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音楽の中の身体性

ピナ・バウシュ

実は私はバレエが大好きで、それも古典バレエではなくモダンバレエ、というか今は亡きピナ・バウシュのヴッパータール舞踏団 (Wuppertal Tanztheater) の大ファンだ。

ピナ・バウシュのことを何で知ったのかはもう覚えていないけど、初めて観たのは『春の祭典 / カフェ・ミュラー 』の2本立てプログラムだった。会場は彼らの本拠地であるヴッパータールの劇場で、大好きなストラヴィンスキーの『春の祭典』目当てに行き、期待以上にすっかり心酔したのだけど、後までずっと心にひっかかって記憶の中で反芻していたのは『カフェ・ミュラー』の方だったのかもしれない。私の初モダンバレエ体験だった。以来古典バレエからすっかり遠ざかってしまった。

ボリショイバレエ団とスヴェトラーナ・ザハーロワ

話は変わるが、最近3歳の娘と一緒に時々ボリショイ・バレエ団によるチャイコフスキー三大バレエの3枚組DVD(というかブルーレイなんだけども)を鑑賞している。バレエを習っていた姉の影響で、私自身チャイコフスキーの三大バレエを繰り返し見て育ってきたのだけど、このDVDは素晴らしい!ロシアバレエのレベルの高さにつくづく舌を巻く。まずはボリショイ劇場の演出の華やかさ、芸の細かさ。舞台は奥行き深く天井も高く、舞台装飾がとにかく素晴らしい。衣装や美術センスも申し分なく、とても立体的にあらゆる角度から観る人を楽しませてくれる。映像の編集も良い。

大人もすっかり夢中だけど、子どもだって飽きずにずっと、そして何度も観ている。(DVDは細部まで見られるのでとても良い。)そしてオケの生演奏というのがまた素晴らしい。バレエにぴったり寄り添い、『白鳥の湖』のオデットと王子のパ・ド・ドゥでは、これでもかというスローで泣かせるバイオリンのソロが聴ける。管弦楽版ではこんなにこってりと聴かせることはなかなかない。

そして何と言ってもダンサーのレベルの高さ!すっかり虜になってしまったのは、ボリショイバレエ団のプリンシパル、スヴェトラーナ・ザハーロワだ。

圧倒的なプロポーションや柔軟性もすごいけど、一つ一つのポーズが見事に決まり、ブレない。私は彼女が足を高く上げるところで、何度見ても叫び声をあげてしまう。なんて美しい。絶対的な女王というオーラ!!(それでいて結構大きな娘さんがいらっしゃるママだとか。信じられない。)『白鳥の湖』では儚げで繊細で悲劇的なオデットと、悪魔の娘として妖しい魅力で王子を虜にする黒鳥、オディールを主役が1人で踊り分けるのだけど、ザハーロワの黒鳥はさっきまで(オデット)とは本当に別人のように妖しく、悪魔的な力が宿って、その力のみなぎり方に本当にぞくぞくした。圧巻でした。1964年から32年もボリショイバレエ団を率いたというグリコローヴィチの振付の妙も見どころ。ちなみにチャイコフスキーの『白鳥の湖』はボリショイが初演だったけど、当時は成功せず、20年ほどたってからマリインスキー劇場でフランス人振付家、マリウス・プティパの振付で蘇演したところ大当たりした。当時バレエはボリショイよりマリインスキー劇場がロシアの中心的会場であった。ボリショイ劇場が世界的に有名になったのは、ロシア革命でロシア帝国が解体し、国策として旧ソ連がボリショイバレエ団を、国を代表する組織にすべく強化したため。なんともロシアらしい。

バレエにおける「道化師」の存在

それにしてもボリショイのバレエを見て改めて感じるのは、「踊ること」はもちろんだけど、ダンサーには相当な演技力が要求されるということ。日本のバレエ団を見ていると、そのことを時々忘れてしまう。バレエには基本的にセリフがない。さすがに長年見ていないと三大バレエのストーリーも怪しくなっている訳だけど、ボリショイの舞台はそれが全く困らない。ダンサーってこんなに演技力豊かなのか、と愕然とするほど能弁なのです。そしてなかでもとりわけ演技力が際立つのが、三作品に共通して出てくる「道化師」的な役割のキャラクター。

かつて見た私の記憶上の『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』には、この「道化師」キャラクターは殆ど印象にない。しかしボリショイ版では(バレエの諸知識に乏しいので、それが通例なのかわかりませんが)この「道化師」が舞台全体の鍵を握るかのように登場し、そこにエッセンス以上の何かがあるようが気がする。「道化師」的キャラクターは作品によっては「道化師(ピエロ)」であり、あるいは舞踏会の進行役のような人物、あるいは王様の家来だったりする。とにかく、本編に直接関係がないくせに、喜劇的で演技力豊かで、観るものに強い印象を残すキャラクターが出てくるのである。特に『白鳥の湖』では、道化師に高いダンス力が求められ、王子以上に見事!と思わせるシーンさえある。三大バレエはいずれも「王宮」が舞台になるので、その場面に「道化師」が出てくるのは、おそらくはヨーロッパの宮廷道化師がかつて実際にいたからであろうけど、ひょっとしたらこれもR.シュトラウスやプッチーニのオペラ作品や、かつてはシェイクスピアにも影響を与えたイタリア生まれの演劇「コメディア・デラルテ」のキャラクターの名残なのか。20世紀初めにはシェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』やストラヴィンスキーの『プルチネルラ』など、「コメディア・デラルテ」に由来するピエロは題材としてよく使用されるのだけど、チャイコフスキーと関連性があるかはよくわからない。

音楽の中の身体性

ところで、先述のザハーロワの夫はワディム・レーピンという世界的なヴァイオリニストで、夫婦のデュオで来日というのが2年前から実現している。つまりレーピンのバイオリンでザハーロワが躍るのである。2017年のプログラムを眺めていると、個人的には定番の「瀕死の白鳥」よりも現代的なプログラムと思われる「アモーレ」に強い興味がある。レーピンが主催する「トランス=シベリア芸術祭2019」(2014年にシベリアでスタート)での企画だが、今年の公演は来月6月8日(土)18:00よりBUNKAMURA オーチャードホールにて。行きたすぎる(仕事がある・・・)

ザハーロワとレーピンのバイオリンとバレエのデュオにも表れるように、バレエは通常音楽と共にある。「バレエ音楽」だけでなく、当然音楽のあるところにバレエは生まれ得るのである。そもそもバロック音楽なんかは殆どが舞曲と言っても良いほどで、身体の動き、体重移動がそのまま音楽と結びついている。舞曲と関係がなかったとしても、例えばバッハのトッカータやフーガのそこここにも、人間の呼吸と身体の動きを感じるメロディーやフレーズなんかがある。メロディーの動きや和音には拍節やリズム以外の重心が存在し、音の質というのは、音を身体的に捉えることから始まるのではないかと思う。

最も顕著なのは、現代の作品である。和声やメロディー、リズムがつかみ難い、もしくは殆どそれらが聴かれない現代の作品を、「バレエ」や「身体性」とほど遠いものと捉える演奏家も多いかもしれない(聴く人はもちろんのこと)。だけど現代の作品に向き合うほど、良い作品には音のひとつひとつに動きや方向性、重心や指向性を感じる。そしてそこにとんでもない美しさが隠れていたりする。それはまさに身体性ーバレエーなのではないか。

冒頭に挙げたピナ・バウシュのバレエには似たものを感じる。日常の風景や何気ない音にも、普段見逃している身体性が潜んでいるのだと気付かされる。一見「バレエ的」ではない動き、日常的なしぐさから生まれたもの、反復などがモチーフになる。荒々しさや人を不安にさせる動き、不快さ、虚無感、欲望、邪心などもそこにある。だけどそれらのどこかに「美しさ」があり、一連のTheater  (シアター)という形を取ることで、深いところから観るものに揺さぶりをかける。共感と反発。そんなバレエだと思う。身体表現の奥深さを感じる。

少しだけでも伝われば。踊っているのはもちろんピナ・バウシュではない。(この投稿の看板写真がピナ。)




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