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驕れる者も久しからず~平家物語に学ぶ~

皆さん、わたしのnoteにご興味をいただき、ありがとうございます💁

今回は、あの有名な『平家物語』をピックアップして、自分やその周囲の人たちに照らし合わせてみたいと思います。

そして、前漢時代の学者である、賈誼かぎの『過秦論』からの名言、
『 前事ぜんじの忘わすれざるは、後事こうじの師しなり 』

「 以前あった事を忘れずに心に留めておけば、後に手本となる。 」
過去にあった事から得られた教訓は、後に物事を処理する時の参考にもなるし、よい手本ともなる、の意味。

として、踏まえ、今後の人生の糧としていきたいと思います。

平家物語 作者不詳(信濃前司行長とも)

【現代語訳】
祇園精舎

祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きをたてる。
釈迦入滅の時に、白色に変じたという沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の道理を表している。

驕り高ぶった人も、末長く驕りにふける事はできない、ただ春の夜の夢のようにはかないものである。
勇猛な者もついには滅びてしまう、全く風の前の塵と同じである。

遠く外国の例を捜してみると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の安禄山、これらの人々は皆、旧主先皇の政治にも従わず、楽しみを極め、人の諫言も心にとめて聞き入れる事もなく、天下の乱れる事も悟らないで、民衆の嘆き憂いを顧みなかったので、末長く栄華を続ける事なしに滅びてしまった者どもである。

近くわが国にその例を捜してみると、承平の平将門、天慶の藤原純友、康和の源義親、平治の藤原信頼、これらの人々は驕り高ぶる心も、猛悪な事も、皆それぞれに甚だしかったが、やはり間もなく滅びてしまった者どもである。

ごく最近では、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申した人の驕り高ぶり、横暴なありさまを伝聞すると、なんとも想像もできず十分言い表せないほどである。


ここで、驕り高ぶり慢心した結果、悲惨な末路を辿った人物をあげていきましょう。

秦の趙高
始皇帝に信頼された宦官でしたが、始皇帝が崩御した後、遺書を捏造し、胡亥を二世皇帝とし、思うがままに操り、人民を酷使しました。
怨嗟の声が国中に満ち、陳勝・呉広の反乱が起きると、丞相の李斯を殺害、劉邦が咸陽に迫ると、二世皇帝に罪を着せ殺害しましたが、三世となる子嬰によって一族もろとも処刑されました。
中国を統一した巨大帝国の秦はわずか15年で滅びました。その亡国の張本人が、この趙高だったのです。

漢の王莽
前漢、平帝の皇后の甥という外戚であり、儒教を悪用し、あれよあれよいうまに、その権謀術数で出世していきます。ついにはまだおさない皇太子の孺子嬰より、禅譲(ただしくは簒奪)を受け、新たなる新王朝の皇帝へと上り詰めました。
しかし、もともと、政治や統治能力のない彼は、度重なる失政を行い、国家は大混乱に陥ります。
各地で、赤眉や緑林の乱が勃発するも、官軍は連敗。
緑林軍にかつがれた更始帝配下の劉秀におよそ50万の大軍を仕向けて討伐に向かうも、わずか数千の反乱軍により全滅させられてしまいます。
その後、首都常安(長安)に反乱軍が突入し、王莽は惨殺されて、新王朝は一代限りで滅亡しました。

梁の朱异しゅい
南北朝時代、南朝梁の武帝の寵愛を得て頭角を顕わし、やがて国政の枢機に参画して権勢を誇りました。
548年に北朝の東魏に見切りをつけた侯景が自身の支配する州郡を手土産に南朝梁への帰順を申し出ると、その受け入れをいったんは容認したものの、侯景と梁軍が東魏に大敗すると、手のひらを返して侯景を見捨てて東魏と和平を結ぶことを武帝に勧めた。
これが侯景の立場を微妙なものとし、侯景の乱を誘発した。
朱异は首都の建康防衛の責任者である中領軍であったが、軍の指揮を執ることが出来ず、代わりに侯景と同じ降将であった羊侃の尽力で防衛される有様であった。549年、建康が侯景軍に包囲される中、病死した。享年67。

唐の安禄山
唐代のソグド系の武将。大燕国初代皇帝(在位756年 - 757年)。
玄宗(唐)の寵臣のひとりで北辺の3節度使(范陽はんよう・平盧へいろ・河東)を兼任した。楊貴妃の一族である宰相の楊国忠と対立、755年、楊国忠打倒を掲げて挙兵し、洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝だいえんこうていと自称したが病気となり子の安慶緒あんけいしょに殺された。
彼と、また別の反乱首謀者で史思明と合わせて「安史の乱」と呼ばれています。この大反乱により、唐王朝は勢力を失い、滅亡への道へと近づいていきました。

承平の平将門
桓武天皇四代の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将の子。
下総国常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。
しかし即位後わずか2カ月たらずで藤原秀郷平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)。

天慶の藤原純友
藤原純友は、藤原北家の出でしたが父を早くに失って都での出世が望めなくなり、地方へ任官しました。
当時瀬戸内海では海賊が暴れており、彼はその平定に向かったのです。
そこで彼は同じく地方任官していた人々と独自の勢力を作り上げ、京都からの派遣役人である受領たちと対立してしまい、蜂起に至りました。
彼は瀬戸内海を荒らし回りますが、最終的には博多湾における激戦を経て鎮圧されます。
純友自身は伊予(現在の愛媛県)まで逃れますが、その地で捕らえられました。
朝廷軍としてこの反乱の鎮圧を担ったのは、小野好古と源経基という人物でした。
ほぼ同時期に、関東では平将門の乱が起きており、官軍はこの関東での反乱を先に鎮圧できたことで、瀬戸内海に大軍を送り込むことができたのです。
なお、平将門の乱と藤原純友の乱を合わせて、承平天慶の乱と呼びます。

源義親
源義家の子。 従五位上,左兵衛尉。 対馬守として在任中,人民を殺害したり官物を奪ったりしたため,康和3 (1101) 年大宰大弐大江匡房に告発され,朝廷の追討を受けた。 父義家も郎等をつかわして京都へ連れ戻そうとしたが,義親は追討の官使をも殺害し,翌年捕えられ隠岐に流された。

藤原信頼
平安時代末期の公卿。 後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。 
源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、
二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。 六条河原で斬首された。

太政大臣平朝臣清盛公
1167年(仁安2年)、平清盛は、朝廷から武士として初めて「太政大臣」(だじょうだいじん)に任命されました。 
太政大臣とは律令制度における最高位の役職であり、左右大臣の上に位置する太政官の長官です。 
当時、貴族ではない人物が任命されることは極めて異例だったと言えます。
平清盛は、一代で史上稀(まれ)に見る栄華を手にしますが、彼の死後、平家の力は急速に衰えて、間もなく滅亡してしまいます。清盛の生涯と平家の命運は、ほぼ重なっているといってもよいでしょう。


かくいう、わたしも、スケールは全然小さいですが、驕った結果に失敗を犯しています。

●勉強が出来ると慢心して、予習復習も、宿題すらしないでいた。
→ コツコツ勉強している人たちに次々と負けて、偏差値は下降して、
いい大学へ進学できなかった。

●経営者として微々たる成功に甘んじて、努力を怠る。
→会社の業績が落ち、責任を取って取締役を自主退任。

●離婚後、婚活で選べる立場と思い上がり、女性を粗雑に扱う。
→結果として、誰からも理解を得られなくなった。

●高収入に奢り、物欲を満たすために高価な商品を次々と購入。
→収入が下がっても浪費癖がなおらずに自己破産する。

などなど、枚挙にいとまがありませんでした。

過去の失敗や過ちを繰り返さぬよう、謙虚にまた、常に周囲のことを考えながら、真っ当な道を歩んでいきたいと思います。



最後までお読み頂きありがとうございました😊これからも頑張りますので、良かったらスキやフォローをお願いします💖








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