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シュミットの「友敵論」を乗りこえるために

 皆さんは20世紀のドイツの政治・法学者のカール・シュミットをご存じだろうか。ナチスに協力したということで評価は低かったのだが、近年ネオコン=新保守主義者に発見されその研究論文も増えている。彼の代表的な理論は「友敵理論」と呼ばれるものである。シュミットは政治を「友か敵かを区別するもの」と定義付ける。そこには経済とか道徳のような別の概念は介入せず、その区別はどんどん強固なものとなり、それは戦争という手段を要請し、しかもそれは国家の単位でなされるにもかかわらず、国家という単位が消滅することはないので、平和も達成されることもなく、人類という単位で、世界政府が誕生することもなく、争いが続いてしまう、と。人類がこの状態を乗り越えるにはより普遍的な価値が登場するしかない。それがない限り、法の支配を暴力が支え続けるしかなく、ホッブスのいう「万人の万人に対する闘争」を抑え込む「リヴァイアサン」が必要という図式が続いてしまうのである。

 私たちはネオコンを率いるブッシュ大統領がアフガニスタンとイラクで何をしたかを知っている。友か敵かの二項対立でイスラム原理主義者、ひいてはイスラム教そのものを我らがキリスト教徒の「敵」(厳密に言えばアルカイダのようなテロリストなのだが、多くのアメリカ人はビンラディンとフセインの政治的主張、立場の区別すらしていなかった)とみなし戦争に踏み切ったが、20年ほど経った今も両国の政治は安定していない。アメリカの「自由」と「民主主義」は普遍的価値足りうるのか、という厳しい問いかけが必要とされる。しかし、アフガニスタンのタリバンの言動を見るに(女性に対し特に酷い)、どう考えてもイスラム教をベースとした前近代的な価値観が勝るとも思われない。シュミットの論建てにある、友と敵が必ず武力をもってして争う、というテーゼが間違いなのだ。アフガン・イラクに関しては、安易に武力に頼ったことが失敗の本質であると思う。2011年に起こったジャスミン革命を思いだすまでもなく、ガンジーやキング牧師を思いだすまでもなく、「友」と「敵」は非暴力の対話、交渉で自由や民主主義、正義と言った普遍的価値を体現出来るのだ。ネオコンの言うような「衝撃と畏怖」に頼らない融和方法、解決方法は必ずある。

 私たちはシュミットの、ある意味当たり前にも思える「政治には敵と友がいる」というテーゼに軽々しく頼るべきではない。あいつらは悪だ、間違っている、だから私たちを支持してください、仲間に、友になりましょう、という呼びかけには、同じ思いなら賛同したくなる。それは決して否定できないし、そこまではいい。同志が集まって政治なら政党が出来る、そして政党同士で政策を批判しあい、善い政策がなされるのが民主主義の理想だ。そして場合によっては選挙がなされ、与野党が入れ替わる。つまり、現状でも私たちはシュミットの極端な理屈は乗り越えているとはいえる。しかし、怖いのは、妄信と言えるレベルで特定の政治思想を、それが資本主義でも自由主義でも共産主義でも国粋主義でも無政府主義でもいいのだが、それだけを妄信すると、暴力に訴え始める。これが一番怖いのだ。どの思想であれ一党独裁になれば終わり。専制と圧迫が始まり、強制収容所が創設されて虐殺が始まる。「敵」を殲滅するのは、シュミットの友敵論が導き出す必然なのだ。だからこそ私たちは絶対にシュミットに与してはならない。暴力、武力に一切頼らずに、法の支配を安定して国家に、世界にもたらすためのあらゆる努力をしなければならない。その第一歩として、自分たちと意見の違う人たちに対して、過剰に攻撃的な言辞も振るうべきではない。今私が取り組んでいるトランス問題において、"Kill the terf"(←Googleの画像検索リンクに飛びます)などというような過激な言辞をすることは絶対に許されないと、これはTRAの人たちに対して強く言っておく。他にもくたばれだの、ならば戦争だなどと言っている人たちがいるが、厳に慎むべきだ、と述べてこの考察は終わりにする。

 

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