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【中国史】中国という統一国家を確定した「漢王朝」は何故滅亡したのか?


皆さん、わたしのnoteにご興味をいただき、ありがとうございます💁

以前、「漢帝国」についての読書感想文を書きました。

漢といえば、「漢字」「漢民族」「漢(おとこ)」などが連想されることでしょう。

中国を初めて統一したのは、始皇帝の「秦」でしたが、皇帝の私利私欲のために巨大な阿房宮といった宮殿の建設や、大土木工事を人民に強制労働させ、また、無謀ともいえる悪法の数々に、窮地に追い込まれた陳勝と呉広と言う名もない農民の反乱をきっかけとして、全国が大動乱状態に陥り、項羽と劉邦の手により、秦帝国はわずか15年で瓦解して滅亡しました。

その後、秦を反面教師として樹立された「漢」王朝。
高祖・劉邦の「前漢」光武帝・劉秀の「後漢」あわせて、約400年の長期王朝となりました。
その後漢を継承した、劉備の「蜀漢」は統一の夢は果たせずに、魏により簒奪されて滅亡。ここに完全に劉氏の血脈は途絶えることとなりました。

歴史に、もしも(if)は禁物ですが、仮に、劉氏の「漢」が、滅びることなく、中国の永続的な政権であったのなら、どうなっていたことでしょうか。

「漢」は、後継の王朝のお手本となっています。

歴代長命王朝の「唐」「宋」「明」「清」は、過去に繁栄した、
漢王朝を偲び、「徳のあった王朝」としての鏡としてみていました。

明の開祖・朱元璋は、高祖・劉邦の如く振る舞い、天下を統一。
モンゴル(元)を北方に追いやりました。
唐の太宗、宋の太祖、清の康熙帝といった名君たちは、「光武帝の皇帝としての資質やあり方」について、常に臣下と議論していました。

そのような、漢が滅亡した理由について、北宋時代の史家である、司馬光が、「資治通鑑(しじつがん)」という編年体の史書にこう記してあります。

司馬光 (1019年11月17日(天禧3年10月18日) - 1086年10月11日(元祐元年9月1日))

『資治通鑑』は紀伝体全盛の当時にあって、敢えて経書春秋編年体に倣って製作された歴史書である。春秋の後から宋の前の五代に至る迄を扱ったこの書は、皇帝よりの便宜の賜でもあるが、当時の史学者の第一人者劉恕や漢代史の著名研究者劉攽、弟子の范祖禹(唐を担当したとされる)らの助けを得て、当時集め得る史料を網羅した資料集を造り、更にそれに司馬光が手を加えるという方法を以て製作されたものである。書名の通り、皇帝の治世の道具のために書かれたものであるが、司馬光の名も手伝って好評を博した。

ここからが、本文の引用となります。

臣光曰く、
 教化というのは国家の急務だが、平凡な役人が手抜きにするもの。風俗は天下の大事だが、凡庸な君主はおろそかにするもの。

 いったい賢い君子は学識深く遠きはかりごとをなすので、後の時代になってその功績の遠大さがわかるのである。

 光武帝は漢が衰える時代におり、群雄が並び立つなか民間からことを起こし、漢の事業を受け継ぎ四方を征伐し、続いては休むことなく、儒学を重んじ、学校を開き、礼学を起こすなど、武功成って文徳もまた広めた。

明帝と章帝が先帝の志を継ぎ辟雍に参加して老人を尊敬し、学問を学んだ。

公卿や大夫から郡県の官吏まで、経学に明るいもの、行いのよいものを選び用い、親衛隊の兵士には『孝経』を学ばせ、匈奴の子弟も太学に留学し、教えを指導者に行うことにより、民衆の風俗が作られた。

 その忠義静修の士は、ただ士大夫だけでなく民衆にも慕われ、愚かで行いの悪いものは、朝廷に入れないだけでなく、郷里でも見捨てられた。

 いにしえの三代(夏・殷・周)がすでに滅んで後、風化の美しさが東漢(後漢)のようにすばらしかったことはないのである。

 和帝以降、皇族が権力をほしいままにし、側近の人物が用いられ、賞罰はでたらめ、賄賂が横行し、賢愚も区別されることなく、真実と嘘が混乱し、まさしく乱世となった。

 しかしなお細々と長く滅びに至らず、上には公卿大夫として袁安、楊震、李固、杜喬、陳蕃、李膺らが朝廷で争い大義をもって危機を救おうとし、下は民間の符融、郭泰、范滂、許劭のたぐいが論を立てて失敗を救おうとした。

これらは政治は乱れていたが風俗は衰えていなかったことを示している。刑罰を恐れず、倒れても前進し、忠義に奮い立ち、次々と後に続く者がいた。

処刑場に引き出されても、まるで家に帰るようで、死を恐れることがなかった。彼らは特別に賢い人たちだったのであろうか?

 いやこれはまさしく、光武帝、明帝、章帝の残したものである。もしもこのとき明君があらわれて、回復をはかったならば、漢氏の末裔はいつまで続いたかわからなかっただろう。

 不幸して受け継ぐものがなく、桓帝や霊帝のような暗君が続き、悪人どもを養ってしまい、親戚のみを大事にし、忠良を滅ぼし、彼らを仇のように扱った。志士たちの憤りはつもり重なり四海を覆い尽くした。

 このとき何進が、異民族を呼び入れ、董卓がその隙に乗じ、袁紹などもそれを幸いとしたため、ついに皇帝は逃げ出すこととなり、宗廟は廃墟となり、王室は転覆し、民衆は苦しみを舐め、天命は失われ、救うことはできなくなった。

 しかし、州に割拠して独立したものはお互いを滅ぼしあったが、それでも漢室を大切しないことはなかった。

魏武帝のような暴虐な者も、天下に大功を立てて君主を無視する心がありながら、敢えて漢室を廃して自立しようとはしなかった。それはその気持ちがなかったからであろうか? 

そうではない、名目が立たないことを恐れて、自制したのである。

 これからみるに、教化はのんびりはできぬし、風俗もおろそかにしてはいけないのである。


伝説の聖王たちと光武帝・明帝・章帝を同格とし、二百年後の曹操が漢を滅ぼすのを恐れたのをその力と考えているのだから、司馬光がいかに光武帝を高く評価しているかは驚くべきものがある。

※ もしも後漢後半期に一人でも名君が出ていたなら、

劉家は日本における天皇家のような存在になったかもしれない。

サムネ画は、左が、陰麗華(光烈皇后) 右が、劉秀(光武帝)
中国のドラマ 『秀麗伝~美しき賢皇后と帝の紡ぐ愛』より

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