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私という物語

とある集まりで、冬でもメンタルや気力を削がれないような基本的な健康維持について話していた。
自分が色々やってきたことを羅列していたら「それって、生存者バイアスでは?」「そもそもスタートが違うように思える」と言われて、ハッとした。
自分もいわゆる弱者側だと思っていたが、相手には自分の弱かったり辛かったりした過去が見えていないが故に強者だと思われていたことに気づいた。
私は、いつの間に「強者側」に来てしまったんだろうか。
色々と、深く考えてみた。

私の語る内容の偏り

「自分の中のどういう部分を切り出してきてそれが自分だと認識して処理しているのか」はその人が自分の人生をどういった物語として取り扱っているのかと直結している。
世の中には普遍的な真理がある程度はあるけどそんなに沢山はなくて、存在しているのは事実に対して私たちがそれぞれ選び取った断片だったりそこからの解釈がほとんどだ。私が自分の中でそこそこ絶対だと思っていた医学だって、確かに統計をとった末に導き出された理論ではあるが、その枠組みがその人の人生観にフィットするとは限らない。なんとなく薄々とは分かっていたが、最近読んだ本(野の医者は笑う-心の治療とは何か-)の影響を受けて、かなり実感できるようになった。

私の場合、自分の中で不便だったり不幸と思われそうな属性を取り出せばキリがない。
・母が強烈な毒親(感情的になると会話不能になり、自分の理想の世界でしか生きられないので平気で嘘をつく、宗教にどハマり)
・父とは関係性が良いが、あと1年で蒸発する予定と宣言されている
・幼少期に謎の右脳教育を施された影響で時々経験から受け取る情報量が多すぎてパンクしがち
・子供の頃はずっと、強い発達障害&知的障害のボーダーラインの弟の世話をするようほぼ強制されたヤングケアラー
・発達障害者(小学生の頃からアスペルガーとADHDを持っていると診断されている)
・感覚過敏は五感のほぼ全て
・言語性IQと動作性IQの差が40近くある(差があればあるほど生きづらい、らしい)
・もともと感情的になりやすい素質で特に怒ると手がつけられない
・中高生の頃は親が某宗教にハマり、信者として禁欲的に過ごしてきた(部活も恋愛もNG、土日も休めない等)
・大学には進学できて自立できたが、一般的な大学生とはかけ離れた生活でとてもキャンパスライフといった感じではなかった

などなど、である。他にも書けばいっぱいあるけど、あまり書きたくはない。
理由は多分、「被害者意識を前面に出して生きていて哀れまれることはあっても自分の何かが改善する訳ではない」と大人になる過程で思い知ったからだと思う。
たまには自分の暗い部分の話もいいが、どうせ人に対して自分のことを喋るのだったらそんな話よりも面白かった話や笑える話の方がお互い楽しいし良いじゃん、というポリシーで生きているのだ。そうすると周りには似たポリシーの人が集まってくるしそういう人たちと過ごしてる方が色々と気を使わずに済む。そういうサイクルを日々回している。
経験したことは記憶として私の頭にはそこそこ残っているが、人に語ることがそもそもないので他人からみれば(私が語らない限り)存在しないのと同じなのだ。
そんなことに、今更ながら気づいた。

とにかく経験したことについて前向きなことしか人に語らないという自分の性質というか性格?はどこから来ているのか。さらに深堀りしてみる。要素は大きく分けて2つではないかと考えた。

行動力とその継続性

私が人と大きく違うなと感じる部分が、行動力とその継続性だ。自分だけでは乗り越えられそうにない困難に直面した時、自分のなりふりなんて構わずにひたすら解決方法を模索して人に聞きまくってそれを全て愚直に実践してきた。
すぐに行動できる人はそれなりにいるかもしれないが、自分のさらなる強みとしては納得した内容もしくは信用できると思った人からの情報であればそれをある程度の効果が出るまで続けられることだ。なので、何かにチャレンジしてきた回数というか密度が人とは段違いに違うと思われる。それを人からは努力家だと評価されたりもするけど、自分の中では何かを改善していくことが好きなのであまり苦に思っていない、という構造がある。
そういった構造の中で、「自分の境遇を嘆く時間」のようなものがだんだん消えていったし、「性格を良くしよう」と思い立ってからはひたすら性格の良い人が取るであろう行動を学習し続けてきた。なのである程度前向きな「強者的」と言えるような行動パターンや性格が形成されているような気がする。

環境利用と情報収集

行動力を発揮するための素地としては環境を知って利用し、そこから情報を細かく得てくるというプロセスが大きく影響しているような気がしている。
小さい頃から、同じことを経験していても「自分は今、社会の中でどういう立ち位置にいるのか」「何を期待されているのか」「やらかしても怒られないギリギリセーフなラインはどこなのか」「自分に対して接してくる大人は何を思ってその接し方を決定したのか」「目の前にある道具はどういった原理でできていて何を目的として作られているのか」などの問いが無限に湧いてきてそれを知っていそうな大人に聞いたり逐一本やネットで調べたりして世界への解像度をなるべく高めるような行動をしてきた気がする。自分は一体どのような世界で生きているのかを深く広く理解すればするほど行動する際の不安や恐怖は薄れていく。そういった影響によって行動がしやすくなっていると思った。

弱者だった過去の自分へ

昔の自分へ声をかけてアドバイスできるとしたら何があるだろうか、考えてみると、たくさんの言葉が浮かんでくる。
「君が思ってるよりも君は自分のことをもっとずっと大切にできるようになるし、今は下手くそでもうまく人を頼れるようになるんだよ」
「泣きたい日があってもいい。怒鳴り散らす日があってもいい。だけど、その感情はもう後になったら人に語らない限り経験できない。たくさん感じとったら、あとは次に活かしていくだけなんだ」
「先が見えなくて不安で仕方なくて、全てを照らしてくれるような真理や魔法を求めたくなるかもしれない。だけど、そんなものはなくて、少しずつ手に持っているスマホで足元を照らしていくしかない」
「最初からうまく出来なくていい。むしろ、最初からうまく出来たら天才だから。もっと頑張れるはずなんて思わず、少しずつ自分の輪郭を広げていけばいい。続けている限り、必ず道は見えてくる。そのチャンスをタイミングよく掴めるように、地道に準備する日々を続けるんだ。」
「諦めなければ負けることはない。すぐに勝てなくていい。時間をかけて望む場所に歩いていけば次の自分が分かるんだ」

今、自分は弱いと苦しんでいる人がいるならば、自分にできる範囲で強そうな人の真似を少しずつ積み重ねていくことが強くなるための攻略法ではないだろうか。
自分の強みに目を向ける時間が増えればいつのまにか自分が弱いと感じることは減って自然とその部分を自分らしさの一部としては語らなくなり「強者」扱いされるようになっていく。
自分の過去は自分しか知らないのだから、好き放題改ざんして編集して好きな物語を作っていけばいいじゃないか。

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