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いのちの居場所


家内のお茶とお花の先生から薦められた本で、家内が読み終えて山のような付箋をつけた状態で手渡してくれた。

帯にある「生きているそれだけで価値がある」という言葉が目に止まった。

著者である稲葉俊郎先生は、軽井沢という場所に魅せられ、現在、軽井沢病院の院長。
西洋医学のいのちのとらえ方に戸惑いが生まれ、ホリスティックな視点の治療法にも目を向けられた。
医療と芸術との接点にも注力されており、自ら実践されてきたことに裏づけられた言葉であり、とても説得力がある内容になっている

https://www.fusosha.co.jp/books/detail/978459408878


本文の各見出しのタイトルがとても惹きつけられる表現で、著者の言葉を大切に吟味して使うという姿勢がそこにも表れている気がした。
断片的ですが、私が心に響いた箇所を引用し、コメントをさせていただきました。


「ありのままを受け入れ、未来へつなげる」
 「さようなら」と似た「さらば」は「左様であるならば」を略した言葉であり、「左様であるならば」は、「そのようであるならば」という意味になる。
自分の中に流れる感情や自分と相手の間に流れる感情を、お互いの関係性の中で起きたことを「そのようであるならば」とありのまま受け止める。そうした態度が「左様であるならば」、つまり「さようなら」という言語表現として伝えられてきました。

 日本の文化は、何か特別なことをしなくとも日常の言葉を交わすことにおいて自然と現実を受け入れる思念が含まれていることを知り、改めて日本語の豊かさ、抽象度の高さに驚かされた。
そのようであるならばという意味合いを意識して「さようなら」を言うことで、私自身の現実の受け止め方も変わっていく感じがした。


「異物である「あたま」と付き合う」
  広い視点を保つには、人生という一回きりの本番の中で、「あたま」の使い方を練習する時間が必要です。テレビカメラのスイッチワークのように、見ている画面をカチカチと切り替えらっるようになると、視点は複眼的になります。客観と主観をあわせ持つことで状況を観察(客観)しながら体験(主観)できるようになります。能楽の舞台において、日々の稽古が必要なことと同様に、こうしたことは日々の積み重ねによって当たり前のことになります。

異物である「あたま」との付き合いとは、大脳が肥大化した人間のみの問題であり、このことにより多くの問題や病気が生まれてくるということは多くの方が既に語られてきている。
しかしながら著者は具体的にその人間がどうしたらうまく大脳と付き合えるのかということを日々、実践を重ね、その実践を通した言葉で表現されているため、とても説得力をもって伝わってくる。
客観しながら体験するという行為はおそらく、他の日本古来からの伝統的な道として残されているお茶や武道の型に残されているように思う。


「客観視」の距離が治癒を生む
自分の人生を全体的な視点でつかみつつ、この一日一日を受け止め直してみることは、人生を客観的な視点で見ない限り難しいものです。解決困難だと思えた多くの悩みは、新たな視点を得ることで乗り越えていくことができます。これまでにも困難を乗り越えた経験は、小さいレベルを含めればたくさんあるはずです。思い返すと、そうした過去の経験の中にこそ次の困難を乗り越えていくヒントが含まれていると思います。

具体的にフィンランドから伝わっているオープンダイアローグという対話式の治療方法の例なども紹介されており、対話を通して自分の状態を俯瞰して観ていくというプロセスである。
私自身がホロスコープを学ぶことを通して自分自身の感情や出来事が物語として俯瞰して観ることができるようになり、結果としてとても楽に暮らしていけるようになったことと重なった。


「心の世界を「言葉」に変換するのは高度な技術
わたしたち人間の「言葉」のやり取りは、かなり高度なものです。
形にならない感情や思いを適切な言葉を当てはめる作業は、そう簡単なものではありません。言い過ぎたり言い足らなかったりしながら、しっくりする言葉を探すには相応の訓練を要します。


感情や思いを言葉にする作業は、簡単なようで本当にしっくりと言葉で表現できているか見極めていくのは難しい。
できるだけ自分の意図が働かないよう、直観が働かくように意識しているが、言葉の選択が十分吟味されているかという視点は意識していきたいと思う。

言葉の力で自分の原点へ降り立つ
深い記憶の奥底にある原体験としての内的世界を辿っていくという行為は、文章を書く行為があったからこそ辿りつけた深い場所だとも思いました。文章を書くことは自分の原点、源、初心に戻る行為をも可能にします。言葉を錨のようにしながら深い海に潜るのです。真剣に文章を書いてみることは、どんな人にもお薦めしたいとも思います。

昨年夏からnoteに自分の感じたことを表現していくことを始めた。
まさに上記の内容のとおり、言葉で表現していくことで自分自身の歴史が紐解かれていく感じがある。
言葉を錨のようにしながら深い海に潜るという表現はとても文学的であり、海はまさに無意識の海である。
私自身、言葉を錨として沈めてもうまく言葉にできないことが多いが、それはそれでいいように思う。
うまく言葉に表現できなくとも言葉の背後に言葉ではないその人らしさが伝わっていく。


「対話」こそが「くすり」になる
人が心理的に追い詰められて困っているときには、考えも言葉も狭い場所をグルグルと回っていることが多く、それは「いのち」の力が動けるスペースがなくなっていることが原因です。人の「こころ」は、巨大な空間のような場です。生きているといろいろな困難が舞い込みますが、そうした体験が、「こころの空間」にどう位置づけられるかによって、その困難さを乗り越えることができるかが変わります。

現実社会へ適応できず社会での居場所が見つからない次男の姿が浮かんだ。
彼は魚座要素が極めて強く3室双子座(表現、コミュニケーションの部屋)に土星がおり、その土星に冥王星が180度のアスペクトを形成している。
感じたことをなかなか言葉では伝えられない彼の苦しさ、もどかしさ。
私は11室山羊座土星で対人関係が苦手で、さらにそこに冥王星が120度のアスペクトが形成されて、青年期はコミュニケーションがうまくいかないことを真剣に悩み苦しんでいた。
社会での経験を通して、その悩み、苦しみの割合、質がどんどん変化してきた。

次男もまた、表現、コミュニケーション領域での制約と軋轢が多いだろうが逆に11室の水瓶座には惑星がステリウムであり、山羊座社会からの軋轢の残りが吹っ切れていけばまさに水瓶座時代の関係性が築いていけると思う。

「いのちの居場所」は、まさに本来はひとりひとりが輝いていける存在であり、自分の現実をひとつの物語として俯瞰していく姿勢で観ていくことでどんな人も居場所が確かに在るということを認識させてくれた


梨剥くや授業を受けたくない子にも




※俳句と写真日記を毎日更新中

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