなかなか取り扱いがムズい。

タイトルをつけたい

2つ目はタイトルをつけたい症候群だ。主に親しい人が少ないけど交友関係を頑張り始めた人に起きがち。
私たちはある程度人と仲良くなった時に、ついどれぐらい仲良くなったのかがわからなくて不安になったりする。自分は友達だと思いたいけど、相手はどう思ってるのかな?でも聞いて否定されたらどうしよう、みたいな。だんだん焦り始めてしまう。

一人一人と育む関係性なんてかなりバリエーションがあるので何をしたら友達なんていう定義は本当はない。だけど、その不安の原因がわかっていないとただただそれをどうにかしたくて「3回ご飯に行ったから友達だよね」とか「手を繋いでくれたから脈アリかな?」みたいに都合の良い事実だけを切り取って「友達」とか「脈アリ」みたいに関係性にタイトルをつけてYouTubeのショート動画みたいなストーリーを頭の中で作り上げてしまう。ほんとはフル尺で動画みないとわからないことだっていっぱいあるのに。

貴方の不安はどこから?

不安の取り扱い方については以前noteに書いた。

だけど、それをさらに深堀りして原因と対策を考えていたら日々のセルフケアが不足しているからではないか?という仮説に行き着いた。

セルフケアというと、なんだか些細で地味なことにみえるかもしれないし人に対するケアよりもパッとしないが、これがなかなか興味深い。
昔、オレムさんという看護のえらい人は「すべての人はセルフケアを自分でする能力を持ってる。自分のお世話を自分がする権利はみんな持ってる。たとえ自分ではできなさそうに見える人でも、本当は自分をケアしたいと思ってるしできるはず」みたいなことを言った。

オレムについての説明(本の写メ)

前述した二つの原因も、結局のところ、自分のコンディションを自分でしっかりと整えられていないし実は自分に何が足りていないのかわからなくて答えを他者に求めてしまっているという前提が実は含まれているのではないかと思うのだ。
自分が抱えているストレスの量はなかなか正確に感じづらい。そもそも目に見えないし。でも人の様子はすごく見やすい。だから他人とお互いにチェックしあうのが理想だけど、どうしても毎回そういうわけにいかない。なので、自分なりのコンディションの把握の仕方が自己管理において実はとても大事だ。
抱えているストレスの量を簡易的に把握するには、自分なりのサイン(兆候)を見つけることが必要だ。(たとえば、調子が悪くなってくると洗濯機のゴミ取りネットが少し汚いのが許せなくなるとか、お風呂を入れていることをつい忘れてしまいがちとか、そういう感じのやつ)
そのサインを見つけるための前準備がセルフケアだ。
日々、自分のことを労っていれば自然と今の自分の状態を知ることになる。普段の自分を知っていてさえいれば、調子の悪い自分にも気付きやすくなる。(場合によってはその事実を直視するのがキツいかもしれないけど、それは別の話だ)
しかも、セルフケアの利点はそれだけじゃない。
最初は「セルフケアなんてしなくても別に生きていけるし」とか「自分なんてこんなもんでいいでしょ」とか妥協しがちだけど、セルフケアをある程度続けていると自分が普段当たり前だと思っているものを意識する機会に恵まれ、それに対し自然と感謝が浮かんでくる。足をストレッチすれば自分の足が愛おしくなり、手にハンドクリームを塗れば手が無事に今日も働いてくれていることに気づく。
コロンブスの卵みたいで不思議だけど、結果的に自分のことを前よりも少し好きになって受け入れられるようになってくる。
そうすると、他者に多少強引にでも受け入れられたいという感情が湧きづらくなる。
なので、「あなたもそうでしょ?」や「タイトルをつけたい症候群」が今起きやすくなってるなぁと事前に気づくことができる。さらに、普段からセルフケアをしてるので自分なりの自分の癒し方がわかっていて対処でき、そのどうしようもない衝動性を飼い慣らすことができるだろう。

私は家族の影響もあってもともとセルフケアが得意な方ではないし好きではない(というかそもそも思いつかない)が、だからこそ自分では思いつかないようなセルフケアを知りたいと思ってとあるコミュニティ内で「自分のために何かをしたら報告する(人のためににした場合はかかない)」というテーマのグループを先月作った。
1ヶ月弱だったがそこに書き込まれた内容を眺めているだけで自分がセルフケアと思わずに何気なくやっていたことがセルフケアだと知れたり、そんなセルフケアもあったのか!と考えさせる視点をもらえて、続けるうちにかなり自分の中の意識が変わったし何よりもセルフケアが好きになった。

そんな感じで、自分の中の欲求に向き合い、距離を考え、行動を変えていけるのが人間にだけ許された繊細な「美味しい部分」じゃないだろうか。なかなか一筋縄にはいかないけど、だからこそやり込みがいがあって楽しいのだ。

貴方にとってのセルフケアとは、何だろう?

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