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『北条五代』特集 <第二部>北条五代に学ぶ組織の研究 【歴史奉行通信】第七十九号

第一部はこちらから

こんばんは。伊東潤です。
歴史奉行通信第七十九号をお届けします。


いよいよ十二月になりました。
今年はコロナ禍に席巻されましたが、皆さんはどんな年でしたか。

コロナ禍による閉塞感はありましたが、
私にとっては『茶聖』の大ヒットと『囚われの山』の中ヒットもあったので、とてもいい年になりました。
この勢いで来年も攻めまくりたいと思います。

さて、今回は12月7日に控えた『北条五代』の発売を記念した特集の第二弾として、
過去に私が歴史雑誌に寄稿した北条氏のエッセイ
「北条五代に学ぶ組織の研究」をお送りします。
増補改訂版です。

お楽しみください。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. 「北条五代に学ぶ組織の研究」
ー早雲の時代

2. 「北条五代に学ぶ組織の研究」
ー氏綱の時代 / 氏康の時代

3. 「北条五代に学ぶ組織の研究」
ー氏政・氏直の時代

4. おわりに / 感想のお願い

5. お知らせ奉行通信
新刊情報 / 読書会情報 / 講演情報 / その他


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1. 「北条五代に学ぶ組織の研究」
ー早雲の時代

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北条五代は早雲(伊勢新九郎盛時・早雲庵宗瑞)に始まり、氏綱、氏康、氏政と続いて氏直で終わる。
それぞれの置かれた状況に応じて、五代は組織を変えていった。
今回は、北条氏の家臣団組織の発展について書いていきたいと思う。


■早雲の時代

初代の早雲が戦国大名として認知されたのは、
明応七年(一四九八)の伊豆平定戦からだろう。
その後、文亀元年(一五〇一)頃に小田原城を奪取して関東進出への足がかりを摑むが、
関東では「誰それ?」状態で、山内・扇谷の両上杉氏などは「他国の兇徒」と呼んで蔑んでいた。

だがこの頃の早雲は、「明応二年の政変」を起こした細川政元の東国戦線担当、
今川氏の軍事指揮官、そして伊豆国を制した戦国大名という三つの顔をうまく使い分けており、
今川氏の軍勢を借りることで、
着実に勢力を伸ばしていた。

室町幕府の申次衆というエリートであっても、
自前の軍勢どころか家臣も持たない早雲には、
こうした知恵と工夫が必要だったのだ。
つまり今川氏の軍師指揮官として実績を挙げ、
その実績によって兵を借り、
残る二つの仕事をするといった手法だ。

そうした意味で、早雲は従来説通り
「徒手空拳からスタートした」と言ってもいいだろう。
しかし逆に、それが早雲の勢力拡大に貢献したと言えるのだ。

古くから特定の地域に根を張る大名や国人が能力第一主義を採ろうとすれば、
大禄を食むだけの重代相恩の家臣たちのリストラは不可欠で、相当な反発を受けることになる。
中には内乱に陥ることもあるだろう。

毛利元就は重臣筆頭の井上一族を、さしたる理由もなく粛清に踏み切っている。
こうしたことは容易にはできない。
その点、徒手空拳だった早雲は、
フリーハンドで適材適所の人材採用ができた。

伊豆制圧、そして関東進出をしていく過程で、
早雲は有能な人材をスカウトすることで、人材難をクリアしていく。
その結果、家臣団構成はバラエティに富んだものになった。

早雲の家臣を分類すると、第一群は初期から仕えていた者たち、
すなわち「御由緒六家」と呼ばれる大道寺氏、山中氏、荒川氏、多目氏、在竹氏、荒木氏になる。
このうちで大道寺・山中両氏以外は、
代を重ねるごとに影が薄くなっていった。
そこからすると、北条氏には実力主義が浸透していたと見ていいだろう。
なお最近の研究では、重臣の家柄の笠原氏も第一群とする見方が出ている。

第二群として今川氏家臣から転入した者たちがいる。
氏綱の代には軍事専門の福島(くしま)氏などが入ってくることで数が増えるが、
早雲の時代は、駿河国駿東郡の葛山(かずらやま)氏くらいしか見あたらない。

第三群は、京都から連れてきた者たちだ。
筆頭家老の地位を占める松田氏は、幕府の奉公衆だったという。
また早雲の正室の実家である小笠原氏や、
室町幕府の政所執事の伊勢氏から家臣に加わった者もいる。

第四群は伊豆の国人衆で、清水氏、狩野(かのう)氏、垪和(はが)氏、板部岡(いたべおか)氏、富永氏など数は多い。
第五群は旧堀越公方の家臣だ。
有力な家臣としては遠山氏、笠原氏、布施氏、大草氏、蔭山氏などだが、遠山氏は幕府奉公衆だったとする説もある。
この第四群と第五群が初期北条氏の主力家臣となっていく。

第六群は、扇谷上杉領に攻め入る過程で家臣化した国人たちだ。
臣従した時期は微妙(おそらく氏綱の時代)だが、
津久井の内藤氏と武蔵の吉良(きら)氏が代表格であろう。

第七群は相模国の国人衆で、小田原周辺では相模松田氏、平塚の佐奈田氏、さらに三浦の水軍衆を取り込んでいる。

なお、今川氏のために遠江や三河へと遠征した際、三河の石巻氏を家臣化しているが、
これは珍しいケースだ。

早雲の人材スカウトで注目すべきは、
幕府や堀越公方の能吏を引き抜いている点だ。
戦国大名の家臣というと、
武将としての能力に重きを置かれがちだが、
早雲は「領国統治の重要性」を知っており、
有能な吏僚を多数スカウトしていたのだ。

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2. 「北条五代に学ぶ組織の研究」
ー氏綱の時代 / 氏康の時代

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■氏綱の時代

本格的な関東進出が始まる二代・氏綱の時代においては、
天文五年(一五三六)に駿河国で勃発した「花蔵(はなくら)の乱」の影響が大きい。

花蔵の乱とは今川氏輝の死後に生じた家督争いで、
栴岳承芳(せんがくしょうほう)(今川義元)が重臣の福島氏の娘が産んだ玄広恵探(げんこうえたん)を破った戦いだ。
この内訌で敗者となり、居場所を失った者たちを氏綱は迎え入れている。
その中で最も有名なのは福島綱成だろう。

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