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敗北の彼方に何がある〜『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ/森合正範』(講談社)〜

全身に雷が落ちるような感覚に陥ったひとつの記事


今思うとこの企画は助走から完璧だった。

2018年に現代ビジネスで公開された『井上尚弥
に敗れた男が初めて明かす「モンスターの実像」怪物に敗れた男たち』という記事が何かしらの拍子でクリックしていた私は一気に心を奪われた。

未だに全勝街道をひた走る日本人史上2人目の世界4階級制覇王者の井上尚弥に敗れたボクサーにスポットを当てたのがこの記事。

プロ3戦目で拳を交えた佐野友樹の井上戦に至るこれまでとこれからを綴ったノンフィクション。そこには佐野のうちから出る本音がむき出しに描かれていた。

「ここまで強くなるとは思わなかった。もう日本人の誰も手が届かないところに行ってしまった。(米国の世界6階級制覇王者)デラホーヤとかスーパースターのレベル」
「31歳だったし、待っていてもチャンスは来ない。ボクサーは何を目指しているかというと、最強を目指しているわけじゃないですか。井上君がアマでバンバン倒してみんな対戦を逃げていると聞いていた。僕だって怖い。だけど、逃げたくない。僕には相手にはないキャリアがある。ある意味チャンスだと思った」
「井上君も5回以降、特に7回以降は『ハア、ハア…』と息が上がってきた。右拳も痛めているし、やっぱり初の日本人対決で警戒心や緊張感があったはず。それに僕が打たれ強くてびっくりしたと思う。『なんで倒れないんだろう』と困惑しているのが分かりましたから」
「僕の試合を見て『感動しました』『泣きながら試合を見ました』と書き込みがあったり、ファンレターが来たことです。結果として、僕はチャンピオンになれなかった。だけど、もしかしたら人を感動させることって、チャンピオンになるより、難しいことかもしれない。強くて凄いボクサーはたくさんいる。でも感動させられるボクサーはなかなかいない。それができただけでもよかったなと思うんです」

そして、佐野は井上についてこのように語った。


「井上君はパワー、スピード、距離感、技術、柔軟性、目の良さ…全部素晴らしかった。でも、一番凄いのは心だと思う。あのとき20歳ですよね。あれだけ注目されても、周りのことは一切気にならない。格好をつけることもしない。自然なんですよね。落ち着いているんです。それって実はすごく難しいことだと思う。あんな風には誰もできないですよ」
「試合をしてくれてありがとうございました。誇りに思っています、ということです。しかも日本人で僕が最初ですもんね。あのとき、僕ができることはやりきった。一生、忘れられません」


プロボクサー井上尚弥と佐野友樹の凄さを痛感すると同時に、取材対象にどこまでも寄り添い続ける著者の森合正範のスタンスも素晴らしくて、本当に良質なスポーツノンフィクション記事だった。

思えば、私はプロレスファンになってからずっと活字でプロレスや格闘技、スポーツの試合やドキュメンタリーを読み続けてきた。

かつてスポーツ総合誌Number(文藝春秋)でこれまで綴られてきた珠玉の名コラムを4冊の書籍にまとめた『Numberベストセレクション』を読んだ時は衝撃を受けた。実力のあるフリーライターやスポーツライターが描くスポーツの記事はどれも面白くて、個性的。起承転結がしっかりしていて、一本の短編映画を見た気分に陥った。

あの衝撃や感覚は情報化社会、書き手のクオリティー低下や人材不足もあったりさまざまな要因で、味わう作品に出逢う機会が減っている。

私のような恩人はいるものの、特定の師匠や先輩から文章のいろはを教わったわけではなく、現場での取材経験も乏しく、独学でライター業をやっている人間が、プロレスやエンタメを中心に執筆できているのはある意味、今の時代だからではないだろうか。20世紀ならば恐らくライターとして世に出ることはなかっただろう。

つまり今の時代に本当の意味で凄い文章を書けるライターはいるのか。いることはいる。それでもその数は減少傾向だと私はとらえている。

それでもごくたまに全身に雷が落ちるような記事や作品に出逢うことはある。その中のひとつが森合が書いた「井上尚弥に敗れたボクサー」の記事だった。

『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』

あれから5年後の2023年。この企画を書籍化するという話を聞いた時、これは間違いなく「神作品」になると確信した。

「井上尚弥に敗れたボクサーたちを負ったノンフィクション」という段階で、斬新で興味深いものをひとつの書籍にまとめるものに仕上がったということは、それだけで成功である。

後は期待通りの作品になるのか、期待値を超える作品になるのか。その二択である。

著者の森合と編集者の阪上大葉によるSNSを使った予告が展開。本のタイトルもSNSで事前に公開、表紙の写真も何パターンか用意して「どれがいいのか」を問いかけた。そうすることでプロモーションにもなるし、制作過程を読者になるかもしれないSNSの利用者との共犯関係も築ける。書籍における令和のプロモーション手段である。

こうして完成したのが『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ/森合正範』(講談社)である。

井上尚弥選手が「楽しみにしていた一冊」とツイートして話題沸騰! 発売前重版に加え、発売初日に3刷決定!
「みんな、井上と闘うなら今しかない。来年、再来年になったらもっと化け物になる。歯が立たなくなるぞ」
2013年4月、井上尚弥のプロ3戦目の相手を務めた佐野友樹はそう叫んだ。
それからわずか1年半、世界王座を計27度防衛し続けてきたアルゼンチンの英雄オマール・ナルバエスは、プロアマ通じて150戦目で初めてダウンを喫し2ラウンドで敗れた。「井上と私の間に大きな差を感じたんだよ……」。
2016年、井上戦を決意した元世界王者・河野公平の妻は「井上君だけはやめて!」と夫に懇願した。
WBSS決勝でフルラウンドの死闘の末に敗れたドネアは「次は勝てる」と言って臨んだ3年後の再戦で、2ラウンドKOされて散った。
バンタム級で史上初となる4団体統一を果たし、スーパーバンタム級初戦となったフルトン戦で2団体のベルトを獲得。2023年12月26日に4団体統一戦を控えた「モンスター」の歩みを、拳を交えたボクサーたちが自らの人生を振り返りながら語る。強く、儚く、真っ直ぐな男たちが織りなす圧巻のスポーツノンフィクション。

【本書の内容】
プロローグ
第一章 「怪物」前夜(佐野友樹)
第二章 日本ライトフライ級王座戦(田口良一)
第三章 世界への挑戦(アドリアン・エルナンデス)
第四章 伝説の始まり(オマール・ナルバエス)
第五章 進化し続ける怪物(黒田雅之)
第六章 一年ぶりの復帰戦(ワルリト・パレナス)
第七章 プロ十戦目、十二ラウンドの攻防(ダビド・カルモナ)
第八章 日本人同士の新旧世界王者対決(河野公平)
第九章 ラスベガス初上陸(ジェイソン・モロニー)
第十章 WBSS優勝とPFP一位(ノニト・ドネア)
第十一章 怪物が生んだもの(ナルバエス・ジュニア)
エピローグ

【著者略歴】
森合正範(もりあい・まさのり)
1972年、神奈川県横浜市生まれ。東京新聞運動部記者。大学時代に東京・後楽園ホールでアルバイトをし、ボクシングをはじめとした格闘技を間近で見る。卒業後、スポーツ新聞社を経て、2000年に中日新聞社入社。「東京中日スポーツ」でボクシングとロンドン五輪、「中日スポーツ」で中日ドラゴンズ、「東京新聞」でリオデジャネイロ五輪や東京五輪を担当。雑誌やインターネットサイトへの寄稿も多く、「週刊プレイボーイ」誌上では試合前に井上尚弥選手へのインタビューを行っている。著書に『力石徹のモデルになった男 天才空手家 山崎照朝』(東京新聞)。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000382821

ちなみに改めて井上尚弥というボクサーがいかに凄いのか。彼の経歴を紹介すると…。


井上尚弥(いのうえ・なおや) 1993年(平5)4月10日、神奈川・座間市生まれ。相模原青陵高時代にアマ7冠。12年7月プロ転向。国内最速(当時)6戦目で世界王座(WBC世界ライトフライ級)奪取。14年12月にWBO世界スーパーフライ級王座を獲得し、史上最速(当時)の8戦目で2階級制覇。18年5月にWBA世界バンタム級王座を獲得し、国内最速(当時)の16戦目で3階級制覇。19年5月にWBA、IBF世界バンタム級王者に。同年11月、WBSSバンタム級トーナメント優勝。22年6月にWBCバンタム級王座を獲得、同年12月にWBOバンタム級王座を獲得し、アジア・日本人初の4団体統一に成功した。階級を上げた初戦、2023年7月にWBC、WBO世界スーパーバンタム級王者に。164.5センチの右ボクサーファイター。

https://www.nikkansports.com/m/battle/boxing/naoya-inoue/people/#google_vignette


「日本ボクシングの最高傑作」「モンスター」「怪物」と呼ばれ、世界で最も権威あるアメリカのボクシング専門誌「ザ・リング」のパウンド・フォー・パウンドランキングで日本人史上初の1位という評価を獲得。

元世界3階級王者の長谷川穂積は、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』の井上特集で「スピード5、テクニック5、ディフェンス及びパンチを避ける能力5、アマチュアを含めた経験5、パワーがマイク・タイソン。」と語った。

強い、いや強すぎるボクシングの怪物である。ボクシングで闘うために生まれ育ってきたのが井上尚弥という男である。

そもそもこのような井上に敗れたボクサーたちの物語が書籍化されるのも異例。そしてこのような企画の場合は大概は崇められる相手も敗れたボクサーも引退しているケースが通常だと思われるが、井上は現役バリバリの世界4階級王者。その偉業はレジェンドながら、現在進行形。どんな形容詞にも当てはまないかもしれないが、まさに彼はヤング・リビング・レジェンド(若き生ける伝説)なのだ。


率直な感想


まずは率直な感想をお伝えしたい。期待値を遥かに越えた「神作品」だった。

『怪物と出会った日』はその作品そのものが、著者と編集者の執念が籠もったスポーツノンフィクションの怪物。井上尚弥というリアルタイムで驀進している無敗の最強王者の凄さを敗者の物語で紡ぎ、もはや井上尚弥自身が歴史上の人物になっているような感覚に陥る。

著者・森合の書き方には現実を冷静沈着に綴るリアリズムと取材対象への優しさが垣間見える。山際淳司、沢木耕太郎、中田潤、後藤正治…。ボクシング専門ではない作家やライターさんのボクシング記事には読み手の心を掴むクセの強さがあった。森合には読み手の心を掴む保温感があった。これがスポーツノンフィクションにおいてやや異質に感じた。

ではなぜこの本が「神作品」なのか?ここからが本番である。『怪物に出会った日』が作品としても怪物だったということを各章ごとに書評していきたい。これはレビューではあるが、この本を読み進めながら物語に入り込んでいった私の想いもやや入ったnoteである。とにかくこの本には読み手に没入感を与え続けた凄まじい作品だった。


プロローグ


2018年10月7日横浜アリーナで行われたプロボクシングバンタム級最強決定トーナメント『ワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)』一回戦で、WBA世界バンタム級王者・井上尚弥は挑戦者の元世界王者ファンカルロス・パヤノを僅か70秒でKO勝ちを果たしたこの日。取材に訪れた東京新聞記者・森合正範はある恐怖感と格闘していた。

「井上尚弥の凄さを記事で伝えられるのだろうか…」

そしてありきたりの言葉を並べた原稿で井上の試合を綴った。 

井上尚弥は強い、凄い、とんでもないボクサー。だが何がどう凄いのかを分からない自分がいた。後日、森合は編集者の阪上大葉にこう伝えた。

「井上尚弥と同時代に生きていて、しかも取材をできるなんて、すごく幸せなことだと思うんです。でも…俺、書けていない…。伝えきれていないんです。というか、恥ずかしながら、井上尚弥の強さが何かもよく分かっていないんです」

井上尚弥に敗れてきたのはボクサーだけではない。井上を含めて数多くのボクシングの試合を見続けて記事を書き続けてきた記者も「井上尚弥の凄さを伝えられていない」という屈辱を感じていた。井上尚弥に図らずも記者にも敗北感を味わせていたのかもしれない。

すると阪上が森合に「だったら、対戦した選手を取材していったらどうですか。怪物と闘った相手に話を聞けば、その凄さが分かるんじゃないですか」と提案する。素晴らしい名アイデアと同時に過酷な難題。

全勝街道をひた走る井上と闘ったボクサーは全員敗者。そして、著者の森合もある意味、敗者。あまりにも残酷。   

すると森合は自らの原体験を綴り始める。勉強が嫌いで学校で遅刻や早退を繰り返していた学生時代はひたすらボクシング専門誌に読み耽るほどボクシングファンだった。後楽園ホールでバイトをしていた兄が「もし大学に合格した後楽園ホールのバイトできるぞ」という一言に発奮し、大学合格。大学入学直前から後楽園ホールのバイトを始める。ボクサーにグローブを手渡し、使用後には回収するという「カギ番」と呼ばれる仕事をしていく。時には敗れたボクサーのグローブを回収することもある。そこには試合に敗れて悔し涙を流すボクサーもいた。この一戦のためにどれほどの努力と練習を積み重ねてきたのか。

深く傷ついた敗北をボクサーに語らせるほど酷な話はないのかもしれない。人によってはトラウマかもしれないし、思い出したくないかもしれない。

「井上尚弥の強さとは何か?」
「井上尚弥の凄さとは何か?」
「ただし、現役ボクサーに話を聞くわけにはいかない。リングを去った者にしか問うてはいけない事柄。それが最低限の礼儀」

井上に敗れた者たちと出逢い、その答え探しの旅に出ることを決意した森合には最初に取材するのは彼しかないと目星をつけていた。


ハッキリ言おう。
もう既に期待値を超えている。
間違いなく凄まじい作品だ。


第一章 「怪物」前夜(佐野友樹)

2013年4月16日後楽園ホールで行われた井上尚弥プロ第3戦。対戦相手は日本人ボクサー・佐野友樹。これまで外国人2戦を圧勝して迎えた初めての日本人対決は、フジテレビ系でゴールデンタイム中継で流れた。

「これからスーパースターになる選手を見届けよう」

放送内で井上をこのように紹介していたのを私は記憶している。そして佐野戦は好勝負だったことも。

この本は佐野の物語に60ページを割いている。森合の筆力からすると佐野のノンフィクション作品にも仕立てることは可能だったのではないかと思わせるほど第一章は素晴らしい。

佐野が井上戦に至るまでどのような人生を歩んできたのか。井上戦が決まり当日までどのような日々を過ごしてきたのか。そして井上戦が終わってから佐野はどのような人生を送っているのか。井上戦以前と井上戦以後の佐野友樹の人生が森合の取材と時折の寄り添いによって明確にあぶり出されていく。 

佐野は「チャンピオンでもない僕の話を聞いてくれてありがとうございました」と森合によく言っていたという。よくよく考えるとチャンピオンになれないボクサーの物語はあまり読まれる機会はない。それだけでもこの本は異質である。


また佐野の周辺関係者への取材も丹念に行っていて、井上に敗れたボクサー証言集の域には収まらないの。この本全体的に言えることだが、実は主役は井上尚弥ではなく、井上尚弥に敗れた男たちなのだ。それを明瞭に提示したのが第一章の佐野回だったのではないだろうか。


第二章 日本ライトフライ級王座戦(田口良一)




2013年8月25日神奈川・スカイアリーナ座間。井上尚弥プロ第4戦は日本ライトフライ級タイトルマッチ。佐野を破り、ランキング1位となった井上。対戦相手はかつてプロ入り前の井上にスパーリングで圧倒されたという苦い過去を持つ王者・田口良一。

スパーリングでボコボコにされたトラウマから立ち上がり日本王者となった田口は井上戦に敗れたが、2団体統一世界王者となった。井上戦を糧にボクサーとして成長していった田口は引退会見で「井上戦があったから世界王者になれたと思います」と語った。そして「井上戦でダウンをしていない男」という称号は世界王者と共に引退後のトレーナーとしての人生に大いに役立っている。

佐野回は泥臭くてスポ根のような世界観だったが、田口回は爽やかなミントのような匂いが漂う世界観で描かれていて同じ本とは思えない。ボクサーの個性の違いが、森合の文章から良く伝わる気がする。


第三章 世界への挑戦(アドリアン・エルナンデス)


2014年4月6日東京・大田区総合体育館。井上尚弥プロ第6戦はWBC世界ライトフライ級タイトルマッチ。

これまで日本人ボクサーを主に取材してきた森合がメキシコ取材を敢行。お目当ては井上初の世界戦の相手となった元WBC世界ライトフライ級王者アドリアン・エルナンデス。

この回で印象に残ったのは、トレーナーの元世界二階級王者ルペ・ピントールが時間をなかなか守れなかったエルナンデスに対して何度も怒鳴った理由について語った「ボクシングというのはさまざまなプロセスを経て、長い年月をかけて技術を磨き、選手に合ったスタイルを築き上げていくものなんだ。規律を守らなければ、毎日毎日のプロセスを踏めないし、計画通り進めることができない。すべての土台になるのは規律だよ」という言葉を聞くと「さまざまなプロセスを経て、年月をかけて技術を磨き、自分に合ったスタイルを計画通りに築き上げてきたその極みが井上尚弥なんじゃないのか」と感じた。

この本では井上の対戦相手やジムのトレーナーは井上の長所をそれぞれの視点で語り分析している。どの分析も的を得ているものばかり。恐らくトレーナーからすると井上ほど分析しがいのあるボクサーはいないのかもしれない。そしてどれもが井上尚弥の凄さのほんの一部でしかないような気もするのが、井上の恐ろしさである。

井上に敗れたエルナンデスは世界王座だけではなく、さまざまなものを失った。酒に溺れ自堕落な日々を過ごし、婚約者もトレーナーも離れていった。そして定職にもつけていない。ずっと井上戦の敗北を引きずっていて生きているエルナンデスだったが、取材後に「最初はあの負けた試合のことを話すのかと思って、本当は嫌だったんだ。だけどね、きょうはとても楽しい一日だった。久しぶりに楽しかったよ。会えてよかった。こんな僕のことを思い出してくれてありがとう」と森合に語った。



井上尚弥と闘うことは人生が激変する。それはエルナンデスの人生が象徴的である。


第四章 伝説の始まり(オマール・ナルバエス)



2014年12月30日東京体育館。井上尚弥プロ第8戦は、二階級上げての世界戦。WBO世界スーパーフライ級王者オマール・ナルバエスは世界二階級王者で、アルゼンチンの英雄。しかも二階級の防衛回数がトータル27回という記録を持つ勝ち続けてきたチャンピオン。しかもプロ・アマ通じて約150戦でダウンしかことがない。この名チャンピオンに挑戦者の井上はまだキャリア8戦目。無謀と言われたこのタイトルマッチが2ラウンドでなんと井上のKO勝ち。世界最短で二階級制覇を果たした井上の歴史的勝利により「井上尚弥の時代」の幕開けを予感させた。

井上に敗れたナルバエスは今、ユース世代のアルゼンチン代表コーチとして後進の育成に励んでいる。

井上戦以前と以後の歩みを語ってくれたナルバエスだっだが、終盤にこのような投げかけをしている。    

「世界戦で実力差を見せつける。これはとても難しいことであり、凄いことなんだよ」
「一つ残念なことは、メディアは井上がリング上で繰り広げていることをいとも簡単にやっているように扱ってしまうことだ。でも、決して簡単ではない、ということを分かってほしいんだ」

井上の圧倒的な強さだけにスポットを当ててメディアはそこばかり取り上げる。だがその圧倒的な強さの背景には目に見えないところは壮絶な努力と練習と研鑽を積み重ねているからこそ成し得ることができるのだとナルバエスは言いたかったのかもしれない。

「井上尚弥の凄さを伝えきれていない」という悩みを持ち、井上に敗れたボクサーに取材をしてきた森合にとっては耳の痛い言葉だっただろう。

そしてナルバエスは井上に次のようなメッセージを送っている。

「あなたと闘えたこと、すごく光栄に思っています。井上に負けたというキャリアも素晴らしいものになりました。そして今、井上の試合を見られることを嬉しく思う。私にとって、パウンド・フォー・パウンドの一位です」

メディアへの苦言もありながらも、プロとしての心構え、防衛ロードを突き進み続けるチャンピオンの難しさを感じる回だった。


第五章 進化し続ける怪物(黒田雅之)



元日本二階級王者・黒田雅之は井上尚弥と対戦した経験はない。だが、彼こそ井上尚弥と最もスパーリングを重ねた男。井上のプロテストでも相手を務め、当時日本王者だった黒田は井上に圧倒された。


井上のスパーリングパートナーになる機会が多かった黒田の井上評はかなり興味深い。

「当たり前のことをやっているんですけど、全部の動きでクオリティを極限まで上げていくと、同じボクサーから見ても、何をやっているのか分からなくなるんです」
「先にアクションをしようとしたら、既にバックステップしていて、もう届くところにいなかった。例えば、右ストレートを打とうと思ったら、打つ前なのに、既にガードの手がその位置にあったりとか。やろうとすることが全部先回りされるようで、心を読まれているなと感じました」


日本王者になったが、世界王者になれなかった影の実力者・黒田は2022年1月に引退。

「現役17年。彼に生かされた。長生きさせてもらいました。彼とやっていなかったら、日本王者の二階級制覇もなかったし、二度目の世界挑戦もなかった。もっと前に引退していたと思います」

井上尚弥のスパーリングパートナーとして、怪物の進化を体感し続けた黒田のボクサー人生もまた井上によって生かされていたのかもしれない。

第六章 一年ぶりの復帰戦(ワルリト・パレナス)


2015年12月29日有明コロシアム。井上プロ9戦目はWBO世界スーパーフライ級王座初防衛戦。対戦相手となったのはフィリピンのワルリト・パレナス。

パレナスの物語は「家族のため、お金のために」ボクシングにすべてを賭けた男の人生がいい意味でも悪い意味でも凝縮されている。これはアジア系やアフリカ系のファイターに多い傾向だなと感じた。また日本に出稼ぎに来たり、日本のジムに所属する外国人ファイターにとっても、色々な意味で「あるある」が詰まっていて、読み進めていって「これ他のファイターでも聞いたことがあったりするな」と置き換えて考えてしまった。

「家族のため、お金のため」というモチベーションでボクシングのリングに上がることは悪くはないし、素晴らしい。だがそれだけではチャンピオンにもなるのは難しく、またチャンピオンになったとしてもその強さを継続するのも難しい。ハングリーであり続けるのは難行でもある。
 


第七章 プロ十戦目、十二ラウンドの攻防(ダビド・カルモナ)


2016年5月8日有明コロシアム。井上尚弥プロ10戦目。WBO世界スーパーフライ級2度目の防衛戦の相手はメキシコのダビド・カルモナは引退はしていないものの、精彩を欠いている。

井上はプロ入りから強すぎるがゆえに数多くのボクサーから対戦を敬遠されてきていたが、カルモナは井上をターゲットにして研究を重ねてきたこともあって、打倒井上に燃えていた。

「井上はスピード、パワー、ゲームメイク、さまざまな要素で高いレベルにある。最も目を引くのは電流がほとばしるようなパワー。彼の勁さをリングで体感したいと思っていたんだ」

結果は井上のパンチを何度も食らってもカルモナは倒れなかったが、最終12ラウンドでダウン。結果は判定で敗れた。

「負けても、井上を相手にこれだけの試合を見せたんだ。またビッグな試合、もしかしたら面白いオファーだって来ると思った」

井上戦で充実感を得てしまったのだろうか。その後のカルモナは勝ったり負けたりの繰り返し。体重オーバーで失格になったり、たるんだ腹で試合をして惜敗したこともあった。まるで彼のボクサー人生はどんどん転落していく。

それでもカルモナは引退はしない。なぜならば「井上という存在が、今の僕が引退しない理由」だという。井上はどんどん世界のスーパースターに駆け上がっていくその姿をカルモナはどのような想いで見つめていたのか。尊敬なのか、ジェラシーなのか。






第八章 日本人同士の新旧世界王者対決(河野公平)


2016年12月30日有明コロシアム。井上プロ12戦目の相手は元世界王者・河野公平。WBO世界スーパーフライ級タイトルマッチは日本人対決。

アマチュアボクシングのエリートでアマチュア7冠を引っ提げてプロ入りした井上とアマチュア経験がない河野。華麗なオールラウンダーの井上と地道に泥臭く闘う河野。どこまでも対象的な二人の試合は6ラウンド井上のKO勝ちで終わった。

河野は2018年に引退する。彼にとって井上とは?

「今までたくさんの世界王者とやってきたけど、スピードは一番、パンチも一番、パワー、ディフェンス、フットワーク、リズムもいい。全部がバーンと抜けている。普通はパンチがウマい人はディフェンスが悪かったり、どこか欠けている部分がある。みんな井上君みたいな動きをしたい。僕だってそうしたい。でも、できないから今のスタイルになっている。だからボクサーの理想なんですよ」

そして河野もまた「僕と闘ってくれて感謝しています」と語っている。井上尚弥と闘ったことを多くの敗者が誇りしている。河野もまたそのひとりのようだ。


第九章 ラスベガス初上陸(ジェイソン・モロニー)



2020年10月31日アメリカ・ラスベガス・MGMグランド。井上プロ20戦目でいよいよ「ボクシングのメッカ」アメリカ・ラスベガスに進出。ここでWBA&IGF世界バンタム級タイトルマッチが行われた。対戦相手のジェイソン・モロニーもまたカルモナと同様に現役ボクサーである。

コロナ禍で開催された井上の防衛戦は井上のKO勝ち。「攻めないと勝てない」と感じたモロニーが前に出た時に右のカウンターが炸裂し、キャンパスに沈んだ。

モロニーは井上の凄さについて「驚いたのはスピード。尋常じゃなくて速かった。特にハンドスピードは信じられないほど素早かった。パワーも恐ろしかった。距離感、スピード、タイミング、パワー…。パーフェクトだよ。でもね、何より畏いんだ。一番の驚きは『賢さ』だね。知らぬ間に自分はコントロールされていた」

自分が動いているようで、実は動かされていて井上の思う壺にハマっていく。確かにクレバーである。

このあたりからどんどん前のめりに読み進めていく感覚に陥る。私は映画館で長編のドキュメンタリー映画を見ている錯覚さえ覚えてしまった。この没入感がたまらない。


第十章 WBSS優勝とPFP一位(ノニト・ドネア)



井上尚弥のこれまでのボクサー人生において最も大一番だったといえるのは2019年11月7日さいたまスーパーアリーナで行われたノニト・ドネアとの「WBSS」決勝戦&WBA・IBF・WBC世界王座統一戦ではないだろうか。

ノニト・ドネアは世界ボクシング界のスーパースターであり、伝説のボクサー。階級も違っていたため、ドネアと井上が対戦するなんて夢物語だと思っていたのだが、ドネアが二階級を下げたことによりドリームマッチが実現したのである。

ドネアはまだ現役だ。そこで「チーム・ドネア」のメンバーである植田眞壽とJBC事務局長・安河内剛の証言を中心にドネア回は展開していく。

これは最高に面白い。ドネアは同じフィリピンのマニー・パッキャオと双璧を成すヒーロー。ドネアの素晴らしさと凄さが井上戦をどうしてもよく伝わる。また「WBSS」決勝戦で慌ただしく動く安河内の回想もスリリング。ちなみに井上とドネアの再戦も収録している。

森合は『週刊プレイボーイ』で井上にインタビューする機会に恵まれ、タイトルマッチ前の井上の話を聞いていくと、彼の不思議さに気がつく。どうやら接戦とされているビッグマッチになればなるほど饒舌になり、圧倒的有利が予想された試合ほどまはや不機嫌になる。恐らく心底強いボクサーと闘いたいのだろう。その根源は何なのか。未だにハングリーというのは彼の才能なのかもしれない。  



第十一章 怪物が生んだもの(ナルバエス・ジュニア)


この章は実現していないカードだ。井上に敗れたアルゼンチンのオマール・ナルバエスの息子ナルバエス・ジュニア・アンドレスはオリンピックを目指すボクサーとして活躍している。

父は井上に敗れた。その瞬間に号泣したジュニアは将来プロボクサーになることを決意する。ジュニアは井上のファンである。それだけ強さにリスペクトを持っている。だからこそ来たるべき未来に井上と相対する時が来るまで研鑽を続けていく親子の物語がラストチャプターで描かれている。



追う者から、追われる者へ。
井上尚弥がジュニアともし相対したときは、どのような立場になっているのだろうか。



エピローグ


2023年7月25日、WBC・WBO世界スーパーバンタム級タイトルマッチで、王者スティーブン・プラトンから8ラウンドKO勝ちを果たし、世界4階級制覇を果たした井上尚弥。森合はこれまで取材してきた井上に敗れた者たちの証言を思い出していた。

佐野友樹 「最初の一分で把握された」
ジェイソン・モロニー「知らぬ間にコントロールされていた」
田口良一「絶対に仕留めるという殺気」

井上の世界戦は当初は観客動員は芳しかったが、数々の実績や「WBSS」優勝もあったからだろう。今や彼の試合チケットはプラチナチケットと化し、毎回超満員である。

JBC事務局長・安河内剛は語る。

「ひとりのボクサーが時代、業界を変えちゃうんだから稀有な怪物です。井上選手ほど、ボクシングそのものを変えた人はいなきんじゃないですか」

森合は幾度も井上にインタビューしてきた。井上に敗れた者たちへの取材を重ねてきた。井上自身も森合が自分が勝った選手に会って話を聞いていることを知っていた。『現代ビジネス』に掲載された「井上尚弥に敗れたボクサー」の記事をなんと井上自身も読んでいた。その感想は「うーん、なんて言えばいいんだろう。どうしよう…」だった。そこには強すぎる男の敗者に対する礼儀があったのかもしれない。敗者に何を語りかければいいのか…。

エピローグに掲載されている佐野友樹の言葉。森合は幾度も佐野とコミュニケーションを取ってきた。恐らくこの本は佐野がいなければ成立していない。

「井上君と闘って燃え尽きたボクサーもいるだろうし、やりきれなかった人もいると思う。だけど、リング上で体感する井上君は特別で、一瞬居つが命懸けになる。もうね、本当に一瞬一瞬なんですよ。だから、しっかりおぼえているんじゃないですか」


そして森合は終盤の締めとしてこのような一文を記している。

「井上と闘った誰もが、絶望を味わう。だが、やがて立ち上がり、また次の闘いへと挑んでいく。怪物に敗れた男たち。彼らは敗者なのだろうか。(中略)人生の大きな勲章を手に入れて、誰もが次に進むための糧を得た。そして、私は取材を通して、彼らに心を奪われ、時に励まされているようだった。強い者に立ち向かう大切さ。敗れても、それを受け入れ、教訓にすることを教わった。五年間、何をしているときも、ずっと彼らの生き様が頭の片隅にあった」

それは森合も含めて、井上尚弥に敗北した者たちだからこそ体感することができた絶望の闇と希望の光だったのではないだろうか。
 
リングで人を倒すために存在しているボクサーの拳。だがその一方で人を活かすために存在しているボクサーの拳もある。それは結果的にも井上尚弥の拳がそれに該当しているのかもしれない。


【総評】
井上尚弥に負けた者たちの「ここまで」と「これから」を描いた怪物作品〜敗北の彼方には絶望の闇と希望の光、そして前人未到の頂を登るフェノメナール・ワンという神話が存在していた〜



凄まじかった。まさに井上尚弥の異名通りの怪物作品。井上尚弥に敗れた者たちの「これまで」と「これから」を描いたのが『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』である。


敗北の彼方に何があったのか。多くの対戦相手は井上と相対することで絶望の闇に陥る。試合前、試合後のいずれかで彼らは地獄に堕ちる。それでも彼らは敗れてもなお這いつくばって立ち上がり、希望の光を目指して掴もうとする。敗北の彼方に存在しているのは絶望と希望で、それを体験することで人間として成長していくのだ。

それは意図的ではなく、自然発生的に井上尚弥が対戦相手に与えていた「活力」ではないかと私は考えている。

敗れるということは屈辱や苦杯という部分だけではなく、そこからどう生きるのかという命題を突きつけられるものだと私はこの本を読んで痛感した。


ただこれも取材対象に寄り添い続ける森合のスタンスがあってこそ、分かった事実である。だからこそこの作品の意義が大きい。


近年、『嫌われた監督』(文藝春秋)の鈴木忠平、『砂まみれの名将』(新潮社)の加藤弘士といったスポーツノンフィクションで大ヒット作品を生み出したライターはかなり魅力的である。鈴木忠平の文章の世界観には、ハードボイルドのような無情さがあり、加藤の文章の世界観には『日曜劇場』のようなハートフルなものから、バラエティー路線までさまざまなバリエーションがある。


森合の世界観は「寄り添う」ことから生まれる透明感ではないか。鈴木と加藤からは色々と苦労があっても強さを感じる。だが森合には逆に弱さを感じるのだ。弱さも武器になるのだ。またこの本は森合の透明感が、各々のボクサーによって違う色彩となっていて、読み進めやすくて、入り込みやすいのかもしれない。

あとこの本を読み進めて感じたことがある。それは試合で一度も負けていないのに、井上もどうやら何かしらで敗北の味を知っているような気がするのだ。それは何なのかは不明だが、とにかく何かしらで彼も苦杯を舐めている。だからこそ驕りもなければ、相手を舐めたりしない。どこまでも謙虚。

井上に敗れた者たちにスポットを当てながら実は森合は井上自身の物語を描いていたように思える。誰も行ったことがない前人未到の頂を登る井上は、何もかもフェノメナール・ワン(驚異的な男)なのだ。ボクサー内で井上を例えるとすべてが高水準で無敗で引退した伝説の世界王者リカルド・ロペスになのかもしれない。

フェノメナールといえば、プロレスラーでAJスタイルズの異名である。AJもオールラウンダーで、スピード、テクニック、パワー、クレバーもすべての水準で高レベルの選手。井上を見ていると「AJスタイルズみたいだな」と感じる自分がいた。

井上がリングで起こす数々のフェノメナールによって、現代社会の伝説を超えた神話が生まれているのかもしれない。

そして、ここが肝心なのだが、結局のところ「井上尚弥の凄さとは?」「井上尚弥の強さとは?」に迫りながらも、やはりその答えはまだ明確に分からない。井上尚弥に敗れた者たちが語る分析には断片的な答えでしかない。でもそこを結論づけないで、答え探しの旅は続くという空気を漂わせていったような気がする。それもまたよし。やはり「プロレスは底が丸見えの底なし沼」で育った人間なので、容易く定義付けされるよりは、謎掛けしていった方が考えがいがあるものだ。

最後に『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』は驚異だ。作品そのものがモンスターである。その読み応えは病みつきになることだろう。



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