見出し画像

マリオの映画がコマンドーだった話

先日六本木のマリオシアターにて鑑賞してきました。
劇場はまさにマリオ一色といった様子で、シアター前では着ぐるみのマリオとルイージが出迎えてくれ、テンションも最高潮で観ることができました。
観客の中には子どもたちが多く、上映中にうるさく感じるか心配でしたが、彼らは程よくリアクションをしてくれて、むしろ心地よささえ感じられる素晴らしい体験を提供してくれました。

感想は極力ネタバレを省きますが、今回の映画は不必要な設定が極力排除されており、物語は主に映像で伝えられるような仕掛けが多かったように感じました。これは意図的であったとマリオの生みの親である宮本さんもインタビューで言及していました。

宮本茂さんのインタビュー記事
マリオの父は滑らない 映画大ヒット、宮本茂氏の仕事術 - 日本経済新聞 (nikkei.com)
※良作には場面説明は必要ないと語られた内容が載っています。

キノコを食べると巨大化し、亀が姫に求婚することや、タヌキスーツを着用して空を飛ぶような場面も、「マリオだから」という理由で納得させられました。

スーパーキノコ

40年という長い月日を掛けた得られた他のキャラではできない、ある種ズルく感じる部分も有りますが、マリオは世界中の人々にそのキャラクターを理解させ、余計な説明セリフを省くことに成功したのです。

これに似た映画が一つあります、それは「コマンドー」、それも「現代の日本人が見るコマンドー」です。
コマンドーではシュワちゃん扮する主人公のメイトリクスが無双するシーンが多くみられます。例えば、100人もの兵士をたった1人でマシンガン片手に皆殺しにしたりします。また主人公の娘がさらわれて物語が始まるが母親は一切でてきませんし理由も語られません。普通の映画ならメイトリクスがなぜそんなに強いのかについて説明があったり、妻が居ない事に付いては何かの伏線かと勘繰る所ですが、ほとんど語られません。せいぜい主人公が元特殊部隊の隊長だったという事が判明するくらいです。

敵の拠点に単身で乗り込むメイトリクス


しかし観客はそれらについてほぼ疑問を持ちません、なぜでしょう。
それは「シュワちゃん」だから。
シュワルツェネッガーが演じるからこそ、「ザコ兵士が束になっても敵わない」ということがセリフで説明しなくても、筋肉と顔の迫力を使って言語として成立しているのです。

これにはマリオとも通ずるズルさを感じます。でも、それで成立してしまっているのだから仕方がない。素手で鍵のかかった鎖を引きちぎっても映像に説得力が有るのだからそれは納得せざるを得ないのです。

また、他の映画にはない特徴としてネットミームをつなげると映画が完成するといわれるほどコマンドーはセリフの一つ一つが世間に知れ渡っているというのが挙げられます。初めて見るはずなのに、5分ごとに聞いたことのあるセリフが繰り返され、それらに出会うたびに宝物を見つけたような喜びが湧き上がるのです。

初見の映画のはずなのに知っているセリフが出てきて興奮する
Vtuberの鈴木勝氏

これはまさにマリオの映画で感じた見たことのあるキャラクターや音楽を見聞きするたびに嬉しくなる現象と重なるのではないでしょうか。
任天堂が40年かけて「マリオ」を世界に浸透させたように、コマンドーも「コマンドー」を世界に浸透させたのです。

追記
ゲームの映画化が難しいとされる要因の一つに、プレイヤー一人一人が持つキャラクター像が千差万別であるため、解釈違いが起こりやすい点が挙げられると思います。特にマリオというキャラクターは、多くのゲームに登場させる必要があるため、個性を極力省いています。そのため、プレイヤーそれぞれが持つキャラクター像はバラバラであり、どのように描かれても解釈違いが起こるのではないかと心配されしていましたが杞憂でした。

この映画では、奇跡的なバランス感覚で解釈違いが起こらないように気を配っていて。おそらく、万人が共感できるセリフや仕草を研究・厳選して描いているのだしょう。まさに職人芸とも言えるその手法は、高く評価されるべきものだと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?